
3-3、日本人で初めての写真撮影された人物
By 宇宿彦右衛門など。 – 尚古集成館所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link
日本人初の写真撮影された人物が斉彬。写真が渡来したのは嘉永年間で、最初に斉彬を撮影したものが、尚古集成館に保存。
斉彬は自身でも撮影技術自体にも興味をもち、城や娘たちを自ら撮影するなど、斉彬が撮影した写真は、当時の技術では上出来だったそう。
3-4、日本の国旗、日の丸は斉彬の考案
日の丸は、もともと軍扇や船印などに使われていましたが、薩摩藩が幕末に船の印が必要になったとき、「日本船印は白地日の丸幟」と決めたのが最初。
そして、嘉永7年(1854年)3月の日米和親条約調印後、外国船と区別するための標識が必要になり、斉彬がすでに薩摩藩で使っていた「日の丸」を「日本総船の船印」として採用するよう幕府に提言、水戸の徳川斉昭などが支持して実現したということ。
安政2年(1855年)、薩摩藩が作った昇平丸を幕府に献上したとき日の丸の旗も付けていて、日本国旗(船旗)として最初のものとなって、その後明治政府に引き継がれて正式な国旗になったのですね。
3-5、贋金作り
薩摩藩には天保改革の調所広郷の事業で贋金造りも行っていて「お金方」と言ったということ。調所広郷は金メッキ、銀メッキの一分金や二分銀を製造、しかし藩外に出たかは不明。斉彬は幕府が寛永通宝を天保通宝に改鋳(同一貨幣で価値が25倍増加)する利益の莫大さに目をつけて、極秘に江戸の鋳物師を招いて「お金方」事業を推進させたそう。
斉彬の急死でこの計画は頓挫したものの、薩摩藩は幕府から2割の幕府献納を条件に百万両の鋳造承認を得て、この事業を再開。3年間に290万両を鋳造して、収益の多くは倒幕の軍資金に。
3-6、斉彬子女、次々夭折
斉彬は、文政9年(1826年)に、一橋斉敦の娘英姫(ふさひめ、恒姫と改名)と結婚し、側室も数人いて多数の子供が生まれたのですが、次々と夭折し、成人したのは娘3人のみ。
これが久光を藩主にしたいがため、斉彬の血筋撲滅を狙ったお由羅の呪詛というもっぱらの噂でした。
斉彬はお由羅のことは嫌っていたが、弟の久光は可愛がっていて仲も良好だったということです。
斉彬は、自分の藩主就任に反対した重臣を辞めさせず留任させたくらいで、国難が迫っているときに薩摩藩内が分裂し紛糾しては対処できないという思いを持っていたそう。
自分の後の藩主は、久光の息子と自分の娘を結婚させて跡継ぎにするようにと決めたのも、やはり島津家を内紛で分裂させないようにとの深慮であったように感じますね。
斉彬は「君主は愛憎で人を判断してはならない」という言を残しています。
殿様の枠を超えたスケールの大きな人物だった
斉彬は生まれたときから薩摩藩主の跡継ぎの長男、300年来の頭脳と言われるほどで権力者の曾祖父にも可愛がられたのに、父には警戒されて42歳まで藩主になれず。
しかしそのことで僻んだり弟久光と険悪になったりせず、あくまで開国の後の国造り、富国強兵にと邁進し、西郷隆盛などの人材育成まで怠らず、そして幕府にも提言していた慧眼の人。
斉彬の偉業を見直していると、他の人物と較べられないような大人物で、先のことまで見通して物事を推し進めていた感があり、もう少し長生きしていればと悔やまれます。