その辺のところを幕末明治維新にやたらと詳しいというあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、島津斉彬は薩摩藩主11代目
- 1-2、母が賢かった
- 1-3、斉彬の曾祖父重豪とは
- 1-4、斉彬、父には気に入られず
- 1-5、お由羅騒動(高崎崩れ)
- 2-1、斉彬、42歳で藩主に
- 2-2、斉彬、中浜万次郎を取り調べ
- 2-3、斉彬、西郷隆盛を見出す
- 2-4、斉彬、大名仲間と幕府に意見を
- 2-5、斉彬、江戸城大奥に従妹の篤姫を送り込む
- 2-6、突然の最期
- 2-7、斉彬の死因
- 3-1、斉彬の逸話
- 3-2、4賢候のひとり
- 3-3、日本人で初めての写真撮影された人物
- 3-4、日本の国旗、日の丸は斉彬の考案
- 3-5、贋金作り
- 3-6、斉彬子女、次々夭折
- 殿様の枠を超えたスケールの大きな人物だった
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新には勤王佐幕を問わず昔から興味津々。同時代人の誰もが褒めちぎる賢侯島津斉彬について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、島津斉彬は薩摩藩主11代目
斉彬(なりあきら)は、文化6年3月14日(1809年4月28日)島津斉興の長男として江戸薩摩藩邸で誕生。母は正室の弥姫(周子)で、斉彬の実の弟は後の岡山藩主池田斉敏、妹は候姫(山内豊熈室)、異母弟として久光がいます。父斉興は斉彬が生まれたとき18歳で、同じ年の6月に10代藩主に。
尚、島津家は鎌倉以来の名家なので、斉彬は薩摩藩としては11代藩主ですが、島津家としては28代になります。
こちらの記事もおすすめ
明治政府の内閣顧問にも就任!政治家「島津久光」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説
1-2、母が賢かった
斉彬の母弥姫(いやひめ)周子(かねこ)は、鳥取藩主池田治道の娘。
実母は正室生姫(暾子、仙台藩7代目藩主伊達重村の娘)。
弥姫の異母兄には鳥取藩主の池田斉邦と池田斉稷、そして異母妹の姚姫は佐賀藩主鍋島斉直に嫁いで鍋島直正(閑叟(かんそう)を産んだ人なので、斉彬と直正は従兄弟どうしですね。
そのうえに弥姫は賢夫人として知られていて、嫁入り道具に「四書五経」、「左伝」、「史記」、「漢箱」を大量に持ち込み、子供たちにも教えたほどの才媛。そしてこの時代には珍しく、斉彬はじめ3人の子供に乳母をつけず、弥姫自身が母乳で育てて養育し、勉強も教えたそう。また弥姫自身も和歌や漢文の作品を多く残しているということ。
しかし弥姫は文政7年(1824年)、斉彬15歳のときに享年34歳で死去。
信長の血は引いていない
斉彬は母のおかげで、徳川家康、伊達政宗、池田輝政の血をひいています。
が、「弥姫は、織田信長の血をひいている」とネットにあったので調べたのですが、これは間違い。
信長の女系の、岡山の池田光政正室で綱政母である本多勝姫、すなわち、徳川秀忠とお江の娘の千姫と、2度目の結婚相手の本多忠刻(本多忠勝の孫、忠刻母は、家康長男の岡崎信康と、正室で信長娘の五徳姫の娘熊姫なので、忠刻は家康と信長の曽孫)の娘が関わっていればの話。
しかし、鳥取藩池田家は池田輝政の後室で家康の娘督姫の子孫、勝姫が嫁いだ光政は輝政の長男(母は前妻中川清秀娘の糸姫)利隆息子の岡山藩池田家なので、鳥取藩池田家出身の弥姫とその息子斉彬には、信長の血は入っていないはずです。
1-3、斉彬の曾祖父重豪とは
By 不明 – 照国神社所蔵, パブリック・ドメイン, Link
斉彬の曾祖父は8代藩主重豪(しげひで)です。
オランダ語を勉強したというハイカラな新しもの好きで、蘭癖(らんぺき)大名と言われる人。
重豪は、分家から入って11歳で本家の藩主となり、最初は年少のため祖父の継豊が藩政を担いましたが、親政を開始後、安永元年(1771年)には教育普及のために、藩校造士館、武芸稽古場の演武館を設立し、安永2年(1773年)には、暦学や天文学の研究のための明時館(天文館)を設立、安永3年(1774年)に医療技術の養成のために医学院を設立。そして、娘の茂姫が徳川家斉の御台所となり将軍岳父に、そして息子や娘を有力大名と結婚させて島津家と他大名の親戚ネットワーク作りをして勢力増大し、高輪下馬将軍と言われました。
が、藩校などの建築も、将軍や大名とのつきあいに伴う出費も、西洋の骨董品収集の趣味の出費もばかにならず、藩の財政は火の車に。重豪は、天明7年(1787年)、43歳で隠居したもののその後46年間、孫の代になっても実権を掌握。
息子の斉宣が、樺山主税、秩父太郎ら近思録派を登用して緊縮財政政策を行なおうとしたとき、贅沢好きの重豪はその政策に反対して斉宣を隠居させ、孫の斉興を擁立、その後見人となって政権を握ったお家騒動(近思録崩れ)も。
晩年になってやっと重豪は藩の財政改革に取り組み、下級武士の調所広郷を重用して、新田開発なども行い、調所の財政再建はその後の孫斉興の親政時に成果が。
重豪は、斉彬が生まれた頃もまだ元気はつらつで、80歳過ぎても鹿児島と江戸を行き来していたほど。斉彬はこの曾祖父に大変可愛がられて、大名には珍しく一緒に暮らしてお風呂に入ったというほどで、重豪がシーボルトに会ったときも一緒にいたなど、かなり影響を受けたと言われています。重豪が天保4年1月15日(1833年3月6日)89歳で亡くなったとき、斉彬は24歳でした。
1-4、斉彬、父には気に入られず
薩摩藩の大御所の曾祖父重豪に可愛がられ聡明だと評判の跡継ぎ斉彬は、将来の藩主として申し分ないはずでした。もちろん曾祖父に影響を受けて洋学に興味をもったのですが、これが周囲の目に蘭癖=贅沢癖と映ったことで、薩摩藩を二分する抗争の原因の一つに。
これはやはり斉彬の父で重豪孫の斉興の代に、重豪の作った莫大な負債を必死で財政改革をしてやっと藩財政を立て直したのに、また斉彬が借金を作るとしか思えなかったのでしょう。
もうひとつ斉興にはお由羅という愛妾がいて、文化14年(1817年)生まれの斉彬には8歳下の異母弟になる久光が生まれたんですね。
斉興はこのお由良を愛するあまり、久光を後継ぎにしたいと思ったわけです。
ということで、斉興は18歳違いの息子斉彬が40歳を過ぎても家督を譲らず。
\次のページで「1-5、お由羅騒動(高崎崩れ)」を解説!/