幕府を倒すなら今……だと思っていたが?
朝廷から討伐の院宣が下ると、これまでは朝廷側の勝利で終わるのがセオリーでした。ところが、ふたを開けれみれば二ヶ月もしないうちに朝廷の敗北が決したのです。
それもそのはず、鎌倉幕府の御家人たちは生まれながらの武士の集団、しかも、比企能員の変や和田合戦などでつい最近まで実戦経験を積んでいたものばかり。対して、後鳥羽上皇側は寄せ集めた兵士ばかりでした。かくして敗戦した後鳥羽上皇は隠岐島へ流罪となってしまいます。
承久の乱を見事に治めた鎌倉幕府。こんなことを二度と起こさせないために京都の六波羅(五条大路から七条大路のあたり)に朝廷を見張るための六波羅探題という役所を設置します。
武士による武士のための法律誕生
承久の乱の後、朝廷の権力は制限され、しばらくの間平和な時期が続きます。北条義時の次に執権を継いだのは息子の北条泰時。彼は日本初の武士による武士のための法律・御成敗式目を制定しました。これまでの法律は基本的に朝廷が作っていたんですね。なので、これが初だったのです。
御成敗式目は源頼朝以来の先例や武士社会の慣習、道徳をもとに作られました。これは鎌倉幕府以降も手本とされ、室町幕府や戦国時代にも有効な法律となったのです。ちなみに、御成敗式目は女性が御家人になることを禁止していません。だから、数は少ないですが、戦国時代の井伊直虎や立花誾千代など女性武将が登場するのです。
世界史上最大の大帝国
ここで少し目を世界に向けてみましょう。日本から海を渡った向こうのユーラシア大陸では、1200年から大きな変化がありました。遊牧民族のモンゴルにあのチンギス=ハンが登場したのです。チンギス=ハンはアジアの大半とヨーロッパの一部にも及ぶモンゴル帝国を築き上げていきます。日本が関わるのはその後、現在の中国のあたりを受け継いだチンギス=ハンの孫・フビライ=ハンの時代になってからです。
中国を支配するにあたって、フビライ=ハンはまず国の名前を「元」と改めます。そして、さらに周辺諸国を配下に収めていきました。朝鮮半島の高麗を手に入れると、次はいよいよ日本の番です。
北九州に攻め入る元
戦場は高麗から一番近い北九州になりました。1274年のこの日本対元の戦いを文永の役と呼びます。万全の準備を整えて、さあこい!と元を迎え撃った鎌倉軍。しかし、これが大苦戦してしまったのです。
まず、当時の日本と元での戦い方のスタイルが全然違いました。日本では武士同士による一騎打ちがメインで、それにはまず武者がひとりで前に出て名乗りを上げ、相手方もそれに見合う武者が出て名乗りを上げる……しかもこの名乗り、自分の名前だけでなく先祖や出身地、住所などなど個人情報を大声で上げていくので時間がかかります。けれど、日本語の通じない相手にこれは伝わると思いますか?
片や元は集団戦法がメイン。単純に集団で戦うことなのですが、名乗りを上げている日本人に大勢でかかっていくわけですから、された方はたまったもんじゃありません。さらに鎌倉軍を苦しませたのが元の人々が持ち込んだ「てつはう」でした。これ、鉄砲ではありません。火薬の詰まった玉で殺傷力はさほどなく、大きな音を立てる威嚇用の兵器でした。それで驚いたのは武士たちではなく、彼らが乗る馬です。落馬した武士たちに元軍が集団で襲い掛かるので、非常に厄介な相手となりました。
奇跡的に勝ったけれど
苦戦を強いられた鎌倉軍でしたが、奇跡的なことに、ここで台風がやってきたのです。台風によって元軍が乗ってきた船は次々と沈んでいき、大混乱のうちに鎌倉軍の勝ちとなりました。
しかし、それでもフビライ=ハンは諦めずに七年後に二度目の日本侵略に乗り出します。こちらが1281年の弘安の役です。そして、北九州で迎え撃つことになりました。結果は、またもや戦場に上陸する台風に元の船が沈められ、鎌倉軍の勝利となります。二度にわたる元の侵略をあわせて元寇と呼びました。
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