戦国時代には男性が当主となることが当たり前とされていて女性は大名や侍などを補佐する役回りをしていた。しかし補佐役ではなく家系を存続させるために当主になった女性も多くはないが実在していたようです。

今回はその中の一人だった井伊直虎について歴史マニアでもある歴史ライターのwhat_0831と一緒に紹介していきます。

ライター/what

歴史の中でも戦国時代が特に好きであり知らないことは徹底的に調査する。男性視点が主体となりがちな戦国時代を女性当主だった直虎を詳しく紹介していく。

井伊直虎誕生

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遠江井伊谷城で井伊直盛の娘として誕生した直虎の幼少期から紹介していきます。

本名は次郎法師

直盛の娘として誕生した直虎でしたが、直虎の名で表記されていた書状は一通しか確認されておらず直虎自身に関しては不明となっていました。誕生年も不確かなことが多く1536年前後に誕生したとされる説が通説されています。

幼名も不明であり直盛の嫡子に男の子がおらず、親戚だった井伊直親に井伊家の家督を継がせることになっていました。ところが直親の父だった井伊直満が小野政直と今川氏により暗殺されたことで、直親と共に身を隠すことになります。

その時に、次郎法師と名乗り井伊家を出家しました。

井伊家は武田領の信濃に逃亡

直親もまた今川氏に追い詰められ身の危険を感じ武田領だった信濃に逃げていきました。これによって信濃にいる間に側室という形で塩沢氏の娘を娶っていて男女一人ずつ儲けたとされています。

また帰参できた直親は、井伊家と遠い親戚とされていた奥山氏のひよを正室として迎えたことで直虎との婚姻関係が破棄されてしまいました。帰参から五年だった1560年に井伊家を変えるきっかけになる戦が始まることになります。

井伊家を変えていく戦

1551年に隣国の尾張を支配していた織田信秀が亡くなったことで、跡目争いで織田家は内紛を起こしていました。その隙をつき義元は伊勢湾へ侵攻していき次々と織田領の城を攻略していきます。内紛が一段落つき織田家当主となったのは、織田信長でした。

信長も義元によって奪われた領土を奪還すべく兵を動員させ笠寺城などの奪還をすることが出来ましたが、兵力においても戦においても分があるのは義元です。そして、尾張を攻め滅ぼすべく義元は大軍を率いて織田氏と桶狭間で対峙していきました。

桶狭間で父の直盛が討たれる

兵力で勝っていた義元は、緒戦を勝利していきます。勢いに乗っていた義元でしたが、豪雨若しくは雹が降り注いだことで兵を休息させて一休みしていました。この状況を逆手に取った信長は、荒れた天候の中で奇襲攻撃を仕掛けていき義元本隊と衝突していきます。今川軍は予想外の奇襲攻撃に大混乱に陥り、兵の立て直しが出来ない状況でした。

本隊に居た直盛も織田軍を相手に奮戦するも、義元と共に討たれてしまい今川軍の敗北となります。

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井伊家の領主に抜擢されていく

義元の討死によって衰退していく今川氏でしたが、井伊家も同様に直盛を討たれたことで窮地に立たされていきます。

氏真と小野氏

義元を失った今川氏は、氏真を当主とし立て直しを図ろうとしていました。井伊家もまた次期当主として直親を推薦していたため、そのまま直親が井伊家当主となります。しかし今川氏の中で再び小野氏が専横することを懸念し直親の後見役として直平が選ばれました。また徳川家康も桶狭間後に今川氏から離反しています。

鷹狩りを行っていた直親は、家康の家臣と行き会うことが多く小野道好に徳川家に内通していると疑いを掛けられてしまいました。実父も道好の父に切腹された経緯もありお互い不仲であったようです。

直親が謀殺される

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内通疑いを掛けられてしまった直親は、陳謝しに掛川城へ向かいました。ところが、掛川城下にて今川家重臣だった朝比奈泰朝によって謀殺されてしまいます。謀殺を命じていた道好は、嫡男の虎松にも手を掛けようとしていていち早くこのことを知った親縁にあたる新野親矩が氏真に助命嘆願を行い虎松は救われる形となりました。

謎の急死

直親を謀殺されてしまい井伊家当主が不在となる中で、井伊家の重臣だった中野直由が直平と共に後見役を務め家中を纏め上げていました。氏真は義元の弔い合戦と称して織田領を攻め込む際に、今川軍の最後尾として軍に加わっています。

宿陣していた際に、横風によって篝火が倒れ直平の陣営と白須賀村が焼けてしまいました。この知らせを受けた氏真は、井伊家の謀反だと疑うも直平は身の潔白として社山攻めを任されますが社山城の攻略最中に急死してしまいました。

更に不運が続く

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直平が急死したことで、中野直由を後見役として井伊家の中心として活躍していきます。今川氏から離反した飯野連龍を討伐する為に、直由と親矩両名を討伐隊にして侵攻していきました。引馬城主の連龍を攻めるにあたり、氏真に援軍を要請し二千の軍勢を取り込み攻撃を開始していきます。連龍の奮闘により攻略に手間取り天馬橋で交戦している時に両名は討死してしまいました。

