信玄の死後は武田勝頼に仕える
By 不明 – 高野山持明院蔵, パブリック・ドメイン, Link
元亀4年(1573年)、武田信玄が病死。昌幸は信玄より家督を継いだ武田勝頼に仕えます。しかし、信玄が偉大過ぎたのか、武田に以前のような勢いはありませんでした。天正3年(1575年)、武田勢vs織田信長・徳川家康連合軍による長篠の戦いが勃発。武田に不利な状況から、武田四天王である、馬場信春・山県昌景(やまがたまさかげ)内藤 昌豊(ないとう まさとよ)らは、勝頼に撤退するように要請しますが、聞き入れられず、強行に及んだ武田軍は敗退してしまいます。
信春・昌景・昌豊の三名は討死。長篠の戦いは武田軍の大敗に終わり、四天王であった三名の猛将に加え、兄の信綱・昌輝までもが亡くなると言う最悪の結果となってしまいました。信春たちの言うことを素直に聞いていれば、負けることはなかったのかもしれませんね。この頃から武田を離反していく家臣も増えていきます。しかし、昌幸が勝頼を見捨てることはありませんでした。
家督を継ぎ、真田家の当主となる
長篠の戦いで二人の兄を失った昌幸は、勝頼の命令により真田の家督を相続しました。三男として生まれた昌幸にとって、自分が家督を継承するとは思ってもいなかったことでしょう。こうして、真田の当主となった昌幸は、武藤喜兵衛改め真田昌幸と名乗るようになります。
武田が滅亡、行き場を失った真田家
天正9年(1581年)、武田vs徳川軍による第二次高天神城の戦いで、城を守っていた元今川家臣の岡部元信は、勝頼に援軍を要請しました。しかし、勝頼が援軍を送らなかったことで、元信は討死。この勝頼の行動が家臣たちの反発を招き、離反する者が多数いたのです。勝頼は同年2月、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に代わり、武田の居城となる新府城の築城を開始。ところが、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が、重税を理由に織田信長に寝返り、同じく信玄とは従兄弟同士であった穴山梅雪(あなやまばいせつ)までもが信長に加担します。
天正10年(1582年)、信長による甲州征伐が始まると、勝頼は新府城に火を放ち逃走。昌幸は、勝頼を自身の岩櫃城(いわびつじょう)に招き入れようとしました。しかし、「譜代家臣ではない真田は信用できない」と阻害され、結局は小山田信茂(おやまだのぶしげ)の居城である岩殿城に向かいます。ところが、途中信茂の裏切りが発覚。行き場を失くした勝頼は、天目山(現在の山梨県甲州市)にて自害。37歳の生涯を閉じました。風林火山を掲げ、甲斐の虎と恐れられた信玄が亡くなり、一気に衰退していった武田家は、ついに滅亡したのです。
織田・上杉・北条・徳川と大勢力に従軍していく
武田滅亡後、織田信長に従軍した真田家は、滝川一益の与力となりました。ところが、織田家臣となって僅か3カ月後の天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が明智光秀の謀反によって自刃。一益は京に向かう途中、北条氏直に神流川の戦い(かんながわのたたかい)で敗走したのです。この機会に昌幸は、一益の所領となっていた沼田嬢を奪還することに成功しました。
※沼田城(現在の群馬県)とは、昌幸が武田家臣時代に自力で奪い取った城。沼田城は周辺の三大勢力である、北条・上杉・徳川らの重要拠点として、軍事上の要となる場所にあり、城を巡って攻防戦が耐えなかった。真田が織田に従軍後は一益の所領となっている。
その後、沼田城は北条氏から執拗な攻めにあいますが、昌幸の叔父である矢沢頼綱(やざわよりつな)が城代として守り抜きました。その後、昌幸の知略で上杉・北条と次々に主君を代えた真田家は、最終的に徳川家康に臣従するようになります。
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徳川を離反、第一次上田合戦の始まり
新たな主君に徳川家康を選んだ昌幸。しかし、武田滅亡後、旧領地を巡って上杉・北条・徳川で争われていた天正壬午の乱で敵対していた、徳川と北条が和睦を結びます。北条は条件として家康に「沼田領を要求」。家康がこれに応じたことに昌幸は納得がいきませんでした。そもそも、沼田は自力で勝ち取った真田の領地。この領地問題で家康に不信を抱いた昌幸は、徳川を離反し、再び上杉景勝に臣従することを決めたのです。
怒った家康は、真田の居城である上田城(現在の長野県上田市)に攻撃を開始。1583年、徳川の人員援助と金銭面での協力で建てられた上田城は、まだ未完成の状態でした。家康にとっても、このまま真田に渡すわけにはいきません。こうして天正13年(1585年)、真田と徳川の間で第一次上田合戦が勃発します。真田軍2千の兵に対し徳川軍は7千から1万。鳥居元忠・大久保忠世(おおくぼただよ)平岩親吉(ひらいわちかよし)らが派遣され、主力メンバーである本田忠勝や井伊直政などは、参戦しませんでした。
兵力差で有利だった徳川軍が、真田を甘く見ていたのかもしれません。昌幸は、この戦はまともにぶつかれば勝ち目がないと睨んでいました。神川を挟んで陣を構えた徳川軍。真田勢は徐々に後退し、二の丸まで誘き寄せた徳川軍を撃退。そこに、戸石城で待機していた信之軍も援軍に駆けつけ奇襲をかけます。城下に火を放ち、逃げ場を失った徳川軍は増水した神川で溺死する者も多数いました。こうして第一次上田合戦は、真田勢の大勝利で終結します。
関白・豊臣秀吉に仕える
上杉の家臣となった昌幸は、景勝が当時豊臣政権の五大老となっていたこともあり、関白となった豊臣秀吉に接近していきました。そして次男の真田幸村(真田信繁)を大坂城の秀吉の元に人質として差し出します。次々と先手を打った昌幸は、秀吉の家臣として召し上げられました。
秀吉は昌幸に対し「表裏比興の者」つまり、コロコロ態度を変えるといった意味の言葉を残しています。秀吉の配下となり、大名にまで出世した昌幸は、以前のような周囲の圧力に悩まされることはなくなりました。秀吉の仲裁により、沼田城は北条氏直のものとなり、沼田城からわずか5キロしか離れていない名胡桃城(なぐるみじょう)は昌幸に残されると言う中途半端な形で解決します。
しかし、北条にとっては名胡桃城も支配下に置きたいところ。そして沼田城主となった北条家臣、猪俣邦憲(いのまたくにのり)が名胡桃城を攻撃し、奪ってしまったのです。この行いが「惣無事令」に違反するとして、秀吉は小田原征伐(北条征伐)を決行しました。
※惣無事令とは、秀吉の許可なく大名同士の争いを禁ずること。こうして北条家は滅亡し、沼田城は再び真田の所領となったのです。
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