今回は真田昌幸について紹介します。

昌幸は戦国武将人気ナンバーワンとも言える幸村の親父さんです。中々面白い男なのですが、自分の父親にはしたくないタイプですね。何故かって?それは追い追い分かるさ。

それでは幸村好きを公言しているライター、すのうと一緒に学習していきます。

ライター/すのう

大河ドラマにはまり、特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。真田昌幸は歴女を虜にする人気武将、幸村の父親。食わせ者と言われた昌幸の生涯をすのうが解説していく。

真田昌幸は三男坊で武藤喜兵衛と名乗っていた

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By 不明 - 東京大学史料編纂所データベース, パブリック・ドメイン, Link

真田昌幸は天正16年(1547年)、真田幸隆と恭雲院(きょううんいん)の三男として誕生します。幼名は源五郎。母の恭雲院は、大河ドラマ「真田丸」の中では、「とり」として草笛光子さんが演じていましたね。嫡男の真田信之(信幸)次男の真田幸村(真田信繁)は昌幸と共に真田の存続をかけ活躍していきます。昌幸には信綱(のぶつな)昌輝(まさてる)と言う二人の兄がいました。7歳で武田家の人質として甲斐に渡り、その才能を買われ武田晴信(後の武田信玄)の奥近習六人衆(おくきんじゅうろくにんしゅう)の一人として仕えます。

※ 奥近習六人衆とは信玄の側近として、将来的には幹部候補となる役職のこと。後に武田氏の庶流、武田一門の武藤氏に養子入りした昌幸は、武藤喜兵衛と名乗りました。あらかじめ申し上げておきますが、ここでは真田昌幸の名前で統一させていただきます。

武田信玄の家臣として忠実に仕える

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昌幸と言えば、離反を繰り返すイメージに思われますが、武田信玄の代にはとても忠実に尽くしていました。永禄4年(1561年)、昌幸は川中島の第4次合戦で初陣を飾ります。この時昌幸は、信玄が構える本陣を守る役目をしていました。この4次合戦は激戦であり、奥近習の一人であった、初鹿野源五郎(はじかのげんごろう)が討死。上杉謙信が本陣に突撃した際に、昌幸は信玄の側を離れず他の奥近習の者たちと協力し、信玄を守り抜きました。後に信玄の母、大井夫人の一族である武藤氏に養子入りし、武藤喜兵衛(むとうきへえ)と名乗るようになります。

元亀元年(1570年)韮山城の戦いにおいて、北条氏政隊が援軍として迫る中信玄は「氏政と戦いそのまま小田原まで攻め込もう」と提案。これに対し、武田四天王の一人でもある馬場信春らは、「敵味方の配置や地形を見てから決めてはどうか」と異議を唱えたのです。すると信玄は、「それについては心配ない。両眼の如き者たちを様子見に派遣している」と主張。しばらくして昌幸と曽根昌世(そねまさただ)が帰還し、信玄が「どうだったか?」と尋ねると、「武田軍有利」と返答。こうして信玄は、北条を攻めることを決めたんだとか。昌幸と昌世(まさただ)は信玄から、「我が両眼の如き者」と信頼されていたそうです。人質としてやってきた昌幸が、譜代家臣の多い武田の中でこれほどまでに優遇されていたのは、知力に優れていた証拠ですね。

\次のページで「信玄の死後は武田勝頼に仕える」を解説!/

信玄の死後は武田勝頼に仕える

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By 不明 - 高野山持明院蔵, パブリック・ドメイン, Link

元亀4年(1573年)、武田信玄が病死。昌幸は信玄より家督を継いだ武田勝頼に仕えます。しかし、信玄が偉大過ぎたのか、武田に以前のような勢いはありませんでした。天正3年(1575年)、武田勢vs織田信長・徳川家康連合軍による長篠の戦いが勃発。武田に不利な状況から、武田四天王である、馬場信春・山県昌景(やまがたまさかげ)内藤 昌豊(ないとう まさとよ)らは、勝頼に撤退するように要請しますが、聞き入れられず、強行に及んだ武田軍は敗退してしまいます。

