今回は高杉晋作を取り上げるぞ。松下村塾で学び、長州藩の攘夷志士で奇兵隊を作った革命児ですが、宴会好きだったんですね。

その辺のところを幕末明治維新にやたらと詳しいというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新には勤王佐幕を問わず昔から興味津々。色々おもしろい逸話がある天才的人物の高杉晋作について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、高杉晋作は長州藩の上士の生まれ

晋作は、天保10年8月20日(1839年9月27日)長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)で、大組200石の長州藩士高杉小忠太とみちの長男として誕生。武(たけ)、栄(はえ)、光(みつ)、妹が3人います。

尚、高杉晋作という名前は高杉家代々の名前でして、高杉家の跡継ぎは若いときは晋作、家を継ぐと小忠太、隠居すると小左衛門になるはず。
晋作の諱は春風(はるかぜ)。通称は晋作、東一、和助、字(あざな)は暢夫(ちょうふ)。号は初め楠樹、のちに東行(とうぎょう)と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも。

ほかに谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助などの変名を名乗ったことも。後に藩主が独立した谷家の当主としたので、谷 潜蔵と改名。

ここでは便宜上、晋作でいきますね。

1-2、晋作の子供時代

晋作は10歳で疱瘡を患って少し顔にあばたが残ったそう。
高杉家ではたった一人の跡取り息子、それに子供の頃から体が弱かったために大事にしすぎてわがままに育ったということ。

ある正月、晋作の父に年始回りの挨拶に来た藩士が、あやまって晋作の凧を踏み潰したとき、晋作少年は土下座して謝らなければ藩士の着ていた殿様からの拝領の羽織(毛利家の紋付き)に泥をつけると脅迫、仕方なくその藩士は土下座して謝ったことが。父たちはそれを知ってその藩士に平謝りしたが、晋作はそれほど叱られなかったそうなので、わりと大人をなめたところのある少年だったという話も。

また、亡くなった祖父の口癖は「なにとぞ、晋作が大それたことをしてくれませんように」だったということ。

2-1、晋作、松下村塾へ入塾

image by PIXTA / 40490570

晋作は漢学塾(吉松塾)を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学。柳生新陰流剣術も学び、のち免許皆伝に。

安政4年(1857年)18歳のとき、吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王に。

吉田松陰との出会いは、晋作の人生を変えたと言ってもいいでしょう。松陰先生はそれまであまり勉学に力を入れてこなかった晋作を、一つ下の久坂玄瑞と競争させることで発奮させ、持ち前の才能を伸ばすことに成功。

2-2、晋作、江戸へ遊学

安政5年(1858年)、晋作は藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶかたわら、安政6年(1859年)に、安政の大獄で伝馬町獄に収監された松陰先生への差し入れなどの世話もしたということ。

しかし、晋作はまさか松陰先生が処刑されるとは思わず、藩命で萩に戻る途中、松陰は10月に処刑。萩に帰ってその知らせを聞いた晋作は大変なショックを。

2-3、晋作、評判の美人と結婚

万延元年(1860年)11月に帰郷後、父の差し金で防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門(大組250石)の次女雅と結婚。

雅は評判の美少女だったので縁談が殺到、その中から父の平右衛門が3名を厳選、さらに雅にクジ引きをさせて決まった相手が晋作だったということ。晋作は30歳まで結婚しないつもりでしたが、早く結婚して後継ぎを設けるのが親孝行と言われ、また評判高い美人の雅が相手で父の命令には逆らえず、22歳と16歳の若夫婦に。

ただし、7年の結婚生活で晋作と雅が一緒にいたのは合計で1年くらい、数年後、東一という一人っ子が生まれました。

2-4、晋作、海軍修業で船に乗り、再び江戸へ留学

晋作は、文久元年(1861年)3月に海軍修練を志して、藩の軍艦「丙辰丸」に乗船して江戸へ渡ったが、船酔いなどもあり船の仕事が性に合わず、海軍修業は断念。
8月には江戸から東北遊学に向かい、松陰先生の旧知である加藤桜老、佐久間象山、横井小楠とも交友したそう。

