
2-5、斉彬、江戸城大奥に従妹の篤姫を送り込む
前述のように、斉彬の曾祖父は11代家斉の正室広大院の岳父として権勢をふるったこともあり、斉彬は自分の娘を13代将軍家定の正室として送り込もうとしましたが、息子、娘がほとんど夭折して育っていなかったので、分家の娘で従妹にあたる篤姫に白羽の矢を。篤姫を嫁がせたうえに京都の公家を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を朝廷に請願。
一方、大老井伊直弼は、南紀派として紀州藩主の幼い徳川慶福(よしとみ)をプッシュ、そして直弼は大老として強権を発動、反対派を弾圧する安政の大獄を。結果、慶福が第14代将軍家茂となったのでした。
尚、斉彬はしっかりした篤姫が大奥で影響力を持ち、一橋慶喜を14代将軍擁立が成功するように画策したものの、篤姫はすっかり大奥に染まって水戸の斉昭も慶喜も嫌ってしまい、思惑通りにいかず。
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2-6、突然の最期
斉彬は安政の大獄に対し、藩兵5000人を率いて抗議のため上洛することを計画。しかし、安政5年7月8日(1858年8月16日)、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病し、7月16日(新暦:8月24日)に享年50歳(49)で死去。斉彬は死後、照国神社に祀られています。
2-7、斉彬の死因
斉彬の死因は、当時日本で流行していたコレラという説が有力。
しかしあまりにも急だったこと、斉彬の息子たちが次々と夭逝していることから、まだ健在だった父斉興やその側室お由羅、異母弟久光らの毒殺ではという噂が。
斉彬の死後、遺言によって弟久光の長男忠義に斉彬の長女を嫁がせるという条件で仮養子として11代藩主に、そして斉彬の6男で唯一生き残っていた哲丸が成人後、忠義の後継者にと指名していたが、哲丸は安政6年(1859年)に3歳で夭折。
3-1、斉彬の逸話
名君として、また新しいもの好きの逸話が多く残されています。
3-2、4賢候のひとり
松平慶永(福井藩主)、山内豊信(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らと並んで幕末の四賢侯と称されたが、人物批評好きの松平慶永によれば、どの殿様も斉彬に及ばないほどの存在感があったそう。
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