信春・昌景・昌豊の三名は討死。長篠の戦いは武田軍の大敗に終わり、四天王であった三名の猛将に加え、兄の信綱・昌輝までもが亡くなると言う最悪の結果となってしまいました。信春たちの言うことを素直に聞いていれば、負けることはなかったのかもしれませんね。この頃から武田を離反していく家臣も増えていきます。しかし、昌幸が勝頼を見捨てることはありませんでした。

家督を継ぎ、真田家の当主となる

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長篠の戦いで二人の兄を失った昌幸は、勝頼の命令により真田の家督を相続しました。三男として生まれた昌幸にとって、自分が家督を継承するとは思ってもいなかったことでしょう。こうして、真田の当主となった昌幸は、武藤喜兵衛改め真田昌幸と名乗るようになります。

武田が滅亡、行き場を失った真田家

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天正9年(1581年)、武田vs徳川軍による第二次高天神城の戦いで、城を守っていた元今川家臣の岡部元信は、勝頼に援軍を要請しました。しかし、勝頼が援軍を送らなかったことで、元信は討死。この勝頼の行動が家臣たちの反発を招き、離反する者が多数いたのです。勝頼は同年2月、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に代わり、武田の居城となる新府城の築城を開始。ところが、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が、重税を理由に織田信長に寝返り、同じく信玄とは従兄弟同士であった穴山梅雪(あなやまばいせつ)までもが信長に加担します。

天正10年(1582年)、信長による甲州征伐が始まると、勝頼は新府城に火を放ち逃走。昌幸は、勝頼を自身の岩櫃城(いわびつじょう)に招き入れようとしました。しかし、「譜代家臣ではない真田は信用できない」と阻害され、結局は小山田信茂(おやまだのぶしげ)の居城である岩殿城に向かいます。ところが、途中信茂の裏切りが発覚。行き場を失くした勝頼は、天目山(現在の山梨県甲州市)にて自害37歳の生涯を閉じました風林火山を掲げ、甲斐の虎と恐れられた信玄が亡くなり、一気に衰退していった武田家は、ついに滅亡したのです。

織田・上杉・北条・徳川と大勢力に従軍していく

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武田滅亡後、織田信長に従軍した真田家は、滝川一益の与力となりました。ところが、織田家臣となって僅か3カ月後の天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が明智光秀の謀反によって自刃。一益は京に向かう途中、北条氏直に神流川の戦い(かんながわのたたかい)で敗走したのです。この機会に昌幸は、一益の所領となっていた沼田嬢を奪還することに成功しました。

※沼田城(現在の群馬県)とは、昌幸が武田家臣時代に自力で奪い取った城。沼田城は周辺の三大勢力である、北条・上杉・徳川らの重要拠点として、軍事上の要となる場所にあり、城を巡って攻防戦が耐えなかった。真田が織田に従軍後は一益の所領となっている。

その後、沼田城は北条氏から執拗な攻めにあいますが、昌幸の叔父である矢沢頼綱(やざわよりつな)が城代として守り抜きました。その後、昌幸の知略で上杉・北条と次々に主君を代えた真田家は、最終的に徳川家康に臣従するようになります。

徳川を離反、第一次上田合戦の始まり

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新たな主君に徳川家康を選んだ昌幸。しかし、武田滅亡後、旧領地を巡って上杉・北条・徳川で争われていた天正壬午の乱で敵対していた、徳川と北条が和睦を結びます。北条は条件として家康に「沼田領を要求」。家康がこれに応じたことに昌幸は納得がいきませんでした。そもそも、沼田は自力で勝ち取った真田の領地。この領地問題で家康に不信を抱いた昌幸は、徳川を離反し、再び上杉景勝に臣従することを決めたのです。

怒った家康は、真田の居城である上田城(現在の長野県上田市)に攻撃を開始。1583年、徳川の人員援助と金銭面での協力で建てられた上田城は、まだ未完成の状態でした。家康にとっても、このまま真田に渡すわけにはいきません。こうして天正13年(1585年)、真田と徳川の間で第一次上田合戦が勃発します。真田軍2千の兵に対し徳川軍は7千から1万。鳥居元忠・大久保忠世(おおくぼただよ)平岩親吉(ひらいわちかよし)らが派遣され、主力メンバーである本田忠勝や井伊直政などは、参戦しませんでした。

