今回は、スペイン継承戦争についてです。スペインは当時スペイン・ハプスブルク家が代々支配していた国。ところが最後の王、カルロス2世がこの世を去った時にスペインを誰が継ぐのか争った戦争なんです。

そこでハプスブルク家について詳しいまぁこと一緒に詳しく見ていきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。特にハプスブルク家に関する本を読むのが至福のひととき。今回は、カール5世から2つに分かれた名門スペイン・ハプスブルク家がどのように断朝し、その後スペイン継承戦争へ向かっていったのか解説していく。

1 スペイン継承戦争とは?

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スペイン継承戦争とは、スペインを支配していたスペイン・ハプスブルク家が断朝したために起こった戦争。最後の王、カルロス2世がこの世を去った時、各国が動き出しました。ここでは、スペイン・ハプスブルク家のこと、断朝したいきさつスペイン継承戦争について詳しく解説していきたいと思います。

1-1 カール5世から2つに分かれた名門

まず、スペインについて簡単に説明しましょう。スペイン・ハプスブルク家がスペインを支配するようになったのは、カール5世がスペインを息子フェリペへ、オーストリアを弟フェルディナンドへ譲ったため。カール5世といえば、祖父や父などから広大な領土を相続し肩書が70もあった人物ですよね。ここからハプスブルク家は、オーストリア系とスペイン系に分かれることに。

1-2 父から受け継いだスペイン

父カール5世からスペインを継承したフェリペ2世「フェリペのように働く」という諺もあるほど熱心に執務に取り組んだフェリペ。支配していた地域の書類が毎日山のように届いたため、書類王というあだ名も。彼の治世ではスペインは絶頂期を迎えることになりました。これは、海外進出によってアメリカ大陸から銀などを大量に手にしたため。その後フェリペ3世、フェリペ4世と続き、カルロス2世と治世は続くことに。

1-3 後継者問題に悩まされたフェリペ4世

王家にとって悩ましい問題として後継者問題があります。フェリペ4世も大いに悩まされることに。彼はアンリ4世の娘を娶り、バルタザール・カルロス皇太子とマリア・テレサ(フランス語読みでマリー・テレーズ)が生まれました。ところがバルタザール・カルロスは17歳の若さで亡くなることに。そして王妃も産褥でみまかりました。マリア・テレサは既にルイ14世の元へ嫁ぐことが決まっていたため、フェリペ4世には後継者がいない状況に。そして次の妃にしたのが、マリアナ。彼女とフェリペの関係はゾッとするものでした。なんとマリアナはフェリペの実の妹の娘。しかももともとはバルタザール・カルロスの婚約者だったマリアナでしたが、皇太子の死によって叔父の元へ嫁ぐことになったのです。こうして血族結婚によって生まれたのが、マルガリータ王女でした。

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1-4 女王になるかもしれなかった王女、マルガリータ

Las Meninas, by Diego Velázquez, from Prado in Google Earth.jpg
By ディエゴ・ベラスケス - The Prado in Google Earth: Home - 7th level of zoom, JPEG compression quality: Photoshop 8., パブリック・ドメイン, Link

ラス・メニーナスで知られる宮廷画家ベラスケス。彼はフェリペ4世に仕え、多くの王家の人物の肖像画を描いてきました。今作では、画面の中央に頬を膨らませ駄々をこねる愛くるしいマルガリータが描かれています。彼女が着ているドレスは、大人の女性が着るようなコルセットで胸を締め付けるドレス。当時の子ども服は大人のものを小さくした物を着せられていたため、幼児が着るにはかなり苦しいドレスでした。また画面右側の女性は、小人症の女性。当時のスペイン宮廷では多くの障がいを持った人々が慰み者として仕えていたのです。ちなみにマリア・テレサもフランスへ嫁いだ時に小人症のお供を連れてきていたそう。

