井伊家存続させる
嫡男として育てられていた虎松も五歳と若年という理由で無領主になった井伊家は家督を存続させる為に、出家していた直虎を井伊家の領主に任命されました。出家させたとはいえ、尼ではなく僧として扱われていた為に還俗できたとされています。
苦渋の選択をした南渓和尚は、直虎を井伊家に抜擢して立て直しを図ろうとしていくも女性当主では荷が重い役割でした。井伊家よりの今川氏の重臣もいない中で、直虎と実母祐椿尼と直政の母おひよしの三名で直政の脇を固めていくことになります。
直虎の政治手腕
還俗されたことで領主となった直虎は井伊家存続のために奮闘していきます。
徳政令を発令
女性三人で直政を支えていくには、厳しく勢力を拡大させていきたい道好が井伊家の領土を狙っていました。今川氏から離反していた家康に対抗するべく、刑部城などを築かせていた影響で民の負担が大きく徳政令を発令するも二年間に渡り実行されていません。
氏真の徳政令を拒否していたのは、直虎でした。氏真の介入されることで井伊家を滅ぼされかねないと分かっていたものの民の不満が高まり被害を最小限に食い止めるべく印判状を出し徳政令の発令に踏み切ります。
家康が加担してくれた
氏真と道好の思惑通りに事が運び、直虎の領主職を罷免させられてしまいます。更に道好から再び直虎と直政の命が狙われここでも出家を条件にして難を逃れていました。
この道好の行為に反旗を翻した近藤康用と鈴木重時と菅沼忠久の井伊谷三人衆は、密かに家康に内通していて井伊家に加担してくれることになります。そして状況を知った家康は、道好に奪われてしまっていた井伊谷城の攻略をするべく兵を侵攻させました。
難を逃れることができたが
家康が井伊谷城に向けて進行していくと、道好は戦わずして逃亡していき井伊谷城を素通りしたことで井伊家の居城として戻ってきました。そのまま家康は井伊谷を通り過ぎていき、刑部城を攻略し堀川城を攻め落とそうとします。堀川城を攻め落とす前に道好の探索をしていて発見した後に斬首。
堀川城は1498年の地震によって、湖と河が繋がったことで満潮時は舟で渡り干潮時は、歩いて渡る湿地帯の城でした。干潮を狙った家康は徒歩で堀川城を攻めていきます。
家康の撫で斬りで死者の弔いをする
堀川城主は大沢左衛門で家康に抵抗していて、民ら約二千と共に堀川城で籠城をします。民も自主的に籠城したとは考えにくいと思われていて臨済宗妙心寺派のが民衆を煽り、家康に対抗していきました。最初に勢いのあった民らもいざ徳川軍と戦っていくと、恐れを為して逃げていきます。
そのまま堀川城を攻め落としたうえに、七百人以上の女性や子供を問わず撫で斬りをしました。抵抗していた大沢左衛門と土豪の山村修理らは逃亡の末に捕まってしまい斬首されてしまいます。抵抗していた中の僧も多数の死者を出していて、人手が足りず直虎らが死者達の弔いをしたようです。
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