貴族中心の社会だった平安時代から、武士たちが中心になる鎌倉時代。支配階層も違えば、中心都市も違う。当然、政治形態も違ってくる。

今回はそれまでの日本をひっくり返した「鎌倉時代」について、ライターのリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。義経を討った頼朝がいったいどんな人生を送ったのか、また彼の作った鎌倉幕府がどうなるのかを複雑な感情を抱えながらまとめた。

鎌倉幕府誕生年とシンプルなシステム

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鎌倉時代成立の年号変遷のワケ

「1185(イイハコ)作ろう 鎌倉幕府」の語呂合わせで覚える鎌倉幕府。私のような上の世代だと1185ではなく1192(イイクニ)で習いましたね。なぜこんな変更があったのかというと、そもそも「今日から鎌倉幕府を発足させます!」という宣言はどんな史料にもありません。なので、本当のところは鎌倉が何年から始まったのかは誰もわからないのです。1192年も1185年も、この年にこういうことがあったから成立した「説」であって、より有効なほうが採用されたというだけなのでした。

1192年と1185年の鎌倉ニュース

ところで、なぜ1192年と1185年なのでしょうか?

1192年の重大ニュースは、源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命されたことが挙げられます。「征夷大将軍」というのは、もともとは飛鳥時代や奈良時代に未開拓だった関東や東北の異民族を平定する朝廷軍の総大将の役職でした。そして、源頼朝が一番最初に武士の世を作った人ですから、当時は「幕府のトップは征夷大将軍でなければならない」という常識はありません。この常識ができたのは江戸時代以降です。

一方、1185年は朝廷が源頼朝に、諸国への守護や地頭の設置を許した「文治の勅許」が発せられた年でした。守護と地頭に関しては次節で解説しますが、この勅許によって源頼朝は実質的な支配権を得たのです。

征夷大将軍に任命された年よりも、実質的な支配権を獲得した年のほうが強いですよね。というわけで、現在は1185年が採用されています。

鎌倉幕府のシンプルな仕組み

将軍とその次に偉い執権、それに仕える御家人(武士)たちが幕府の要です。この時代、御家人の収入源は土地から上がる税金などでした。肝心の土地は将軍から与えられたものでしたから、御家人たちはその御恩のお返しに鎌倉幕府に奉公するというシステムです。御家人たちが将軍の下で土地を統治する仕組みを封建制度といいます。

そして、将軍と執権がいる中央は中心となる三つの役所がありました。ひとつは御家人たちを取り締まる侍所(さむらいどころ)。財政管理の政所(まんどころ)。最後に裁判を行う問注所(もんちゅうじょ)です。

そして、地方には守護と地頭を設置しました。守護は国ごとの武士の責任者で地頭の監督です。地頭は荘園ごとの武士の責任者で、租税徴収と軍役を行います。前節の通り、この守護や地頭は鎌倉幕府と御恩と奉公の関係で結ばれているわけですから、もし鎌倉幕府に何かあった場合はすぐに駆け付ける義務がありました。

武士たちの鎌倉時代のはじまり

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順調に立ち上がったように見えたが

1185年に実質的な支配権を得、鎌倉幕府の内政を整えていった源頼朝でしたが、なんと1199年に落馬が原因で亡くなってしまいます。源頼朝は当時50歳を越えてはいましたが、武士が落馬するのか?とは当時も今も疑問がつきません。暗殺疑惑や、源義経の怨霊の仕業などとたくさんの噂が流れるほどでした。

しかし、亡くなってしまったのだから仕方ありません。それで二代目将軍に就いたのが、源頼朝の長男・源頼家(みなもとのよりいえ)。これで円満に幕府を存続できる……かに思えましたがしかし、実はこの源頼家、御家人たちからの評判が非常に悪かったのです。武芸のほうは達人級だったのですが、源頼家が妻・若狭局の実家の比企家をえこひいきしていたことや、封建制度で最も重要視される土地を軽んじたことなどが挙げられます。

二代目将軍の死と三代目将軍の才能

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結局、源頼家は将軍の座を追放され、伊豆の修禅寺に幽閉されてしまいました。そして、重い病気を得ていた源頼家はそこで暗殺されたといわれています。

さて、源頼家が将軍の座を退いて、誰が後を継いだのでしょうか?普通なら、源頼朝の直系の源頼家の息子が選ばれますよね。ところが、源頼家の長男は比企能員の変ですでに亡く、次の候補者の次男・公暁(くぎょう)は出家させられてしまいます。そこで白羽の矢が立ったのが、源頼家の弟の源実朝(みなもとのさねとも)でした。

源実朝が三代目将軍に就任しましたが、実はこちらも少し将軍としては難ありの人物でした。というのも、彼は武芸より和歌が好きで、なんと和歌の大御所・藤原定家に弟子入りまでしていたのです。しかも和歌の才能もしっかり持っていて、藤原定家が選んだ「小倉百人一首」にも「鎌倉右大臣」の名前で一首選ばれています。また、「金槐和歌集」という自分の歌を集めた私家集まで作っていました。しかし、武家の、しかも将軍の家に生まれてしまったために、源実朝の和歌の才能は御家人たちには受け入れられませんでした。

源氏の支配はわずか34年

源実朝の身に悲劇が起こったのは1219年1月のことでした。前年に武士として始めて朝廷から右大臣に任命されたお祝いに源実朝は鶴岡八幡宮に参拝します。

参拝を終えてた源実朝でしたが、その帰路で殺されてしまいました。殺したのは、源頼家の次男・公暁。彼はすぐさま有力御家人の三浦氏の下へ逃げ込みますが、匿われることなく幕府に処刑される運びとなりました。源実朝と公暁が源頼朝の血を引く最後の人間だったため、公暁の死をもって源頼朝の血は途絶え、わずか三代かぎりの源氏による支配は終わったのです。

北条家の台頭、執権政治のはじまり

将軍の座を継げる人のいなくなった鎌倉幕府。ここで崩壊すると思いきや、将軍に次いで力を持つ執権・北条義時は源頼朝と遠いながら血縁関係にある摂関家の藤原頼経を将軍にしました。

当時、藤原頼経はたったの2歳。ほぼ赤ん坊ですから、政治などできるはずがありません。それなら代わりに政治を指導する人が必要ですよね。そこで、将軍の次に偉い執権が舵を取り始めました。時の執権は北条義時。源頼朝の正室・北条政子の弟です。

承久の乱勃発、朝敵となった鎌倉幕府

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揺れる鎌倉幕府、立ち上がる北条政子

空位だった将軍の座も無事に埋まり、執権としての力を振るおうとした北条義時。しかし、後鳥羽上皇は以前から武士中心の幕府を快く思っていませんでした。そうして、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を下します。

後鳥羽上皇の狙い通り鎌倉幕府は揺れに揺れました。将軍と御家人は御恩と奉公でつながっているとは言え、天皇家という大きな存在から敵視され、謀反人として扱われるのは非常におそろしいことだったのです。

鎌倉幕府を裏切って朝廷側につこうかという御家人も出てきたときでした。源頼朝の死後、尼将軍と呼ばれ慕われていた北条政子は御家人たちを集め、源頼朝から受けた恩やそれ以前の朝廷の武士たちのひどい扱いなどを切々と説きます。この演説が御家人たちの心に響き、鎌倉幕府は一丸となって朝廷と戦うことにしたのでした。

\次のページで「幕府を倒すなら今……だと思っていたが?」を解説!/

幕府を倒すなら今……だと思っていたが?

朝廷から討伐の院宣が下ると、これまでは朝廷側の勝利で終わるのがセオリーでした。ところが、ふたを開けれみれば二ヶ月もしないうちに朝廷の敗北が決したのです。

それもそのはず、鎌倉幕府の御家人たちは生まれながらの武士の集団、しかも、比企能員の変や和田合戦などでつい最近まで実戦経験を積んでいたものばかり。対して、後鳥羽上皇側は寄せ集めた兵士ばかりでした。かくして敗戦した後鳥羽上皇は隠岐島へ流罪となってしまいます。

承久の乱を見事に治めた鎌倉幕府。こんなことを二度と起こさせないために京都の六波羅(五条大路から七条大路のあたり)に朝廷を見張るための六波羅探題という役所を設置します。

武士による武士のための法律誕生

承久の乱の後、朝廷の権力は制限され、しばらくの間平和な時期が続きます。北条義時の次に執権を継いだのは息子の北条泰時。彼は日本初の武士による武士のための法律・御成敗式目を制定しました。これまでの法律は基本的に朝廷が作っていたんですね。なので、これが初だったのです。

御成敗式目は源頼朝以来の先例や武士社会の慣習、道徳をもとに作られました。これは鎌倉幕府以降も手本とされ、室町幕府や戦国時代にも有効な法律となったのです。ちなみに、御成敗式目は女性が御家人になることを禁止していません。だから、数は少ないですが、戦国時代の井伊直虎や立花誾千代など女性武将が登場するのです。

蒙古襲来で鎌倉幕府ピンチ!

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By 筆者不明。竹崎季長自身は絵巻を注文しました。 - 蒙古襲来絵詞, パブリック・ドメイン, Link

世界史上最大の大帝国

ここで少し目を世界に向けてみましょう。日本から海を渡った向こうのユーラシア大陸では、1200年から大きな変化がありました。遊牧民族のモンゴルにあのチンギス=ハンが登場したのです。チンギス=ハンはアジアの大半とヨーロッパの一部にも及ぶモンゴル帝国を築き上げていきます。日本が関わるのはその後、現在の中国のあたりを受け継いだチンギス=ハンの孫・フビライ=ハンの時代になってからです。

中国を支配するにあたって、フビライ=ハンはまず国の名前を「元」と改めます。そして、さらに周辺諸国を配下に収めていきました。朝鮮半島の高麗を手に入れると、次はいよいよ日本の番です。

北九州に攻め入る元

戦場は高麗から一番近い北九州になりました。1274年のこの日本対元の戦いを文永の役と呼びます。万全の準備を整えて、さあこい!と元を迎え撃った鎌倉軍。しかし、これが大苦戦してしまったのです。

まず、当時の日本と元での戦い方のスタイルが全然違いました。日本では武士同士による一騎打ちがメインで、それにはまず武者がひとりで前に出て名乗りを上げ、相手方もそれに見合う武者が出て名乗りを上げる……しかもこの名乗り、自分の名前だけでなく先祖や出身地、住所などなど個人情報を大声で上げていくので時間がかかります。けれど、日本語の通じない相手にこれは伝わると思いますか?

片や元は集団戦法がメイン。単純に集団で戦うことなのですが、名乗りを上げている日本人に大勢でかかっていくわけですから、された方はたまったもんじゃありません。さらに鎌倉軍を苦しませたのが元の人々が持ち込んだ「てつはう」でした。これ、鉄砲ではありません。火薬の詰まった玉で殺傷力はさほどなく、大きな音を立てる威嚇用の兵器でした。それで驚いたのは武士たちではなく、彼らが乗る馬です。落馬した武士たちに元軍が集団で襲い掛かるので、非常に厄介な相手となりました。

奇跡的に勝ったけれど

苦戦を強いられた鎌倉軍でしたが、奇跡的なことに、ここで台風がやってきたのです。台風によって元軍が乗ってきた船は次々と沈んでいき、大混乱のうちに鎌倉軍の勝ちとなりました。

しかし、それでもフビライ=ハンは諦めずに七年後に二度目の日本侵略に乗り出します。こちらが1281年の弘安の役です。そして、北九州で迎え撃つことになりました。結果は、またもや戦場に上陸する台風に元の船が沈められ、鎌倉軍の勝利となります。二度にわたる元の侵略をあわせて元寇と呼びました。

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ここからが本当のピンチ

元を退けた鎌倉幕府。しかし、これはあくまで防衛戦であって、勝ったとしても元から土地を奪うことはできません。御家人たちに戦ったご褒美として与えられるものがなかったのです。それで怒ったのは必死に戦った御家人たちでした。このころ、彼らの武器や防具、戦地への遠征費は自分で賄わなければなりません。こんなに身銭を切ったのに、一部を除いた御家人以外は報酬はゼロどころかマイナスで貧乏になってしまいます。

それで仕方なく御家人たちは商人などから借金することになりました。借金でどうにか生きるのですから、当然首が回らなくなる御家人もいるわけで。貧困にあえぐ御家人たちを見て、鎌倉幕府は彼らの借金をチャラにする徳政令を発します。

借金をチャラにした鎌倉幕府滅亡

貸したお金がチャラになるなんて、貸主からしてみればとんでもないことです。しかし、幕府に反抗することはできません。でも、またこんなことになったらイヤですよね。だから、もう御家人にはお金は貸さないということになります。そうすると、困るのは借金でなんとか生きられたカッツカツの御家人です。最初は借金がなくなってよろこんでいましたが、こうなると「なんて余計なことをしてくれたんだ!」と鎌倉幕府に不満を持ち始めます。

ここで出てきたのが後醍醐天皇でした。後醍醐天皇の二度にわたる討幕計画は失敗に終わりますが、二度目の失敗で足利尊氏が味方に付くと、六波羅探題を攻め落とします。その勢いのまま討幕軍は鎌倉軍との戦いに連戦連勝し、1333年の鎌倉の戦いにおいて鎌倉幕府を打ち倒しました。こうして鎌倉幕府は滅亡したのです。

貴族社会から武士社会へ移行した初の幕府

それまでの貴族中心だった社会から武士の世の中へと大きく転換し、最初の将軍となった源頼朝。その後の源氏の悲劇から一転して北条氏の台頭は、なんだか仕組まれているようにも見えますね。しかし、それで約150年に及ぶ治世を築いているので、結果オーライとでも言いましょうか。元寇がなければ、もう少し長く続いていたかもしれませんね。

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日本史歴史鎌倉時代

武士たちが勝ち取った「鎌倉時代」はどんな時代?を歴史マニアが5分でわかりやすく解説

順調に立ち上がったように見えたが

1185年に実質的な支配権を得、鎌倉幕府の内政を整えていった源頼朝でしたが、なんと1199年に落馬が原因で亡くなってしまいます。源頼朝は当時50歳を越えてはいましたが、武士が落馬するのか?とは当時も今も疑問がつきません。暗殺疑惑や、源義経の怨霊の仕業などとたくさんの噂が流れるほどでした。

しかし、亡くなってしまったのだから仕方ありません。それで二代目将軍に就いたのが、源頼朝の長男・源頼家(みなもとのよりいえ)。これで円満に幕府を存続できる……かに思えましたがしかし、実はこの源頼家、御家人たちからの評判が非常に悪かったのです。武芸のほうは達人級だったのですが、源頼家が妻・若狭局の実家の比企家をえこひいきしていたことや、封建制度で最も重要視される土地を軽んじたことなどが挙げられます。

二代目将軍の死と三代目将軍の才能

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結局、源頼家は将軍の座を追放され、伊豆の修禅寺に幽閉されてしまいました。そして、重い病気を得ていた源頼家はそこで暗殺されたといわれています。

さて、源頼家が将軍の座を退いて、誰が後を継いだのでしょうか?普通なら、源頼朝の直系の源頼家の息子が選ばれますよね。ところが、源頼家の長男は比企能員の変ですでに亡く、次の候補者の次男・公暁(くぎょう)は出家させられてしまいます。そこで白羽の矢が立ったのが、源頼家の弟の源実朝(みなもとのさねとも)でした。

源実朝が三代目将軍に就任しましたが、実はこちらも少し将軍としては難ありの人物でした。というのも、彼は武芸より和歌が好きで、なんと和歌の大御所・藤原定家に弟子入りまでしていたのです。しかも和歌の才能もしっかり持っていて、藤原定家が選んだ「小倉百人一首」にも「鎌倉右大臣」の名前で一首選ばれています。また、「金槐和歌集」という自分の歌を集めた私家集まで作っていました。しかし、武家の、しかも将軍の家に生まれてしまったために、源実朝の和歌の才能は御家人たちには受け入れられませんでした。

源氏の支配はわずか34年

源実朝の身に悲劇が起こったのは1219年1月のことでした。前年に武士として始めて朝廷から右大臣に任命されたお祝いに源実朝は鶴岡八幡宮に参拝します。

参拝を終えてた源実朝でしたが、その帰路で殺されてしまいました。殺したのは、源頼家の次男・公暁。彼はすぐさま有力御家人の三浦氏の下へ逃げ込みますが、匿われることなく幕府に処刑される運びとなりました。源実朝と公暁が源頼朝の血を引く最後の人間だったため、公暁の死をもって源頼朝の血は途絶え、わずか三代かぎりの源氏による支配は終わったのです。

北条家の台頭、執権政治のはじまり

将軍の座を継げる人のいなくなった鎌倉幕府。ここで崩壊すると思いきや、将軍に次いで力を持つ執権・北条義時は源頼朝と遠いながら血縁関係にある摂関家の藤原頼経を将軍にしました。

当時、藤原頼経はたったの2歳。ほぼ赤ん坊ですから、政治などできるはずがありません。それなら代わりに政治を指導する人が必要ですよね。そこで、将軍の次に偉い執権が舵を取り始めました。時の執権は北条義時。源頼朝の正室・北条政子の弟です。

承久の乱勃発、朝敵となった鎌倉幕府

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揺れる鎌倉幕府、立ち上がる北条政子

空位だった将軍の座も無事に埋まり、執権としての力を振るおうとした北条義時。しかし、後鳥羽上皇は以前から武士中心の幕府を快く思っていませんでした。そうして、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を下します。

後鳥羽上皇の狙い通り鎌倉幕府は揺れに揺れました。将軍と御家人は御恩と奉公でつながっているとは言え、天皇家という大きな存在から敵視され、謀反人として扱われるのは非常におそろしいことだったのです。

鎌倉幕府を裏切って朝廷側につこうかという御家人も出てきたときでした。源頼朝の死後、尼将軍と呼ばれ慕われていた北条政子は御家人たちを集め、源頼朝から受けた恩やそれ以前の朝廷の武士たちのひどい扱いなどを切々と説きます。この演説が御家人たちの心に響き、鎌倉幕府は一丸となって朝廷と戦うことにしたのでした。

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