ベラスケスのこの絵画では様々な解釈がされていますが、一説にはマルガリータ王女が将来のスペインの女王という意味合いが含まれていたそう。フェリペや宮廷の中では、もう子どもには恵まれないという諦めの雰囲気が漂っていました。そのためフェリペの後継者にはマルガリータがなるだろうと誰もが思っていました。

1-5 奇跡の子、カルロス誕生

そんなスペイン・ハプスブルク家に奇跡が起こりました。なんとマルガリータに弟カルロスが誕生。彼は奇跡の子と言われ、大いに祝福されました。カルロスの誕生によってマルガリータは15歳で、オーストリア・ハプスブルク家へ嫁ぐことに。(相変わらず叔父と姪による結婚)しかしこの奇跡の子、カルロスは後に「呪われた子」と言われるようになるのです。スペイン・ハプスブルク家は度重なる血族婚の繰り返しによって、死産や先天性の病により乳幼児が夭逝していくことに。カルロスの場合、3歳になってもまだ乳を飲み、4歳でやっと言葉を話し、常によだれを垂らしていたそう。それもそのはず。なぜなら近交計数が0.254とかなり高い値であり、この数値は親子やきょうだい婚よりも高い値でした。高貴なる青い血を守ろうとしたため、その高貴な血によって滅んだのです。なんとも恐ろしい結果でしょうか。

1-6 ミランダによる「カルロス2世」 

Carlos II; Koning van Spanje.jpg
By フアン・カレーニョ・デ・ミランダ - Schloss Rohrau, Graf Harrach'sche Familiensammlung, パブリック・ドメイン, Link

宮廷画家ミランダによって描かれたカルロス2世。豪華な刺繍が施された衣服を身にまとい、真っ黒な瞳でこちらを見つめていますね。しかし画面の中の彼は、顔が青白く一目見ただけで何か重い病気にかかっているように感じます。そう、彼は重い病気を抱えていました。そしてそれをかき消すように、多くの粉飾を施したミランダ。絵画の中のカルロスはしっかりと立っていますが、実際は立つこともままならないほどだったそう。通常画家は依頼主である人物を描く場合、3割ほどの粉飾を施すそうですが、今回は3割ではなく、かなり理想化された肖像画であることが伺えますね。

1-7 生まれた時から死に瀕していた王

重い障がいを持って生まれたカルロスはその後どうなったのでしょう。実は生まれた時から死に瀕していたと言われたカルロス2世でしたが、なんと38歳まで生きました。もしかしたらという願いを込めて、彼は結婚することに。ルイ14世の弟の娘と結婚しましたが、カルロスは妻には目もくれず。彼女は10年後に病死。しかもカルロスはなんと亡くなった彼女の墓を暴いたそう。そして2回目の結婚では多産の家系のドイツの選帝侯の娘が嫁ぎましたが、カルロスの精神状態は年々悪化。妃よりも異端尋問を見て興奮したというカルロス。ついに子が生まれることはありませんでした。

2 スペイン継承戦争

カルロス2世の死によってスペイン・ハプスブルク家は断朝することになりました。祖父から受け継いだカールはカルロス1世としてスペインへ君臨してから200年のこと。そしてここからフランスが動き出すことに。フランスのルイ14世が王妃のマリア・テレサがカルロスの異母姉であったことを理由に孫のフェリペ5世を継承させようとしたのです。この経緯についてより詳しく見ていきましょう。

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2-1 スペイン・ハプスブルク家のプリンセス

Diego Velázquez 030b.jpg
By ディエゴ・ベラスケス - Kunsthistorisches Museum Wien, Bilddatenbank., パブリック・ドメイン, Link

ところでスペイン・ハプスブルク家のマリー・テレーズはなぜ宿敵フランスのルイ14世の元へ嫁ぐことになったのでしょうか。これは三十年戦争後も続いたフランスとスペインの戦いの条約によって決まったこと。フランスに敗北したスペインは、1659年にピレネー条約を結ぶことに。この条約によってスペイン・ハプスブルク家は、賠償金をフランスへ支払わない代わりに持参金付き王女を渡すという条件を飲まされます。そしてマリー・テレーズとルイの間に生まれた子どもにスペイン・ハプスブルク家の王位継承権はないとされていました。