攻略が出来ずに今川家へ復帰するため和議交渉へとなるも、氏真の謀略によって殺害されてしまいます。直平に続いて直由と親矩が亡くなったことで井伊家が無当主になりました。

\次のページで「井伊家存続させる」を解説!/

井伊家存続させる

嫡男として育てられていた虎松も五歳と若年という理由で無領主になった井伊家は家督を存続させる為に、出家していた直虎を井伊家の領主に任命されました。出家させたとはいえ、尼ではなく僧として扱われていた為に還俗できたとされています。

苦渋の選択をした南渓和尚は、直虎を井伊家に抜擢して立て直しを図ろうとしていくも女性当主では荷が重い役割でした。井伊家よりの今川氏の重臣もいない中で、直虎と実母祐椿尼と直政の母おひよしの三名で直政の脇を固めていくことになります。

直虎の政治手腕

還俗されたことで領主となった直虎は井伊家存続のために奮闘していきます。

徳政令を発令

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女性三人で直政を支えていくには、厳しく勢力を拡大させていきたい道好が井伊家の領土を狙っていました。今川氏から離反していた家康に対抗するべく、刑部城などを築かせていた影響で民の負担が大きく徳政令を発令するも二年間に渡り実行されていません。

氏真の徳政令を拒否していたのは、直虎でした。氏真の介入されることで井伊家を滅ぼされかねないと分かっていたものの民の不満が高まり被害を最小限に食い止めるべく印判状を出し徳政令の発令に踏み切ります。

家康が加担してくれた

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氏真と道好の思惑通りに事が運び、直虎の領主職を罷免させられてしまいます。更に道好から再び直虎と直政の命が狙われここでも出家を条件にして難を逃れていました。

この道好の行為に反旗を翻した近藤康用と鈴木重時と菅沼忠久の井伊谷三人衆は、密かに家康に内通していて井伊家に加担してくれることになります。そして状況を知った家康は、道好に奪われてしまっていた井伊谷城の攻略をするべく兵を侵攻させました。

難を逃れることができたが

家康が井伊谷城に向けて進行していくと、道好は戦わずして逃亡していき井伊谷城を素通りしたことで井伊家の居城として戻ってきました。そのまま家康は井伊谷を通り過ぎていき、刑部城を攻略し堀川城を攻め落とそうとします。堀川城を攻め落とす前に道好の探索をしていて発見した後に斬首。

堀川城は1498年の地震によって、湖と河が繋がったことで満潮時は舟で渡り干潮時は、歩いて渡る湿地帯の城でした。干潮を狙った家康は徒歩で堀川城を攻めていきます。

家康の撫で斬りで死者の弔いをする

堀川城主は大沢左衛門で家康に抵抗していて、民ら約二千と共に堀川城で籠城をします。民も自主的に籠城したとは考えにくいと思われていて臨済宗妙心寺派のが民衆を煽り、家康に対抗していきました。最初に勢いのあった民らもいざ徳川軍と戦っていくと、恐れを為して逃げていきます。

そのまま堀川城を攻め落としたうえに、七百人以上の女性や子供を問わず撫で斬りをしました。抵抗していた大沢左衛門と土豪の山村修理らは逃亡の末に捕まってしまい斬首されてしまいます。抵抗していた中の僧も多数の死者を出していて、人手が足りず直虎らが死者達の弔いをしたようです。

\次のページで「武田の赤備えに直談判」を解説!/

武田の赤備えに直談判

井伊谷は今川領から徳川領へとなり家康の支配地域で、直虎は治まっていました。1572年に武田軍が三河国へ攻め込む知らせが届き大慌てしていた家康。この時は、家康の家臣という立場ではなかったため兵を動員することはありませんでしたが井伊家の分家だった井平直成が城主だった柿本城を守っていました。

武田軍の別働体隊として動いていた、山県昌景が三千の兵を率いて柿本城へ攻め込んでくると守り切れないと判断した直成は仏坂で衝突します。しかし奮戦虚しく直成らが討死してしまい柿本城は落城し、昌景はそのまま直虎のいる井伊谷城へ向かうと直虎は城を明け渡しました。

昌景は井伊谷一帯の城や寺を焼き払い始めると、これを見た直虎は昌景に直談判をし仏坂観音堂を焼失を防ぐことに成功します。

徳川の配下となる

武田軍の勢いは凄まじく三方ヶ原と野田城の戦いで家康を打ちのめされ、窮地に立たされた状況となる家康でした。それでも運があったのは家康で信玄が病で倒れ、武田軍は自国へと撤退を始めていき九死に一生を得ました。この頃の直虎は、井伊谷から逃げていて虎松を自分の養子にし育てていきます。

