今回は島津斉彬を取り上げるぞ。幕末4賢侯のひとりで、飛びぬけて賢いと評判の殿様ですね。

その辺のところを幕末明治維新にやたらと詳しいというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新には勤王佐幕を問わず昔から興味津々。同時代人の誰もが褒めちぎる賢侯島津斉彬について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、島津斉彬は薩摩藩主11代目

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斉彬(なりあきら)は、文化6年3月14日(1809年4月28日)島津斉興の長男として江戸薩摩藩邸で誕生。母は正室の弥姫(周子)で、斉彬の実の弟は後の岡山藩主池田斉敏、妹は候姫(山内豊熈室)、異母弟として久光がいます。父斉興は斉彬が生まれたとき18歳で、同じ年の6月に10代藩主に。

尚、島津家は鎌倉以来の名家なので、斉彬は薩摩藩としては11代藩主ですが、島津家としては28代になります。

1-2、母が賢かった

斉彬の母弥姫(いやひめ)周子(かねこ)は、鳥取藩主池田治道の娘。

実母は正室生姫(暾子、仙台藩7代目藩主伊達重村の娘)。

弥姫の異母兄には鳥取藩主の池田斉邦と池田斉稷、そして異母妹の姚姫は佐賀藩主鍋島斉直に嫁いで鍋島直正(閑叟(かんそう)を産んだ人なので、斉彬と直正は従兄弟どうしですね。

そのうえに弥姫は賢夫人として知られていて、嫁入り道具に「四書五経」、「左伝」、「史記」、「漢箱」を大量に持ち込み、子供たちにも教えたほどの才媛。そしてこの時代には珍しく、斉彬はじめ3人の子供に乳母をつけず、弥姫自身が母乳で育てて養育し、勉強も教えたそう。また弥姫自身も和歌や漢文の作品を多く残しているということ。

しかし弥姫は文政7年(1824年)、斉彬15歳のときに享年34歳で死去。

信長の血は引いていない

斉彬は母のおかげで、徳川家康、伊達政宗、池田輝政の血をひいています。
が、「弥姫は、織田信長の血をひいている」とネットにあったので調べたのですが、これは間違い。

信長の女系の、岡山の池田光政正室で綱政母である本多勝姫、すなわち、徳川秀忠とお江の娘の千姫と、2度目の結婚相手の本多忠刻(本多忠勝の孫、忠刻母は、家康長男の岡崎信康と、正室で信長娘の五徳姫の娘熊姫なので、忠刻は家康と信長の曽孫)の娘が関わっていればの話。

しかし、鳥取藩池田家は池田輝政の後室で家康の娘督姫の子孫、勝姫が嫁いだ光政は輝政の長男(母は前妻中川清秀娘の糸姫)利隆息子の岡山藩池田家なので、鳥取藩池田家出身の弥姫とその息子斉彬には、信長の血は入っていないはずです。

1-3、斉彬の曾祖父重豪とは

島津重豪.jpg
By 不明 - 照国神社所蔵, パブリック・ドメイン, Link

斉彬の曾祖父は8代藩主重豪(しげひで)です。
オランダ語を勉強したというハイカラな新しもの好きで、蘭癖(らんぺき)大名と言われる人。

重豪は、分家から入って11歳で本家の藩主となり、最初は年少のため祖父の継豊が藩政を担いましたが、親政を開始後、安永元年(1771年)には教育普及のために、藩校造士館、武芸稽古場の演武館を設立し、安永2年(1773年)には、暦学や天文学の研究のための明時館(天文館)を設立、安永3年(1774年)に医療技術の養成のために医学院を設立。そして、娘の茂姫が徳川家斉の御台所となり将軍岳父に、そして息子や娘を有力大名と結婚させて島津家と他大名の親戚ネットワーク作りをして勢力増大し、高輪下馬将軍と言われました

が、藩校などの建築も、将軍や大名とのつきあいに伴う出費も、西洋の骨董品収集の趣味の出費もばかにならず、藩の財政は火の車に。重豪は、天明7年(1787年)、43歳で隠居したもののその後46年間、孫の代になっても実権を掌握。

息子の斉宣が、樺山主税、秩父太郎ら近思録派を登用して緊縮財政政策を行なおうとしたとき、贅沢好きの重豪はその政策に反対して斉宣を隠居させ、孫の斉興を擁立、その後見人となって政権を握ったお家騒動(近思録崩れ)も