2-2 ルイ14世の介入

さてピレネー条約で継承権がないとされたにも関わらず、なぜルイ14世は介入したのでしょうか。実はマリー・テレーズが嫁いだ時、フェリペ4世はマリーに持参金を持たせることができなかったのです。この時のスペインはもはや絶頂期を過ぎ、後退していったため。このため、ルイはこの条約は無効であるとし、自分の孫を継承させようとしたのでした。これに対し、オーストリア・ハプスブルク家が猛反発することに。

2-3 戦争の経過

さて当のスペイン王はどう思っていたのでしょうか。カルロス2世は死の直前に遺言書を書いていました。それによると、後継者にはルイ14世の孫、フェリペを指名。しかし条件付きで

2-4 継承戦争の行方

Bakhuizen, Battle of Vigo Bay.jpg
By Ludolf Bakhuizen - http://collections.rmg.co.uk/collections/objects/13692.html, パブリック・ドメイン, Link

オーストリア、イギリス、オランダが同盟を組み、ルイ14世に宣戦布告して始まったスペイン継承戦争。当初は優勢だったフランスとスペインでしたが、次第に劣勢へ転じることに。この継承戦争は、ヨーロッパでの戦いとアメリカ植民地の2か所で行われることに。このアメリカ植民地戦争のイギリスとフランスとの戦いは、アン女王戦争と呼ばれています。ルイ14世はヨーロッパでの戦争で兵士を十分にアメリカへ送ることができずに、苦しい展開へ。ちなみにヨーロッパでの戦争では、同盟側もフランス・スペイン側もスイスの傭兵を雇っていたため、傭兵同士の戦いが主流となることに。

2-5 戦争の終結

この戦いは10年以上にも亘り続きましたが、ついに終結することに。終結するきっかけとなったのはオーストリア・ハプスブルク家の皇帝たちの死でした。オーストリア・ハプスブルク家のレオポルト1世はスペイン王として次男カルロス3世を擁立。しかしレオポルトが1705年に亡くなり、後を継いだヨーゼフが6年後に急死します。そのため、カルロス3世が神聖ローマ皇帝カール6世も兼ねることに。これに対して各国が危機感を強めました。カール5世のように再びハプスブルク家が広大な領土を手にすることを恐れたのですね。これによってスペイン王はフェリペ5世という動きに傾き、1712年に休戦。そして翌年にはオーストリア・ハプスブルク家以外とフランス・スペインとの間にユトレイト条約が結ばれることに。ハプスブルク家も14年にラシュタット条約を結んだため、戦争は終結しました。

\次のページで「2-6 この戦争の勝者は誰か?」を解説!/

2-6 この戦争の勝者は誰か?

さて、この継承戦争で最も特をしたのは誰でしょうか。まんまとスペイン王に孫を付かせたルイ14世?いいえ、実はイギリスでした。条約では、フランスとスペインが永久的に合同することは禁じられました。そしてイギリスは、フランスから北アメリカの領土を得たばかりか、スペインからアシエントを譲渡されることに。イギリスはこれを手にしたことで、スペインのアメリカ植民地に奴隷を輸出することができるようになったのです。これによってイギリスは海外発展するきっかけとなり、三角貿易で栄えることに。

ちなみにこの継承戦争でハプスブルク家に味方したブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は、オーストリア・ハプスブルク家のレオポルト1世によってプロイセンの初代王として王の称号を与えられます。この国が後にモンスターと言われるフリードリヒ大王を生み出し、オーストリアのシュレジエンを奪うことになると考えると、歴史とは面白いですよね。