そして長州に帰国して後、藩校明倫館の舎長、世子の小姓になったかと思えば、4か月で御番手として再び江戸勤務に。これは江戸の桂小五郎や久坂玄瑞が運動して、晋作を江戸へ呼び寄せるためだったらしいです。

2-5、晋作ら過激派攘夷志士、長井雅楽暗殺計画を

長州藩の長井雅楽は開国論者でしたが、文久元年(1861年)に公武一和に基づいた「航海遠略策」を藩主に提出。

これは、まず通商を行って国力を増した後に諸外国を圧倒すべし、という当時の状況を冷静に認識した現実的な方針政策でした。長井のこの政策は、朝廷や幕府の公武合体派にも歓迎されたのですが、藩内の吉田松陰門下生の尊皇攘夷派とは対立し、晋作も久坂玄瑞や前原一誠らと雅楽暗殺を計画、それを知った周布政之助の案で、晋作は上海へ派遣されることに。

2-6、晋作、上海へ派遣される

文久2年(1862年)5月、晋作は藩命で、薩摩藩から五代友厚、佐賀藩からは中牟田倉之助らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航。清国が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞し7月に帰国。

日記の『遊清五録』によれば、非常なショックを受けて攘夷運動を決意したそう。

\次のページで「2-7、晋作、攘夷運動実行を試みるが、藩の上層部に知られて謹慎」を解説!/

2-7、晋作、攘夷運動実行を試みるが、藩の上層部に知られて謹慎

長州藩では晋作の上海渡航中、守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷派が台頭。
晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞らとともに尊攘運動に加わり、江戸、京都での勤皇攘夷の宣伝活動を。

文久2年(1862年)、晋作は、外国公使らの殺害を実行しようと同志を募って画策、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎らと相談したが、久坂玄瑞が土佐藩の武市半平太に話し、武市から前土佐藩主山内容堂、そして長州藩世子毛利定広に伝わり、無謀であると制止されて実行できず、江戸の長州藩邸内で謹慎に。

2-8、晋作、イギリス公使館焼き討ちを行う

そして文久2年12月12日、晋作は、伊藤博文や井上馨らとともに、品川御殿山に建設中の英国公使館を焼き討ち。

その後、京都へ行き、上洛していた将軍家茂暗殺も計画(これは計画倒れに)。
要するに晋作は将軍を暗殺すれば、幕府が長州に攻めて来て戦争状態になり焦土に、そのカオス状態から新しい秩序が生まれるという革命論を実行しようとしたのですが、周布政之助は晋作のテロ活動が幕府を刺激することを恐れ、また10年早いと言ったせいで、晋作は突如頭を丸めて吉田松陰の生誕地の松本村に草庵を結び、東行(とうぎょう)と名乗って10年の隠遁生活に。

3-1、晋作、奇兵隊を結成

文久3年(1863年)5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限に長州藩は関門海峡で外国船を砲撃。しかし米仏の報復にあって惨敗。

そこで隠遁中の晋作は、藩主から下関の防衛を任せられて、6月に廻船問屋白石正一郎邸で奇兵隊を結成して初代総督となり、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)に本拠に置きました。

従来、日本では武士が兵隊となって戦争を行うのですが、晋作の「奇兵」とは、正規とは違う兵隊、武士の身分にこだわらない兵という意味があり、画期的なもの
また藩に属せず独立した部隊と言うのもポイントで、政商白石正一郎がパトロンに。しかし晋作は、9月に奇兵隊と藩士から成る藩の正規部隊である撰鋒隊(先鋒隊)との間の軋轢から起こった教法寺事件の責任を問われて総督を罷免。

3-2、晋作、来島又兵衛説得に失敗し、脱藩

その後長州藩は、薩摩藩と会津藩が結託した八月十八日の政変で京都から追放、一転して朝敵に。晋作は、京に向けての進発を強く主張する来島又兵衛を世子毛利定広の命で説得しようとしますが、失敗。晋作は来島の説得の途中で、桂小五郎や久坂玄瑞の意見を聞くという理由をつけて、何と自分が京都へ。しかしこれは藩に無断だったので、脱藩に。