兵力差で有利だった徳川軍が、真田を甘く見ていたのかもしれません。昌幸は、この戦はまともにぶつかれば勝ち目がないと睨んでいました。神川を挟んで陣を構えた徳川軍。真田勢は徐々に後退し、二の丸まで誘き寄せた徳川軍を撃退。そこに、戸石城で待機していた信之軍も援軍に駆けつけ奇襲をかけます。城下に火を放ち、逃げ場を失った徳川軍は増水した神川で溺死する者も多数いました。こうして第一次上田合戦は、真田勢の大勝利で終結します

関白・豊臣秀吉に仕える

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上杉の家臣となった昌幸は、景勝が当時豊臣政権の五大老となっていたこともあり、関白となった豊臣秀吉に接近していきました。そして次男の真田幸村(真田信繁)を大坂城の秀吉の元に人質として差し出します。次々と先手を打った昌幸は、秀吉の家臣として召し上げられました。

秀吉は昌幸に対し「表裏比興の者」つまり、コロコロ態度を変えるといった意味の言葉を残しています。秀吉の配下となり、大名にまで出世した昌幸は、以前のような周囲の圧力に悩まされることはなくなりました。秀吉の仲裁により、沼田城は北条氏直のものとなり、沼田城からわずか5キロしか離れていない名胡桃城(なぐるみじょう)は昌幸に残されると言う中途半端な形で解決します。

しかし、北条にとっては名胡桃城も支配下に置きたいところ。そして沼田城主となった北条家臣、猪俣邦憲(いのまたくにのり)が名胡桃城を攻撃し、奪ってしまったのです。この行いが「惣無事令」に違反するとして、秀吉は小田原征伐(北条征伐)を決行しました。

※惣無事令とは、秀吉の許可なく大名同士の争いを禁ずること。こうして北条家は滅亡し、沼田城は再び真田の所領となったのです。

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関ヶ原の戦いて西軍に付き、九度山に幽閉される

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慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが開戦。昌幸と幸村は西軍、信之は東軍に付くと言う親子別々の道を選択。全ては真田を存続するために昌幸が決断したものでした。真田にとって秀吉には恩がある、嫡男信之の正室は、家康の重臣、本田忠勝の娘の小松姫。複雑な要素が絡み合い、東西に別れる選択をした三人。昌幸が「真田存続」を考え出した結論でした。それはどちらが勝っても真田は生き残れる。やがて関ヶ原の戦いが始まり、昌幸・幸村親子は、前哨戦である第二次上田合戦で、上田城に籠城します。

徳川秀忠は、関ヶ原の合戦前に 上田城に籠城する真田軍を撃退しようとしますが、昌幸があっさりと和睦に応じたのです。ところが、和睦はしたものの、昌幸は城を明け渡す気配が全くありません。それもそのはず、これは和睦をすると見せかけた昌幸の作戦だったのです。一週間近く足止めされた秀忠の軍勢は、急遽撤退し関ヶ原に向かいますが、東軍勝利で合戦はすでに終了。大事な戦に遅刻した秀忠は、家康からキツイお叱りが待っていました。勝利したから良かったものの、負けていたらどうなっていたのでしょうね。

そして西軍に加担した昌幸・幸村親子は九度山(現在の和歌山県)にて幽霊されます。信之の助命嘆願で死罪は免れたものの、15年と言う長い山での生活が余儀なくされました。仕送りに頼る厳しい山での生活の中、昌幸は徳川と合間見える時のために、色々な戦法を考えていたと言う話もあります。しかし、それが実現することはなく65歳で病死。大坂冬の陣が始まる2年前のことでした。

多彩な知略で、数々の危機を乗り越えた真田昌幸

武田信玄に才能を見出され、人質から出世していった真田昌幸。信玄からの信頼も厚く、「我が両眼の如き者」と称されるほどでした。しかし、勝頼の代になり衰退していった武田がついに滅亡。主君を失い、強い勢力に味方しては離反を繰り返し、徳川家康からは稀代の横着者(きだいのおうちゃくもの)などと言われています。大河ドラマ「真田丸」の中では、草刈正雄さんのコミカルな演技に惹きつけられました。戦となれば、多勢相手に多くの策を練り、時には真っ向から挑まず、色々な知略を考えて勝利した昌幸。真田のような国衆が厳しい戦国時代を生きる知恵でもあったのでしょう。