栄華を誇ったスペイン・ハプスブルク家の終焉

かつては日の沈まない国と称された、スペイン。しかし盛者必衰の世の中には逆らうことができませんでした。カルロス2世の死によって各国が動いたスペイン継承戦争。フランスは多くの犠牲を払いながらも、ルイの孫フェリペ5世をスペインの王座へ座らせることができました。しかし最終的に利益を得たのがイギリス。イギリスのしたたかさが光りますね。

オーストリア・ハプスブルク家もスペイン・ハプスブルク家も、純血にこだわりすぎて幾度も繰り返した血族婚。その代償は大きく、濃い血ゆえに最期のスペイン・ハプスブルク家の王、カルロス2世は蝕まれることに。彼の死によってこれまで世界の中心だったスペイン文化がフランス文化へと移り変わりました。後年のオーストリア・ハプスブルク家のマリア・テレジアは読み書きをフランス語で行い、彼女の宿敵プロイセンのフリードリヒ大王はドイツ語は馬丁の言葉だとし、フランス語を話していたそう。スペイン継承戦争はスペイン・ハプスブルク家が断朝し、代わりにブルボン家がスペインの王座へ座ることになった戦争であり、イギリスの繁栄のきっかけとなった戦争でもありました。

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「スペイン継承戦争」はなぜ起こった?ハプスブルク家マニアが5分でわかりやすく解説!

今回は、スペイン継承戦争についてです。スペインは当時スペイン・ハプスブルク家が代々支配していた国。ところが最後の王、カルロス2世がこの世を去った時にスペインを誰が継ぐのか争った戦争なんです。

そこでハプスブルク家について詳しいまぁこと一緒に詳しく見ていきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。特にハプスブルク家に関する本を読むのが至福のひととき。今回は、カール5世から2つに分かれた名門スペイン・ハプスブルク家がどのように断朝し、その後スペイン継承戦争へ向かっていったのか解説していく。

1 スペイン継承戦争とは?

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スペイン継承戦争とは、スペインを支配していたスペイン・ハプスブルク家が断朝したために起こった戦争。最後の王、カルロス2世がこの世を去った時、各国が動き出しました。ここでは、スペイン・ハプスブルク家のこと、断朝したいきさつスペイン継承戦争について詳しく解説していきたいと思います。

1-1 カール5世から2つに分かれた名門

まず、スペインについて簡単に説明しましょう。スペイン・ハプスブルク家がスペインを支配するようになったのは、カール5世がスペインを息子フェリペへ、オーストリアを弟フェルディナンドへ譲ったため。カール5世といえば、祖父や父などから広大な領土を相続し肩書が70もあった人物ですよね。ここからハプスブルク家は、オーストリア系とスペイン系に分かれることに。

1-2 父から受け継いだスペイン

父カール5世からスペインを継承したフェリペ2世「フェリペのように働く」という諺もあるほど熱心に執務に取り組んだフェリペ。支配していた地域の書類が毎日山のように届いたため、書類王というあだ名も。彼の治世ではスペインは絶頂期を迎えることになりました。これは、海外進出によってアメリカ大陸から銀などを大量に手にしたため。その後フェリペ3世、フェリペ4世と続き、カルロス2世と治世は続くことに。

1-3 後継者問題に悩まされたフェリペ4世

王家にとって悩ましい問題として後継者問題があります。フェリペ4世も大いに悩まされることに。彼はアンリ4世の娘を娶り、バルタザール・カルロス皇太子とマリア・テレサ(フランス語読みでマリー・テレーズ)が生まれました。ところがバルタザール・カルロスは17歳の若さで亡くなることに。そして王妃も産褥でみまかりました。マリア・テレサは既にルイ14世の元へ嫁ぐことが決まっていたため、フェリペ4世には後継者がいない状況に。そして次の妃にしたのが、マリアナ。彼女とフェリペの関係はゾッとするものでした。なんとマリアナはフェリペの実の妹の娘。しかももともとはバルタザール・カルロスの婚約者だったマリアナでしたが、皇太子の死によって叔父の元へ嫁ぐことになったのです。こうして血族結婚によって生まれたのが、マルガリータ王女でした。

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