そして京都では土佐藩士中岡慎太郎と薩摩の島津久光暗殺を企てても実行には至らず、放蕩生活を送っていた晋作に、世子毛利定広から帰国を促す直筆の手紙が届き(かなり異例のこと)、萩へ帰ることになりましたが、帰国した晋作は脱藩の罪を問われて2月に野山獄に投獄、父の働きで、数か月後の6月には自宅での謹慎に。

この間に京都では池田屋事件が勃発、仲の良かった松下村塾四天王の一人、吉田稔麿が闘死、7月の禁門の変で長州藩は敗北して朝敵とされ、来島又兵衛、入江九一は戦死、久坂玄瑞は自害、桂小五郎は行方不明(但馬国出石で潜伏)。
晋作はこの目まぐるしいときに謹慎処分で助かったかも。

3-3、四国艦隊下関砲撃事件

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そして元治元年(1864年)8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊下関砲撃事件が勃発。下関の砲台が占拠されたうえに、長州征伐で幕府が攻めてくるということで、長州藩はカオス状態。

何をするかわからない過激派の罪人の晋作に頼るしかなく、晋作は赦免されて連合軍との和議交渉を任されることに。

3-4、晋作、彦島租借を阻止

このとき、秘密裏に長州藩がイギリス留学させていた留学生のうち、伊藤博文と井上馨が半年で切り上げて帰国、藩の上層部に攘夷実行の無謀さを説き、和議になったのですね。

和議交渉では、イギリス公使館の通訳官アーネスト・サトウがクーパー提督の通訳を担当、サトウは宍戸刑馬と名乗った高杉晋作を知らなかったのですが、晋作が大紋(室町時代の礼服)を着ていて「悪魔のように傲然と」していたと回想録に。
また、交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の回想では、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求。

晋作は他のほぼすべての提示条件を受け入れたものの、領土の租借は頑として受け入れず、「古事記」を暗唱したなどで通訳不能の状態にもちこみ、結局、取り下げさせるのに成功。晋作、上海へ渡航して見聞した甲斐があったというもので、明治後、伊藤博文は、彦島が香港になっていた可能性もありと言ったそう。

\次のページで「3-5、功山寺挙兵」を解説!/

長州藩主、毛利の殿様とは
この時代の長州藩主は毛利敬親(たかちか)と養子の定広でしたが、このふたりは薩摩の島津斉彬、佐賀の鍋島直正、宇和島の伊達宗城、土佐の山内容堂といった賢侯と言われる中には入っていません。

それどころか、家臣の言うことには何でも「そうせい」というので、「そうせい侯」と言われてバカ殿みたいに扱われる有様。しかし毛利の殿様は、吉田松陰、村田清風、木戸孝允、高杉晋作といった有能な家臣を発掘するのが大好きで、彼らを用いるというより、まるで仕えるように教えを乞うたと言われたほどの人

これも一種の才能で、司馬遼太郎氏によれば、独創力はないが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んでいて、それにかなりの寛大さを持っていたので、ある意味、この人ほど賢侯であった人物はいないかもしれないし、愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけたということに。

そして過激派が実権を握っても、穏健派が実権を握っても「そうせい」と言わなければ暗殺されていただろう。また、そういう藩主がいる長州藩ならではで、他の藩では晋作のような人はとっくに殺されていただろうということです。

また、慶応4年(1868年)閏4月14日、版籍奉還を率先して行ってくれるように木戸孝允が敬親に頼みに行ったときも快諾、感涙して退出しようとした孝允を呼び止め、「今は戦乱の世の中だから人々は気が荒立っている。これほどの変革を行なうとどういう事が起こるかわからないから、木戸が京都に行って時機を見計らうように」と注意したので、敬親に改めて礼を述べて藩主の聡明さに初めて気付いたという話もあり、長州は家臣が目立っているようだが実は殿様も偉かったのですね。

3-5、功山寺挙兵

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幕府による第一次長州征伐が迫るなか、長州藩では今まで藩制を引っ張ってきた正義派と、それに反発する俗論派の対立が激しくなって、最終的に俗論派が藩政を掌握し、正義派高官を多数粛清。

正義派の晋作は10月に福岡へ逃亡し、野村望東尼の平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑や、粛清された人物の中に周布政之助も含まれ、周布の自刃を知って長州へ戻ることに。

そして晋作は下関へ帰還、12月15日夜半に伊藤俊輔 (博文) 率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。その後は奇兵隊の諸隊も加わって、元治2年(1865年)3月には俗論派の椋梨藤太らを排斥、藩の実権を握ることに。

しかし晋作は「人間は艱難は共にできるが、富貴は共にできない」という言葉を残して、藩の軍事総奉行の事例を受けず、ヨーロッパへ行くべく横浜出張の名目で三千両をせしめて、下関で宴会を。

晋作は革命家で、クーデターや戦争は張り切ってやるのだけど、あとの処理や政治には興味なく、行方不明の桂小五郎を探し、あとは帰郷した桂に任せることに。

3-6、晋作、四国へ逃れる

晋作は、海外渡航するべく長崎へ行き、イギリス商人のグラバーと接触するが反対され思いとどまりました。そして4月、下関開港を推し進め、最新の武器を買い入れる計画も進めたため、攘夷派と俗論派の両方に命を狙われるはめになり、愛妾おうのとともに四国へ逃れて、有名な博徒日柳燕石(くさなぎえんせき)を頼ったそう。

尚、日柳燕石はお尋ね者の晋作を喜んで匿い、匿った罪で投獄されたのが元で病気にかかって後に亡くなったということ。

そして晋作は6月、桂小五郎の斡旋により帰郷。
また、元治2年(1865年)1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて育(はぐくみ)扱いになり、慶応3年(1867年)3月29日には谷家を創設して初代当主に。

3-7、第二次長州征討で海軍総督として大活躍

晋作は慶応3年(1867年)5月、伊藤博文とともに薩摩行きを命じられて、その途中、長崎で蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を購入、6月の第二次長州征伐では海軍総督として「丙寅丸」に乗船し、戦闘を指揮。

屋代島(周防大島)沖で幕府艦隊を夜襲という思い切ったことをやって大成功、林半七率いる第二奇兵隊らと連絡し、周防大島を奪還。小倉方面では艦砲射撃の援護もあって、奇兵隊、報国隊を門司、田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させました。
その後小倉城近くまで進撃、しかし肥後藩細川家の軍勢に撃退されたということ。

こうして長州軍が奮戦するうちに、7月20日に将軍徳川家茂が大坂城で死去。7月30日には肥後藩・久留米藩・柳川藩・唐津藩・中津藩が撤兵、幕府軍総督・小笠原長行も海路で小倉から離脱、残された小倉藩が8月1日小倉城に火を放ち逃走、幕府軍の敗北が決定的なまま停戦となりました。この敗戦で幕府の権威は大きく失墜、翌年の慶応3年(1867年)11月には大政奉還となり江戸幕府終了に。

3-8、晋作、結核にかかり療養するも病没

その後、晋作は下関市桜山で肺結核の療養中の慶応3年4月14日(1867年5月17日)に死去。享年29(満27歳)。

自分が死んだら三味線や歌で賑やかに送ってくれと遺言をしたそう。

4-1、晋作の逸話

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By 不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, Link

色々な意味で豪快奇抜な逸話がごろごろあります。

4-2、芯は武士らしいところがあった

晋作は、毛利の殿様の小姓や近習として側近く仕えるほどの上士の家柄でした。
なので、他の志士とは違うという言い方をするのですが、それは家柄を誇るのではなくて、いざとなれば殿様たちを守らなければという責任があると言う意味だったそう。

晋作は、公金を使いこんで品川の土蔵相模とか京都の祇園、下関や長崎の遊郭でどんちゃん騒ぎをしたり、思い立って脱藩したりと、手が付けられない放蕩者かと思えば、両親への忠孝とか殿様への忠義には逆らえないところがあったということ。

4-3、どうしようもない放蕩者だった

晋作が上海へ派遣されたとき、 長崎で千歳丸の準備が遅れて3ヶ月逗留することになったのですが、藩から支給された出張旅費を使い込み遊郭で気に入った女性を身請けし、身の回りの世話をさせました。

