順調に立ち上がったように見えたが
1185年に実質的な支配権を得、鎌倉幕府の内政を整えていった源頼朝でしたが、なんと1199年に落馬が原因で亡くなってしまいます。源頼朝は当時50歳を越えてはいましたが、武士が落馬するのか?とは当時も今も疑問がつきません。暗殺疑惑や、源義経の怨霊の仕業などとたくさんの噂が流れるほどでした。
しかし、亡くなってしまったのだから仕方ありません。それで二代目将軍に就いたのが、源頼朝の長男・源頼家(みなもとのよりいえ)。これで円満に幕府を存続できる……かに思えましたがしかし、実はこの源頼家、御家人たちからの評判が非常に悪かったのです。武芸のほうは達人級だったのですが、源頼家が妻・若狭局の実家の比企家をえこひいきしていたことや、封建制度で最も重要視される土地を軽んじたことなどが挙げられます。
二代目将軍の死と三代目将軍の才能
結局、源頼家は将軍の座を追放され、伊豆の修禅寺に幽閉されてしまいました。そして、重い病気を得ていた源頼家はそこで暗殺されたといわれています。
さて、源頼家が将軍の座を退いて、誰が後を継いだのでしょうか?普通なら、源頼朝の直系の源頼家の息子が選ばれますよね。ところが、源頼家の長男は比企能員の変ですでに亡く、次の候補者の次男・公暁(くぎょう)は出家させられてしまいます。そこで白羽の矢が立ったのが、源頼家の弟の源実朝(みなもとのさねとも)でした。
源実朝が三代目将軍に就任しましたが、実はこちらも少し将軍としては難ありの人物でした。というのも、彼は武芸より和歌が好きで、なんと和歌の大御所・藤原定家に弟子入りまでしていたのです。しかも和歌の才能もしっかり持っていて、藤原定家が選んだ「小倉百人一首」にも「鎌倉右大臣」の名前で一首選ばれています。また、「金槐和歌集」という自分の歌を集めた私家集まで作っていました。しかし、武家の、しかも将軍の家に生まれてしまったために、源実朝の和歌の才能は御家人たちには受け入れられませんでした。
源氏の支配はわずか34年
源実朝の身に悲劇が起こったのは1219年1月のことでした。前年に武士として始めて朝廷から右大臣に任命されたお祝いに源実朝は鶴岡八幡宮に参拝します。
参拝を終えてた源実朝でしたが、その帰路で殺されてしまいました。殺したのは、源頼家の次男・公暁。彼はすぐさま有力御家人の三浦氏の下へ逃げ込みますが、匿われることなく幕府に処刑される運びとなりました。源実朝と公暁が源頼朝の血を引く最後の人間だったため、公暁の死をもって源頼朝の血は途絶え、わずか三代かぎりの源氏による支配は終わったのです。
北条家の台頭、執権政治のはじまり
将軍の座を継げる人のいなくなった鎌倉幕府。ここで崩壊すると思いきや、将軍に次いで力を持つ執権・北条義時は源頼朝と遠いながら血縁関係にある摂関家の藤原頼経を将軍にしました。
当時、藤原頼経はたったの2歳。ほぼ赤ん坊ですから、政治などできるはずがありません。それなら代わりに政治を指導する人が必要ですよね。そこで、将軍の次に偉い執権が舵を取り始めました。時の執権は北条義時。源頼朝の正室・北条政子の弟です。
揺れる鎌倉幕府、立ち上がる北条政子
空位だった将軍の座も無事に埋まり、執権としての力を振るおうとした北条義時。しかし、後鳥羽上皇は以前から武士中心の幕府を快く思っていませんでした。そうして、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を下します。
後鳥羽上皇の狙い通り鎌倉幕府は揺れに揺れました。将軍と御家人は御恩と奉公でつながっているとは言え、天皇家という大きな存在から敵視され、謀反人として扱われるのは非常におそろしいことだったのです。
鎌倉幕府を裏切って朝廷側につこうかという御家人も出てきたときでした。源頼朝の死後、尼将軍と呼ばれ慕われていた北条政子は御家人たちを集め、源頼朝から受けた恩やそれ以前の朝廷の武士たちのひどい扱いなどを切々と説きます。この演説が御家人たちの心に響き、鎌倉幕府は一丸となって朝廷と戦うことにしたのでした。
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