「何をするか分からない」それが昌幸と言う人物であり、「表裏卑怯の者」と呼ばれる由縁なのでしょうか。最後は豊臣秀吉の家臣となり、親子で東西に分かれた関ヶ原。西軍敗退で幽閉された昌幸が、再び戦場に現れることはありませんでした。幽閉中、徳川を討つための策を考えていたのは、いずれ起こる大坂の陣を踏まえてのことだったのかもしれません。昌幸はもう一度奮起して、家康に一泡吹かせたかったのでしょうね。

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安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史江戸時代

多くの猛将を悩ました策略家「真田昌幸」を歴女がわかりやすく解説

今回は真田昌幸について紹介します。

昌幸は戦国武将人気ナンバーワンとも言える幸村の親父さんです。中々面白い男なのですが、自分の父親にはしたくないタイプですね。何故かって?それは追い追い分かるさ。

それでは幸村好きを公言しているライター、すのうと一緒に学習していきます。

ライター/すのう

大河ドラマにはまり、特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。真田昌幸は歴女を虜にする人気武将、幸村の父親。食わせ者と言われた昌幸の生涯をすのうが解説していく。

真田昌幸は三男坊で武藤喜兵衛と名乗っていた

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By 不明 – 東京大学史料編纂所データベース, パブリック・ドメイン, Link

真田昌幸は天正16年(1547年)、真田幸隆と恭雲院(きょううんいん)の三男として誕生します。幼名は源五郎。母の恭雲院は、大河ドラマ「真田丸」の中では、「とり」として草笛光子さんが演じていましたね。嫡男の真田信之(信幸)次男の真田幸村(真田信繁)は昌幸と共に真田の存続をかけ活躍していきます。昌幸には信綱(のぶつな)昌輝(まさてる)と言う二人の兄がいました。7歳で武田家の人質として甲斐に渡り、その才能を買われ武田晴信(後の武田信玄)の奥近習六人衆(おくきんじゅうろくにんしゅう)の一人として仕えます。

※ 奥近習六人衆とは信玄の側近として、将来的には幹部候補となる役職のこと。後に武田氏の庶流、武田一門の武藤氏に養子入りした昌幸は、武藤喜兵衛と名乗りました。あらかじめ申し上げておきますが、ここでは真田昌幸の名前で統一させていただきます。

武田信玄の家臣として忠実に仕える

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昌幸と言えば、離反を繰り返すイメージに思われますが、武田信玄の代にはとても忠実に尽くしていました。永禄4年(1561年)、昌幸は川中島の第4次合戦で初陣を飾ります。この時昌幸は、信玄が構える本陣を守る役目をしていました。この4次合戦は激戦であり、奥近習の一人であった、初鹿野源五郎(はじかのげんごろう)が討死。上杉謙信が本陣に突撃した際に、昌幸は信玄の側を離れず他の奥近習の者たちと協力し、信玄を守り抜きました。後に信玄の母、大井夫人の一族である武藤氏に養子入りし、武藤喜兵衛(むとうきへえ)と名乗るようになります。

元亀元年(1570年)韮山城の戦いにおいて、北条氏政隊が援軍として迫る中信玄は「氏政と戦いそのまま小田原まで攻め込もう」と提案。これに対し、武田四天王の一人でもある馬場信春らは、「敵味方の配置や地形を見てから決めてはどうか」と異議を唱えたのです。すると信玄は、「それについては心配ない。両眼の如き者たちを様子見に派遣している」と主張。しばらくして昌幸と曽根昌世(そねまさただ)が帰還し、信玄が「どうだったか?」と尋ねると、「武田軍有利」と返答。こうして信玄は、北条を攻めることを決めたんだとか。昌幸と昌世(まさただ)は信玄から、「我が両眼の如き者」と信頼されていたそうです。人質としてやってきた昌幸が、譜代家臣の多い武田の中でこれほどまでに優遇されていたのは、知力に優れていた証拠ですね。

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