が、いざ出航となったときに藩費を使い果たして金欠になり、身請けした女性にもう一度自分を売ればいいと言われ、彼女を妓楼に売って費用を捻出したという、まことに自分勝手なことを平気でするやつでした。

そして、下関の回船問屋の白石正一郎は維新の志士たちを援助した人ですが、晋作と奇兵隊に入れ込んだおかげで破産したほど、しかし本人はそのことを後悔せず明治後は赤間神社の宮司に。

\次のページで「4-4、愛人おうの」を解説!/

4-4、愛人おうの

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有名な愛人おうのとは、晋作24歳の時に出会ったそう。おうのは馬関の遊郭堺屋で働く芸妓でしたが、晋作はおうのを気に入り身請けをして一緒に暮らし、大坂、四国への逃避行に同行させたくらい。晋作は、正妻のお雅や母と幼い息子が下関に来たときは、おおいに気まずい思いをしたそう。
おうのは晋作没後に剃髪して梅処尼(ばいしょに)となり、明治後は伊藤博文らの援助で作った東行庵で晋作の菩提を弔って後半生を送りました。

4-5、三味線と都都逸

晋作は、折り畳み式の三味線を持ち歩いていて、常にそれを奏でていたそう。奇兵隊を募る時にも三味線を鳴らしながら歩いたとか、この頃流行していた都都逸(どどいつ)が得意だったということ。

晋作による有名な都都逸は、「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」が超有名。他に「聞いて恐ろし、見ていやらしい、添うてうれしい奇兵隊」もあり。

4-6、他藩のものとは接触せず

長州藩としては、桂小五郎、久坂玄瑞らが他藩との交渉役を務めていたが、晋作は他藩の志士たちに興味を持たず、西郷隆盛や坂本龍馬にも会わなかった、会う機会があっても避けていたということ。晋作は長州愛に燃えていたんでしょうか。

4-7、伊藤博文による碑文

「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや」

短い人生ながら役目は果たし切った革命家

高杉晋作と言えば、颯爽と奇兵隊を指揮し、奇想天外な作戦でオテントサマ号を操って幕府の船を敗退、その反面、芸者を挙げて三味線を弾き、酒を飲んでどんちゃん騒ぎの宴会ばかりしている、痛快なイメージがあります。

人間としての欠点はあっても晋作は一種の天才的革命家、同時代の人も晋作がいなければという感覚を持ち特別視したようで、まごうかたなき維新の中心人物であることは間違いありません。

明治維新では若くして非業に最期を遂げた人物が多く、彼らが長生きしていればどうなったかと考えることが多いけれど、晋作の場合、短い人生ながらもなぜか役目を果たし切った感が強いのは不思議な感じがしますね。

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幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

長州の過激派攘夷志士で奇兵隊の創設者「高杉晋作」について歴女がとことんわかりやすく解説

今回は高杉晋作を取り上げるぞ。松下村塾で学び、長州藩の攘夷志士で奇兵隊を作った革命児ですが、宴会好きだったんですね。

その辺のところを幕末明治維新にやたらと詳しいというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新には勤王佐幕を問わず昔から興味津々。色々おもしろい逸話がある天才的人物の高杉晋作について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、高杉晋作は長州藩の上士の生まれ

晋作は、天保10年8月20日(1839年9月27日)長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)で、大組200石の長州藩士高杉小忠太とみちの長男として誕生。武(たけ)、栄(はえ)、光(みつ)、妹が3人います。

尚、高杉晋作という名前は高杉家代々の名前でして、高杉家の跡継ぎは若いときは晋作、家を継ぐと小忠太、隠居すると小左衛門になるはず。
晋作の諱は春風(はるかぜ)。通称は晋作、東一、和助、字(あざな)は暢夫(ちょうふ)。号は初め楠樹、のちに東行(とうぎょう)と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも。

ほかに谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助などの変名を名乗ったことも。後に藩主が独立した谷家の当主としたので、谷 潜蔵と改名。

