その辺のところを幕末明治維新にやたらと詳しいというあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、高杉晋作は長州藩の上士の生まれ
- 1-2、晋作の子供時代
- 2-1、晋作、松下村塾へ入塾
- 2-2、晋作、江戸へ遊学
- 2-3、晋作、評判の美人と結婚
- 2-4、晋作、海軍修業で船に乗り、再び江戸へ留学
- 2-5、晋作ら過激派攘夷志士、長井雅楽暗殺計画を
- 2-6、晋作、上海へ派遣される
- 2-7、晋作、攘夷運動実行を試みるが、藩の上層部に知られて謹慎
- 2-8、晋作、イギリス公使館焼き討ちを行う
- 3-1、晋作、奇兵隊を結成
- 3-2、晋作、来島又兵衛説得に失敗し、脱藩
- 3-3、四国艦隊下関砲撃事件
- 3-4、晋作、彦島租借を阻止
- 3-5、功山寺挙兵
- 3-6、晋作、四国へ逃れる
- 3-7、第二次長州征討で海軍総督として大活躍
- 3-8、晋作、結核にかかり療養するも病没
- 4-1、晋作の逸話
- 4-2、芯は武士らしいところがあった
- 4-3、どうしようもない放蕩者だった
- 4-4、愛人おうの
- 4-5、三味線と都都逸
- 4-6、他藩のものとは接触せず
- 4-7、伊藤博文による碑文
- 短い人生ながら役目は果たし切った革命家
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新には勤王佐幕を問わず昔から興味津々。色々おもしろい逸話がある天才的人物の高杉晋作について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、高杉晋作は長州藩の上士の生まれ
晋作は、天保10年8月20日(1839年9月27日)長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)で、大組200石の長州藩士高杉小忠太とみちの長男として誕生。武(たけ)、栄(はえ)、光(みつ)、妹が3人います。
尚、高杉晋作という名前は高杉家代々の名前でして、高杉家の跡継ぎは若いときは晋作、家を継ぐと小忠太、隠居すると小左衛門になるはず。
晋作の諱は春風(はるかぜ)。通称は晋作、東一、和助、字(あざな)は暢夫(ちょうふ)。号は初め楠樹、のちに東行(とうぎょう)と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも。
ほかに谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助などの変名を名乗ったことも。後に藩主が独立した谷家の当主としたので、谷 潜蔵と改名。
ここでは便宜上、晋作でいきますね。
1-2、晋作の子供時代
晋作は10歳で疱瘡を患って少し顔にあばたが残ったそう。
高杉家ではたった一人の跡取り息子、それに子供の頃から体が弱かったために大事にしすぎてわがままに育ったということ。
ある正月、晋作の父に年始回りの挨拶に来た藩士が、あやまって晋作の凧を踏み潰したとき、晋作少年は土下座して謝らなければ藩士の着ていた殿様からの拝領の羽織(毛利家の紋付き)に泥をつけると脅迫、仕方なくその藩士は土下座して謝ったことが。父たちはそれを知ってその藩士に平謝りしたが、晋作はそれほど叱られなかったそうなので、わりと大人をなめたところのある少年だったという話も。
また、亡くなった祖父の口癖は「なにとぞ、晋作が大それたことをしてくれませんように」だったということ。
2-1、晋作、松下村塾へ入塾
晋作は漢学塾(吉松塾)を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学。柳生新陰流剣術も学び、のち免許皆伝に。
安政4年(1857年)18歳のとき、吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王に。
吉田松陰との出会いは、晋作の人生を変えたと言ってもいいでしょう。松陰先生はそれまであまり勉学に力を入れてこなかった晋作を、一つ下の久坂玄瑞と競争させることで発奮させ、持ち前の才能を伸ばすことに成功。
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2-2、晋作、江戸へ遊学
安政5年(1858年)、晋作は藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶかたわら、安政6年(1859年)に、安政の大獄で伝馬町獄に収監された松陰先生への差し入れなどの世話もしたということ。
しかし、晋作はまさか松陰先生が処刑されるとは思わず、藩命で萩に戻る途中、松陰は10月に処刑。萩に帰ってその知らせを聞いた晋作は大変なショックを。
2-3、晋作、評判の美人と結婚
万延元年(1860年)11月に帰郷後、父の差し金で防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門(大組250石)の次女雅と結婚。
雅は評判の美少女だったので縁談が殺到、その中から父の平右衛門が3名を厳選、さらに雅にクジ引きをさせて決まった相手が晋作だったということ。晋作は30歳まで結婚しないつもりでしたが、早く結婚して後継ぎを設けるのが親孝行と言われ、また評判高い美人の雅が相手で父の命令には逆らえず、22歳と16歳の若夫婦に。
ただし、7年の結婚生活で晋作と雅が一緒にいたのは合計で1年くらい、数年後、東一という一人っ子が生まれました。
2-4、晋作、海軍修業で船に乗り、再び江戸へ留学
晋作は、文久元年(1861年)3月に海軍修練を志して、藩の軍艦「丙辰丸」に乗船して江戸へ渡ったが、船酔いなどもあり船の仕事が性に合わず、海軍修業は断念。
8月には江戸から東北遊学に向かい、松陰先生の旧知である加藤桜老、佐久間象山、横井小楠とも交友したそう。
そして長州に帰国して後、藩校明倫館の舎長、世子の小姓になったかと思えば、4か月で御番手として再び江戸勤務に。これは江戸の桂小五郎や久坂玄瑞が運動して、晋作を江戸へ呼び寄せるためだったらしいです。
2-5、晋作ら過激派攘夷志士、長井雅楽暗殺計画を
長州藩の長井雅楽は開国論者でしたが、文久元年(1861年)に公武一和に基づいた「航海遠略策」を藩主に提出。
これは、まず通商を行って国力を増した後に諸外国を圧倒すべし、という当時の状況を冷静に認識した現実的な方針政策でした。長井のこの政策は、朝廷や幕府の公武合体派にも歓迎されたのですが、藩内の吉田松陰門下生の尊皇攘夷派とは対立し、晋作も久坂玄瑞や前原一誠らと雅楽暗殺を計画、それを知った周布政之助の案で、晋作は上海へ派遣されることに。
2-6、晋作、上海へ派遣される
文久2年(1862年)5月、晋作は藩命で、薩摩藩から五代友厚、佐賀藩からは中牟田倉之助らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航。清国が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞し7月に帰国。
日記の『遊清五録』によれば、非常なショックを受けて攘夷運動を決意したそう。
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