晩年になってやっと重豪は藩の財政改革に取り組み、下級武士の調所広郷を重用して、新田開発なども行い、調所の財政再建はその後の孫斉興の親政時に成果が。

重豪は、斉彬が生まれた頃もまだ元気はつらつで、80歳過ぎても鹿児島と江戸を行き来していたほど。斉彬はこの曾祖父に大変可愛がられて、大名には珍しく一緒に暮らしてお風呂に入ったというほどで、重豪がシーボルトに会ったときも一緒にいたなど、かなり影響を受けたと言われています。重豪が天保4年1月15日(1833年3月6日)89歳で亡くなったとき、斉彬は24歳でした。

1-4、斉彬、父には気に入られず

薩摩藩の大御所の曾祖父重豪に可愛がられ聡明だと評判の跡継ぎ斉彬は、将来の藩主として申し分ないはずでした。もちろん曾祖父に影響を受けて洋学に興味をもったのですが、これが周囲の目に蘭癖=贅沢癖と映ったことで、薩摩藩を二分する抗争の原因の一つに

これはやはり斉彬の父で重豪孫の斉興の代に、重豪の作った莫大な負債を必死で財政改革をしてやっと藩財政を立て直したのに、また斉彬が借金を作るとしか思えなかったのでしょう。

もうひとつ斉興にはお由羅という愛妾がいて、文化14年(1817年)生まれの斉彬には8歳下の異母弟になる久光が生まれたんですね。
斉興はこのお由良を愛するあまり、久光を後継ぎにしたいと思ったわけです。
ということで、斉興は18歳違いの息子斉彬が40歳を過ぎても家督を譲らず。

\次のページで「1-5、お由羅騒動(高崎崩れ)」を解説!/

1-5、お由羅騒動(高崎崩れ)

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By 原田直次郎 - 尚古集成館所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

こういう理由で薩摩藩の家臣たちも、嫡子の斉彬派と藩主斉興とお由羅、久光派の家老調所広郷で真っ二つ。

嘉永2年(1849年)12月に、お由羅騒動が勃発。これは斉彬の擁立を望む山田清安、高崎五郎右衛門、近藤隆左衛門ら50余名が企てたという、対立する久光とその生母お由羅の方の暗殺計画が事前に露見して自害させられた事件。

その後も藩内では斉彬派と久光派に分かれて対立が絶えず、斉彬派の4人が必死で脱藩、斉興の叔父で重豪の息子の筑前福岡藩主黒田斉溥に援助を求め、斉溥の仲介で斉彬と親しかった幕府老中阿部正弘、伊予宇和島藩主伊達宗城、越前福井藩主松平慶永らが事態収拾に動いて、やっと嘉永4年(1851年)2月に斉興が隠居し、斉彬が42歳で第11代藩主に。

2-1、斉彬、42歳で藩主に

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By Nariakira_Shimazu.jpg: published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) derivative work: Beao - Nariakira_Shimazu.jpg, パブリック・ドメイン, Link

斉彬は藩主に就任すると、藩の富国強兵に努めるために、洋式造船、反射炉と溶鉱炉の建設、地雷、水雷、ガラス、ガス灯の製造などの集成館事業を興しました。
嘉永4年7月(1851年8月)には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護して藩士に造船法などを学ばせ、安政元年(1854年)には洋式帆船「いろは丸」を完成、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興したり、西洋式軍艦「昇平丸」を建造して幕府に献上したり、黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試みて(伊達宗城や鍋島直正と競争)、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」を。

2-2、斉彬、中浜万次郎を取り調べ

中浜万次郎は、土佐の漁船が難破してアメリカの捕鯨船に助けられてアメリカへ渡り、大学教育を受けた人ですが、嘉永4年(1851年)日本に帰国するため琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、尋問を受けた後に薩摩本土に送られました。

万次郎達は薩摩藩の取調べを受けたのですが、薩摩藩では万次郎一行を厚遇し、斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問したということ
そして斉彬の命令で、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教授した後、薩摩藩では独自に万次郎の情報を元に和洋折衷船の越通船を建造。斉彬は万次郎の英語と造船知識に注目して、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招聘。