ここでは便宜上、晋作でいきますね。

1-2、晋作の子供時代

晋作は10歳で疱瘡を患って少し顔にあばたが残ったそう。
高杉家ではたった一人の跡取り息子、それに子供の頃から体が弱かったために大事にしすぎてわがままに育ったということ。

ある正月、晋作の父に年始回りの挨拶に来た藩士が、あやまって晋作の凧を踏み潰したとき、晋作少年は土下座して謝らなければ藩士の着ていた殿様からの拝領の羽織(毛利家の紋付き)に泥をつけると脅迫、仕方なくその藩士は土下座して謝ったことが。父たちはそれを知ってその藩士に平謝りしたが、晋作はそれほど叱られなかったそうなので、わりと大人をなめたところのある少年だったという話も。

また、亡くなった祖父の口癖は「なにとぞ、晋作が大それたことをしてくれませんように」だったということ。

2-1、晋作、松下村塾へ入塾

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晋作は漢学塾(吉松塾)を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学。柳生新陰流剣術も学び、のち免許皆伝に。

安政4年(1857年)18歳のとき、吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王に。

吉田松陰との出会いは、晋作の人生を変えたと言ってもいいでしょう。松陰先生はそれまであまり勉学に力を入れてこなかった晋作を、一つ下の久坂玄瑞と競争させることで発奮させ、持ち前の才能を伸ばすことに成功。

2-2、晋作、江戸へ遊学

安政5年(1858年)、晋作は藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶかたわら、安政6年(1859年)に、安政の大獄で伝馬町獄に収監された松陰先生への差し入れなどの世話もしたということ。

しかし、晋作はまさか松陰先生が処刑されるとは思わず、藩命で萩に戻る途中、松陰は10月に処刑。萩に帰ってその知らせを聞いた晋作は大変なショックを。

2-3、晋作、評判の美人と結婚

万延元年(1860年)11月に帰郷後、父の差し金で防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門(大組250石)の次女雅と結婚。

雅は評判の美少女だったので縁談が殺到、その中から父の平右衛門が3名を厳選、さらに雅にクジ引きをさせて決まった相手が晋作だったということ。晋作は30歳まで結婚しないつもりでしたが、早く結婚して後継ぎを設けるのが親孝行と言われ、また評判高い美人の雅が相手で父の命令には逆らえず、22歳と16歳の若夫婦に。

ただし、7年の結婚生活で晋作と雅が一緒にいたのは合計で1年くらい、数年後、東一という一人っ子が生まれました。

2-4、晋作、海軍修業で船に乗り、再び江戸へ留学

晋作は、文久元年(1861年)3月に海軍修練を志して、藩の軍艦「丙辰丸」に乗船して江戸へ渡ったが、船酔いなどもあり船の仕事が性に合わず、海軍修業は断念。
8月には江戸から東北遊学に向かい、松陰先生の旧知である加藤桜老、佐久間象山、横井小楠とも交友したそう。

そして長州に帰国して後、藩校明倫館の舎長、世子の小姓になったかと思えば、4か月で御番手として再び江戸勤務に。これは江戸の桂小五郎や久坂玄瑞が運動して、晋作を江戸へ呼び寄せるためだったらしいです。

2-5、晋作ら過激派攘夷志士、長井雅楽暗殺計画を

長州藩の長井雅楽は開国論者でしたが、文久元年(1861年)に公武一和に基づいた「航海遠略策」を藩主に提出。

これは、まず通商を行って国力を増した後に諸外国を圧倒すべし、という当時の状況を冷静に認識した現実的な方針政策でした。長井のこの政策は、朝廷や幕府の公武合体派にも歓迎されたのですが、藩内の吉田松陰門下生の尊皇攘夷派とは対立し、晋作も久坂玄瑞や前原一誠らと雅楽暗殺を計画、それを知った周布政之助の案で、晋作は上海へ派遣されることに。

2-6、晋作、上海へ派遣される

文久2年(1862年)5月、晋作は藩命で、薩摩藩から五代友厚、佐賀藩からは中牟田倉之助らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航。清国が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞し7月に帰国。

日記の『遊清五録』によれば、非常なショックを受けて攘夷運動を決意したそう。

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