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長州の過激派攘夷志士で奇兵隊の創設者「高杉晋作」について歴女がとことんわかりやすく解説

4-4、愛人おうの

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有名な愛人おうのとは、晋作24歳の時に出会ったそう。おうのは馬関の遊郭堺屋で働く芸妓でしたが、晋作はおうのを気に入り身請けをして一緒に暮らし、大坂、四国への逃避行に同行させたくらい。晋作は、正妻のお雅や母と幼い息子が下関に来たときは、おおいに気まずい思いをしたそう。
おうのは晋作没後に剃髪して梅処尼(ばいしょに)となり、明治後は伊藤博文らの援助で作った東行庵で晋作の菩提を弔って後半生を送りました。

4-5、三味線と都都逸

晋作は、折り畳み式の三味線を持ち歩いていて、常にそれを奏でていたそう。奇兵隊を募る時にも三味線を鳴らしながら歩いたとか、この頃流行していた都都逸(どどいつ)が得意だったということ。

晋作による有名な都都逸は、「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」が超有名。他に「聞いて恐ろし、見ていやらしい、添うてうれしい奇兵隊」もあり。

4-6、他藩のものとは接触せず

長州藩としては、桂小五郎、久坂玄瑞らが他藩との交渉役を務めていたが、晋作は他藩の志士たちに興味を持たず、西郷隆盛や坂本龍馬にも会わなかった、会う機会があっても避けていたということ。晋作は長州愛に燃えていたんでしょうか。

4-7、伊藤博文による碑文

「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや」

短い人生ながら役目は果たし切った革命家

高杉晋作と言えば、颯爽と奇兵隊を指揮し、奇想天外な作戦でオテントサマ号を操って幕府の船を敗退、その反面、芸者を挙げて三味線を弾き、酒を飲んでどんちゃん騒ぎの宴会ばかりしている、痛快なイメージがあります。

人間としての欠点はあっても晋作は一種の天才的革命家、同時代の人も晋作がいなければという感覚を持ち特別視したようで、まごうかたなき維新の中心人物であることは間違いありません。

明治維新では若くして非業に最期を遂げた人物が多く、彼らが長生きしていればどうなったかと考えることが多いけれど、晋作の場合、短い人生ながらもなぜか役目を果たし切った感が強いのは不思議な感じがしますね。

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