2-3、斉彬、西郷隆盛を見出す

西郷隆盛は薩摩藩下士の家柄の出身で、殿さまのお目見えではなかったのですが、安政元年(1854年)、上書が認められ、斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に。4月、御庭方役となって、斉彬から直接教えを受けるようになり、斉彬の用を仰せつかったり、斉彬に紹介されたりで、他藩の水戸藩の藤田東湖や越前藩の橋本左内、幕臣の勝海舟とも知り合ったということ。

西郷は斉彬が亡くなったとき、号泣して殉死しようとまでしたそうなので、よほど心酔していたのですね。

2-4、斉彬、大名仲間と幕府に意見を

斉彬は藩主になる以前から、越前の松平慶永(春嶽)、宇和島の伊達宗城、土佐の山内豊信、水戸の徳川斉昭、尾張の徳川慶勝らと交流がありました。
そして斉彬は、彼らと一緒になって幕政に積極的に口を挟むようになり、老中阿部正弘に安政の幕政改革を希望。

特に黒船来航以来の難局を打開するには、公武合体、武備開国を主張。
しかし、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立。第13代将軍家定が病弱で嗣子が期待できなかったため、宗城ほかの四賢侯、斉昭らと共に、次期将軍として斉昭の子の一橋慶喜を強力にプッシュ。

\次のページで「2-5、斉彬、江戸城大奥に従妹の篤姫を送り込む」を解説!/

2-5、斉彬、江戸城大奥に従妹の篤姫を送り込む

前述のように、斉彬の曾祖父は11代家斉の正室広大院の岳父として権勢をふるったこともあり、斉彬は自分の娘を13代将軍家定の正室として送り込もうとしましたが、息子、娘がほとんど夭折して育っていなかったので、分家の娘で従妹にあたる篤姫に白羽の矢を。篤姫を嫁がせたうえに京都の公家を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を朝廷に請願。

一方、大老井伊直弼は、南紀派として紀州藩主の幼い徳川慶福(よしとみ)をプッシュ、そして直弼は大老として強権を発動、反対派を弾圧する安政の大獄を。結果、慶福が第14代将軍家茂となったのでした。

尚、斉彬はしっかりした篤姫が大奥で影響力を持ち、一橋慶喜を14代将軍擁立が成功するように画策したものの、篤姫はすっかり大奥に染まって水戸の斉昭も慶喜も嫌ってしまい、思惑通りにいかず。

2-6、突然の最期

斉彬は安政の大獄に対し、藩兵5000人を率いて抗議のため上洛することを計画。しかし、安政5年7月8日(1858年8月16日)、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病し、7月16日(新暦:8月24日)に享年50歳(49)で死去。斉彬は死後、照国神社に祀られています。

2-7、斉彬の死因

斉彬の死因は、当時日本で流行していたコレラという説が有力。
しかしあまりにも急だったこと、斉彬の息子たちが次々と夭逝していることから、まだ健在だった父斉興やその側室お由羅、異母弟久光らの毒殺ではという噂が。
斉彬の死後、遺言によって弟久光の長男忠義に斉彬の長女を嫁がせるという条件で仮養子として11代藩主に、そして斉彬の6男で唯一生き残っていた哲丸が成人後、忠義の後継者にと指名していたが、哲丸は安政6年(1859年)に3歳で夭折。

3-1、斉彬の逸話

名君として、また新しいもの好きの逸話が多く残されています。

3-2、4賢候のひとり

松平慶永(福井藩主)、山内豊信(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らと並んで幕末の四賢侯と称されたが、人物批評好きの松平慶永によれば、どの殿様も斉彬に及ばないほどの存在感があったそう。

\次のページで「3-3、日本人で初めての写真撮影された人物」を解説!/

3-3、日本人で初めての写真撮影された人物

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By 宇宿彦右衛門など。 - 尚古集成館所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

日本人初の写真撮影された人物が斉彬。写真が渡来したのは嘉永年間で、最初に斉彬を撮影したものが、尚古集成館に保存。

斉彬は自身でも撮影技術自体にも興味をもち、城や娘たちを自ら撮影するなど、斉彬が撮影した写真は、当時の技術では上出来だったそう。

3-4、日本の国旗、日の丸は斉彬の考案

日の丸は、もともと軍扇や船印などに使われていましたが、薩摩藩が幕末に船の印が必要になったとき、「日本船印は白地日の丸幟」と決めたのが最初。

そして、嘉永7年(1854年)3月の日米和親条約調印後、外国船と区別するための標識が必要になり、斉彬がすでに薩摩藩で使っていた「日の丸」を「日本総船の船印」として採用するよう幕府に提言、水戸の徳川斉昭などが支持して実現したということ。

安政2年(1855年)、薩摩藩が作った昇平丸を幕府に献上したとき日の丸の旗も付けていて、日本国旗(船旗)として最初のものとなって、その後明治政府に引き継がれて正式な国旗になったのですね。

3-5、贋金作り

薩摩藩には天保改革の調所広郷の事業で贋金造りも行っていて「お金方」と言ったということ。調所広郷は金メッキ、銀メッキの一分金や二分銀を製造、しかし藩外に出たかは不明。斉彬は幕府が寛永通宝を天保通宝に改鋳(同一貨幣で価値が25倍増加)する利益の莫大さに目をつけて、極秘に江戸の鋳物師を招いて「お金方」事業を推進させたそう。

斉彬の急死でこの計画は頓挫したものの、薩摩藩は幕府から2割の幕府献納を条件に百万両の鋳造承認を得て、この事業を再開。3年間に290万両を鋳造して、収益の多くは倒幕の軍資金に。

3-6、斉彬子女、次々夭折

斉彬は、文政9年(1826年)に、一橋斉敦の娘英姫(ふさひめ、恒姫と改名)と結婚し、側室も数人いて多数の子供が生まれたのですが、次々と夭折し、成人したのは娘3人のみ。
これが久光を藩主にしたいがため、斉彬の血筋撲滅を狙ったお由羅の呪詛というもっぱらの噂でした。
斉彬はお由羅のことは嫌っていたが、弟の久光は可愛がっていて仲も良好だったということです。

斉彬は、自分の藩主就任に反対した重臣を辞めさせず留任させたくらいで、国難が迫っているときに薩摩藩内が分裂し紛糾しては対処できないという思いを持っていたそう。
自分の後の藩主は、久光の息子と自分の娘を結婚させて跡継ぎにするようにと決めたのも、やはり島津家を内紛で分裂させないようにとの深慮であったように感じますね。
斉彬は「君主は愛憎で人を判断してはならない」という言を残しています。

殿様の枠を超えたスケールの大きな人物だった

斉彬は生まれたときから薩摩藩主の跡継ぎの長男、300年来の頭脳と言われるほどで権力者の曾祖父にも可愛がられたのに、父には警戒されて42歳まで藩主になれず。

しかしそのことで僻んだり弟久光と険悪になったりせず、あくまで開国の後の国造り、富国強兵にと邁進し、西郷隆盛などの人材育成まで怠らず、そして幕府にも提言していた慧眼の人。

斉彬の偉業を見直していると、他の人物と較べられないような大人物で、先のことまで見通して物事を推し進めていた感があり、もう少し長生きしていればと悔やまれます。

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幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

西郷隆盛を指導し薩摩藩を近代化した賢侯「島津斉彬」について歴女がわかりやすく解説

今回は島津斉彬を取り上げるぞ。幕末4賢侯のひとりで、飛びぬけて賢いと評判の殿様ですね。

その辺のところを幕末明治維新にやたらと詳しいというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新には勤王佐幕を問わず昔から興味津々。同時代人の誰もが褒めちぎる賢侯島津斉彬について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、島津斉彬は薩摩藩主11代目

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斉彬(なりあきら)は、文化6年3月14日(1809年4月28日)島津斉興の長男として江戸薩摩藩邸で誕生。母は正室の弥姫(周子)で、斉彬の実の弟は後の岡山藩主池田斉敏、妹は候姫(山内豊熈室)、異母弟として久光がいます。父斉興は斉彬が生まれたとき18歳で、同じ年の6月に10代藩主に。

尚、島津家は鎌倉以来の名家なので、斉彬は薩摩藩としては11代藩主ですが、島津家としては28代になります。

1-2、母が賢かった

斉彬の母弥姫(いやひめ)周子(かねこ)は、鳥取藩主池田治道の娘。

実母は正室生姫(暾子、仙台藩7代目藩主伊達重村の娘)。

弥姫の異母兄には鳥取藩主の池田斉邦と池田斉稷、そして異母妹の姚姫は佐賀藩主鍋島斉直に嫁いで鍋島直正(閑叟(かんそう)を産んだ人なので、斉彬と直正は従兄弟どうしですね。