1573年に武田軍が撤退したことで、井伊谷城へ復帰した直虎は次なる手として井伊家を家康へ仕官させようとしていきました。まず南渓和尚と相談し徳川氏配下だった松下氏へ養子に出します。そして1574年に鷹狩りに来た家康に直虎の直筆だった四神旗を虎松に持たせ家康に分かるように目立たせました。

四神旗を目にした家康は、虎松を浜松城へ呼び井伊家について答えると自分に内通して謀殺されてしまった直親の実子と聞き驚いた家康は召し抱えない訳にはいかないといい三百石と井伊家再興が許可されます。

直政の活躍を見た後に亡くなる

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虎松から井伊万千代と名乗り初陣で芝原の戦いで見事戦功を挙げていきました。また家康を忍者の手から守ったとされたことに喜び、三百石から三千石まで加増されていきました。万千代を家康に仕官させた後に、松岳院若しくは自耕庵で過ごしたとされています。

万千代の活躍に一安心したのか、直虎は1582年に息を引き取り亡骸は自耕庵に葬られました。

今川氏に左右されるもあらゆる手を尽くし井伊家を存続させた

戦国時代で家を支えていくのは、男性であったため女性が領主や当主となることは考えにく時代でもありました。それでも二度の出家をしても井伊家を存続させようと動いていく直虎は、平安時代から続いていた家を滅ぼしたくない一心で動いていたのでしょう。

また残された書状が少ないので、直虎の存在に疑問視されている点や次郎法師と直虎が別人物なのではないかと議論されていてもしかすると女性ではなく男性であったとされる説もあります。年代によって発見されていない書状があるかもしれないので現存するもので判断するしかありませんが、いずれにしても直虎という人物が井伊家の危機を救い江戸時代で三十万石の大名まで発展させ現代まで子孫が続いていることは直虎のおかげであると思いました。

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室町時代戦国時代日本史歴史

今川に長年監視されながらも井伊家を発展させた「井伊直虎」を戦国通サラリーマンが5分でわかりやすく解説

井伊家存続させる

嫡男として育てられていた虎松も五歳と若年という理由で無領主になった井伊家は家督を存続させる為に、出家していた直虎を井伊家の領主に任命されました。出家させたとはいえ、尼ではなく僧として扱われていた為に還俗できたとされています。

苦渋の選択をした南渓和尚は、直虎を井伊家に抜擢して立て直しを図ろうとしていくも女性当主では荷が重い役割でした。井伊家よりの今川氏の重臣もいない中で、直虎と実母祐椿尼と直政の母おひよしの三名で直政の脇を固めていくことになります。

直虎の政治手腕

還俗されたことで領主となった直虎は井伊家存続のために奮闘していきます。

徳政令を発令

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女性三人で直政を支えていくには、厳しく勢力を拡大させていきたい道好が井伊家の領土を狙っていました。今川氏から離反していた家康に対抗するべく、刑部城などを築かせていた影響で民の負担が大きく徳政令を発令するも二年間に渡り実行されていません。

氏真の徳政令を拒否していたのは、直虎でした。氏真の介入されることで井伊家を滅ぼされかねないと分かっていたものの民の不満が高まり被害を最小限に食い止めるべく印判状を出し徳政令の発令に踏み切ります。

家康が加担してくれた

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氏真と道好の思惑通りに事が運び、直虎の領主職を罷免させられてしまいます。更に道好から再び直虎と直政の命が狙われここでも出家を条件にして難を逃れていました。

この道好の行為に反旗を翻した近藤康用と鈴木重時と菅沼忠久の井伊谷三人衆は、密かに家康に内通していて井伊家に加担してくれることになります。そして状況を知った家康は、道好に奪われてしまっていた井伊谷城の攻略をするべく兵を侵攻させました。

難を逃れることができたが

家康が井伊谷城に向けて進行していくと、道好は戦わずして逃亡していき井伊谷城を素通りしたことで井伊家の居城として戻ってきました。そのまま家康は井伊谷を通り過ぎていき、刑部城を攻略し堀川城を攻め落とそうとします。堀川城を攻め落とす前に道好の探索をしていて発見した後に斬首。

堀川城は1498年の地震によって、湖と河が繋がったことで満潮時は舟で渡り干潮時は、歩いて渡る湿地帯の城でした。干潮を狙った家康は徒歩で堀川城を攻めていきます。

家康の撫で斬りで死者の弔いをする

堀川城主は大沢左衛門で家康に抵抗していて、民ら約二千と共に堀川城で籠城をします。民も自主的に籠城したとは考えにくいと思われていて臨済宗妙心寺派のが民衆を煽り、家康に対抗していきました。最初に勢いのあった民らもいざ徳川軍と戦っていくと、恐れを為して逃げていきます。

そのまま堀川城を攻め落としたうえに、七百人以上の女性や子供を問わず撫で斬りをしました。抵抗していた大沢左衛門と土豪の山村修理らは逃亡の末に捕まってしまい斬首されてしまいます。抵抗していた中の僧も多数の死者を出していて、人手が足りず直虎らが死者達の弔いをしたようです。

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