幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

長州の過激派攘夷志士で奇兵隊の創設者「高杉晋作」について歴女がとことんわかりやすく解説

長州藩主、毛利の殿様とは
この時代の長州藩主は毛利敬親(たかちか)と養子の定広でしたが、このふたりは薩摩の島津斉彬、佐賀の鍋島直正、宇和島の伊達宗城、土佐の山内容堂といった賢侯と言われる中には入っていません。

それどころか、家臣の言うことには何でも「そうせい」というので、「そうせい侯」と言われてバカ殿みたいに扱われる有様。しかし毛利の殿様は、吉田松陰、村田清風、木戸孝允、高杉晋作といった有能な家臣を発掘するのが大好きで、彼らを用いるというより、まるで仕えるように教えを乞うたと言われたほどの人

これも一種の才能で、司馬遼太郎氏によれば、独創力はないが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んでいて、それにかなりの寛大さを持っていたので、ある意味、この人ほど賢侯であった人物はいないかもしれないし、愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけたということに。

そして過激派が実権を握っても、穏健派が実権を握っても「そうせい」と言わなければ暗殺されていただろう。また、そういう藩主がいる長州藩ならではで、他の藩では晋作のような人はとっくに殺されていただろうということです。

また、慶応4年(1868年)閏4月14日、版籍奉還を率先して行ってくれるように木戸孝允が敬親に頼みに行ったときも快諾、感涙して退出しようとした孝允を呼び止め、「今は戦乱の世の中だから人々は気が荒立っている。これほどの変革を行なうとどういう事が起こるかわからないから、木戸が京都に行って時機を見計らうように」と注意したので、敬親に改めて礼を述べて藩主の聡明さに初めて気付いたという話もあり、長州は家臣が目立っているようだが実は殿様も偉かったのですね。

3-5、功山寺挙兵

image by PIXTA / 49124784

幕府による第一次長州征伐が迫るなか、長州藩では今まで藩制を引っ張ってきた正義派と、それに反発する俗論派の対立が激しくなって、最終的に俗論派が藩政を掌握し、正義派高官を多数粛清。

正義派の晋作は10月に福岡へ逃亡し、野村望東尼の平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑や、粛清された人物の中に周布政之助も含まれ、周布の自刃を知って長州へ戻ることに。

そして晋作は下関へ帰還、12月15日夜半に伊藤俊輔 (博文) 率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。その後は奇兵隊の諸隊も加わって、元治2年(1865年)3月には俗論派の椋梨藤太らを排斥、藩の実権を握ることに。

しかし晋作は「人間は艱難は共にできるが、富貴は共にできない」という言葉を残して、藩の軍事総奉行の事例を受けず、ヨーロッパへ行くべく横浜出張の名目で三千両をせしめて、下関で宴会を。

晋作は革命家で、クーデターや戦争は張り切ってやるのだけど、あとの処理や政治には興味なく、行方不明の桂小五郎を探し、あとは帰郷した桂に任せることに。

3-6、晋作、四国へ逃れる

晋作は、海外渡航するべく長崎へ行き、イギリス商人のグラバーと接触するが反対され思いとどまりました。そして4月、下関開港を推し進め、最新の武器を買い入れる計画も進めたため、攘夷派と俗論派の両方に命を狙われるはめになり、愛妾おうのとともに四国へ逃れて、有名な博徒日柳燕石(くさなぎえんせき)を頼ったそう。

尚、日柳燕石はお尋ね者の晋作を喜んで匿い、匿った罪で投獄されたのが元で病気にかかって後に亡くなったということ。

そして晋作は6月、桂小五郎の斡旋により帰郷。
また、元治2年(1865年)1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて育(はぐくみ)扱いになり、慶応3年(1867年)3月29日には谷家を創設して初代当主に。

3-7、第二次長州征討で海軍総督として大活躍

晋作は慶応3年(1867年)5月、伊藤博文とともに薩摩行きを命じられて、その途中、長崎で蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を購入、6月の第二次長州征伐では海軍総督として「丙寅丸」に乗船し、戦闘を指揮。

屋代島(周防大島)沖で幕府艦隊を夜襲という思い切ったことをやって大成功、林半七率いる第二奇兵隊らと連絡し、周防大島を奪還。小倉方面では艦砲射撃の援護もあって、奇兵隊、報国隊を門司、田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させました。
その後小倉城近くまで進撃、しかし肥後藩細川家の軍勢に撃退されたということ。

こうして長州軍が奮戦するうちに、7月20日に将軍徳川家茂が大坂城で死去。7月30日には肥後藩・久留米藩・柳川藩・唐津藩・中津藩が撤兵、幕府軍総督・小笠原長行も海路で小倉から離脱、残された小倉藩が8月1日小倉城に火を放ち逃走、幕府軍の敗北が決定的なまま停戦となりました。この敗戦で幕府の権威は大きく失墜、翌年の慶応3年(1867年)11月には大政奉還となり江戸幕府終了に。

3-8、晋作、結核にかかり療養するも病没

その後、晋作は下関市桜山で肺結核の療養中の慶応3年4月14日(1867年5月17日)に死去。享年29(満27歳)。

自分が死んだら三味線や歌で賑やかに送ってくれと遺言をしたそう。

4-1、晋作の逸話

Takasugi Shinsaku.jpg
By 不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, Link

色々な意味で豪快奇抜な逸話がごろごろあります。

4-2、芯は武士らしいところがあった

晋作は、毛利の殿様の小姓や近習として側近く仕えるほどの上士の家柄でした。
なので、他の志士とは違うという言い方をするのですが、それは家柄を誇るのではなくて、いざとなれば殿様たちを守らなければという責任があると言う意味だったそう。

晋作は、公金を使いこんで品川の土蔵相模とか京都の祇園、下関や長崎の遊郭でどんちゃん騒ぎをしたり、思い立って脱藩したりと、手が付けられない放蕩者かと思えば、両親への忠孝とか殿様への忠義には逆らえないところがあったということ。

4-3、どうしようもない放蕩者だった

晋作が上海へ派遣されたとき、 長崎で千歳丸の準備が遅れて3ヶ月逗留することになったのですが、藩から支給された出張旅費を使い込み遊郭で気に入った女性を身請けし、身の回りの世話をさせました。

が、いざ出航となったときに藩費を使い果たして金欠になり、身請けした女性にもう一度自分を売ればいいと言われ、彼女を妓楼に売って費用を捻出したという、まことに自分勝手なことを平気でするやつでした。

そして、下関の回船問屋の白石正一郎は維新の志士たちを援助した人ですが、晋作と奇兵隊に入れ込んだおかげで破産したほど、しかし本人はそのことを後悔せず明治後は赤間神社の宮司に。

\次のページで「4-4、愛人おうの」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: