幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

長州の過激派攘夷志士で奇兵隊の創設者「高杉晋作」について歴女がとことんわかりやすく解説

2-7、晋作、攘夷運動実行を試みるが、藩の上層部に知られて謹慎

長州藩では晋作の上海渡航中、守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷派が台頭。
晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞らとともに尊攘運動に加わり、江戸、京都での勤皇攘夷の宣伝活動を。

文久2年(1862年)、晋作は、外国公使らの殺害を実行しようと同志を募って画策、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎らと相談したが、久坂玄瑞が土佐藩の武市半平太に話し、武市から前土佐藩主山内容堂、そして長州藩世子毛利定広に伝わり、無謀であると制止されて実行できず、江戸の長州藩邸内で謹慎に。

2-8、晋作、イギリス公使館焼き討ちを行う

そして文久2年12月12日、晋作は、伊藤博文や井上馨らとともに、品川御殿山に建設中の英国公使館を焼き討ち。

その後、京都へ行き、上洛していた将軍家茂暗殺も計画(これは計画倒れに)。
要するに晋作は将軍を暗殺すれば、幕府が長州に攻めて来て戦争状態になり焦土に、そのカオス状態から新しい秩序が生まれるという革命論を実行しようとしたのですが、周布政之助は晋作のテロ活動が幕府を刺激することを恐れ、また10年早いと言ったせいで、晋作は突如頭を丸めて吉田松陰の生誕地の松本村に草庵を結び、東行(とうぎょう)と名乗って10年の隠遁生活に。

3-1、晋作、奇兵隊を結成

文久3年(1863年)5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限に長州藩は関門海峡で外国船を砲撃。しかし米仏の報復にあって惨敗。

そこで隠遁中の晋作は、藩主から下関の防衛を任せられて、6月に廻船問屋白石正一郎邸で奇兵隊を結成して初代総督となり、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)に本拠に置きました。

従来、日本では武士が兵隊となって戦争を行うのですが、晋作の「奇兵」とは、正規とは違う兵隊、武士の身分にこだわらない兵という意味があり、画期的なもの
また藩に属せず独立した部隊と言うのもポイントで、政商白石正一郎がパトロンに。しかし晋作は、9月に奇兵隊と藩士から成る藩の正規部隊である撰鋒隊(先鋒隊)との間の軋轢から起こった教法寺事件の責任を問われて総督を罷免。

3-2、晋作、来島又兵衛説得に失敗し、脱藩

その後長州藩は、薩摩藩と会津藩が結託した八月十八日の政変で京都から追放、一転して朝敵に。晋作は、京に向けての進発を強く主張する来島又兵衛を世子毛利定広の命で説得しようとしますが、失敗。晋作は来島の説得の途中で、桂小五郎や久坂玄瑞の意見を聞くという理由をつけて、何と自分が京都へ。しかしこれは藩に無断だったので、脱藩に。

そして京都では土佐藩士中岡慎太郎と薩摩の島津久光暗殺を企てても実行には至らず、放蕩生活を送っていた晋作に、世子毛利定広から帰国を促す直筆の手紙が届き(かなり異例のこと)、萩へ帰ることになりましたが、帰国した晋作は脱藩の罪を問われて2月に野山獄に投獄、父の働きで、数か月後の6月には自宅での謹慎に。

この間に京都では池田屋事件が勃発、仲の良かった松下村塾四天王の一人、吉田稔麿が闘死、7月の禁門の変で長州藩は敗北して朝敵とされ、来島又兵衛、入江九一は戦死、久坂玄瑞は自害、桂小五郎は行方不明(但馬国出石で潜伏)。
晋作はこの目まぐるしいときに謹慎処分で助かったかも。

3-3、四国艦隊下関砲撃事件

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そして元治元年(1864年)8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊下関砲撃事件が勃発。下関の砲台が占拠されたうえに、長州征伐で幕府が攻めてくるということで、長州藩はカオス状態。

何をするかわからない過激派の罪人の晋作に頼るしかなく、晋作は赦免されて連合軍との和議交渉を任されることに。

3-4、晋作、彦島租借を阻止

このとき、秘密裏に長州藩がイギリス留学させていた留学生のうち、伊藤博文と井上馨が半年で切り上げて帰国、藩の上層部に攘夷実行の無謀さを説き、和議になったのですね。

和議交渉では、イギリス公使館の通訳官アーネスト・サトウがクーパー提督の通訳を担当、サトウは宍戸刑馬と名乗った高杉晋作を知らなかったのですが、晋作が大紋(室町時代の礼服)を着ていて「悪魔のように傲然と」していたと回想録に。
また、交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の回想では、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求。

晋作は他のほぼすべての提示条件を受け入れたものの、領土の租借は頑として受け入れず、「古事記」を暗唱したなどで通訳不能の状態にもちこみ、結局、取り下げさせるのに成功。晋作、上海へ渡航して見聞した甲斐があったというもので、明治後、伊藤博文は、彦島が香港になっていた可能性もありと言ったそう。

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