関ヶ原の戦いて西軍に付き、九度山に幽閉される
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが開戦。昌幸と幸村は西軍、信之は東軍に付くと言う親子別々の道を選択。全ては真田を存続するために昌幸が決断したものでした。真田にとって秀吉には恩がある、嫡男信之の正室は、家康の重臣、本田忠勝の娘の小松姫。複雑な要素が絡み合い、東西に別れる選択をした三人。昌幸が「真田存続」を考え出した結論でした。それはどちらが勝っても真田は生き残れる。やがて関ヶ原の戦いが始まり、昌幸・幸村親子は、前哨戦である第二次上田合戦で、上田城に籠城します。
徳川秀忠は、関ヶ原の合戦前に 上田城に籠城する真田軍を撃退しようとしますが、昌幸があっさりと和睦に応じたのです。ところが、和睦はしたものの、昌幸は城を明け渡す気配が全くありません。それもそのはず、これは和睦をすると見せかけた昌幸の作戦だったのです。一週間近く足止めされた秀忠の軍勢は、急遽撤退し関ヶ原に向かいますが、東軍勝利で合戦はすでに終了。大事な戦に遅刻した秀忠は、家康からキツイお叱りが待っていました。勝利したから良かったものの、負けていたらどうなっていたのでしょうね。
そして西軍に加担した昌幸・幸村親子は九度山(現在の和歌山県)にて幽霊されます。信之の助命嘆願で死罪は免れたものの、15年と言う長い山での生活が余儀なくされました。仕送りに頼る厳しい山での生活の中、昌幸は徳川と合間見える時のために、色々な戦法を考えていたと言う話もあります。しかし、それが実現することはなく65歳で病死。大坂冬の陣が始まる2年前のことでした。
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多彩な知略で、数々の危機を乗り越えた真田昌幸
武田信玄に才能を見出され、人質から出世していった真田昌幸。信玄からの信頼も厚く、「我が両眼の如き者」と称されるほどでした。しかし、勝頼の代になり衰退していった武田がついに滅亡。主君を失い、強い勢力に味方しては離反を繰り返し、徳川家康からは稀代の横着者(きだいのおうちゃくもの)などと言われています。大河ドラマ「真田丸」の中では、草刈正雄さんのコミカルな演技に惹きつけられました。戦となれば、多勢相手に多くの策を練り、時には真っ向から挑まず、色々な知略を考えて勝利した昌幸。真田のような国衆が厳しい戦国時代を生きる知恵でもあったのでしょう。
「何をするか分からない」それが昌幸と言う人物であり、「表裏卑怯の者」と呼ばれる由縁なのでしょうか。最後は豊臣秀吉の家臣となり、親子で東西に分かれた関ヶ原。西軍敗退で幽閉された昌幸が、再び戦場に現れることはありませんでした。幽閉中、徳川を討つための策を考えていたのは、いずれ起こる大坂の陣を踏まえてのことだったのかもしれません。昌幸はもう一度奮起して、家康に一泡吹かせたかったのでしょうね。