そのうえに弥姫は賢夫人として知られていて、嫁入り道具に「四書五経」、「左伝」、「史記」、「漢箱」を大量に持ち込み、子供たちにも教えたほどの才媛。そしてこの時代には珍しく、斉彬はじめ3人の子供に乳母をつけず、弥姫自身が母乳で育てて養育し、勉強も教えたそう。また弥姫自身も和歌や漢文の作品を多く残しているということ。

しかし弥姫は文政7年(1824年)、斉彬15歳のときに享年34歳で死去。

信長の血は引いていない

斉彬は母のおかげで、徳川家康、伊達政宗、池田輝政の血をひいています。
が、「弥姫は、織田信長の血をひいている」とネットにあったので調べたのですが、これは間違い。

信長の女系の、岡山の池田光政正室で綱政母である本多勝姫、すなわち、徳川秀忠とお江の娘の千姫と、2度目の結婚相手の本多忠刻(本多忠勝の孫、忠刻母は、家康長男の岡崎信康と、正室で信長娘の五徳姫の娘熊姫なので、忠刻は家康と信長の曽孫)の娘が関わっていればの話。

しかし、鳥取藩池田家は池田輝政の後室で家康の娘督姫の子孫、勝姫が嫁いだ光政は輝政の長男(母は前妻中川清秀娘の糸姫)利隆息子の岡山藩池田家なので、鳥取藩池田家出身の弥姫とその息子斉彬には、信長の血は入っていないはずです。

1-3、斉彬の曾祖父重豪とは

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斉彬の曾祖父は8代藩主重豪(しげひで)です。
オランダ語を勉強したというハイカラな新しもの好きで、蘭癖(らんぺき)大名と言われる人。

重豪は、分家から入って11歳で本家の藩主となり、最初は年少のため祖父の継豊が藩政を担いましたが、親政を開始後、安永元年(1771年)には教育普及のために、藩校造士館、武芸稽古場の演武館を設立し、安永2年(1773年)には、暦学や天文学の研究のための明時館(天文館)を設立、安永3年(1774年)に医療技術の養成のために医学院を設立。そして、娘の茂姫が徳川家斉の御台所となり将軍岳父に、そして息子や娘を有力大名と結婚させて島津家と他大名の親戚ネットワーク作りをして勢力増大し、高輪下馬将軍と言われました

が、藩校などの建築も、将軍や大名とのつきあいに伴う出費も、西洋の骨董品収集の趣味の出費もばかにならず、藩の財政は火の車に。重豪は、天明7年(1787年)、43歳で隠居したもののその後46年間、孫の代になっても実権を掌握。

息子の斉宣が、樺山主税、秩父太郎ら近思録派を登用して緊縮財政政策を行なおうとしたとき、贅沢好きの重豪はその政策に反対して斉宣を隠居させ、孫の斉興を擁立、その後見人となって政権を握ったお家騒動(近思録崩れ)も

晩年になってやっと重豪は藩の財政改革に取り組み、下級武士の調所広郷を重用して、新田開発なども行い、調所の財政再建はその後の孫斉興の親政時に成果が。

重豪は、斉彬が生まれた頃もまだ元気はつらつで、80歳過ぎても鹿児島と江戸を行き来していたほど。斉彬はこの曾祖父に大変可愛がられて、大名には珍しく一緒に暮らしてお風呂に入ったというほどで、重豪がシーボルトに会ったときも一緒にいたなど、かなり影響を受けたと言われています。重豪が天保4年1月15日(1833年3月6日)89歳で亡くなったとき、斉彬は24歳でした。

1-4、斉彬、父には気に入られず

薩摩藩の大御所の曾祖父重豪に可愛がられ聡明だと評判の跡継ぎ斉彬は、将来の藩主として申し分ないはずでした。もちろん曾祖父に影響を受けて洋学に興味をもったのですが、これが周囲の目に蘭癖=贅沢癖と映ったことで、薩摩藩を二分する抗争の原因の一つに

これはやはり斉彬の父で重豪孫の斉興の代に、重豪の作った莫大な負債を必死で財政改革をしてやっと藩財政を立て直したのに、また斉彬が借金を作るとしか思えなかったのでしょう。

もうひとつ斉興にはお由羅という愛妾がいて、文化14年(1817年)生まれの斉彬には8歳下の異母弟になる久光が生まれたんですね。
斉興はこのお由良を愛するあまり、久光を後継ぎにしたいと思ったわけです。
ということで、斉興は18歳違いの息子斉彬が40歳を過ぎても家督を譲らず。

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