古代の東アジアにおいて、超大国だった唐が衰退するきっかけとなったのが安史の乱です。反乱は周辺国も巻き込む大規模なものとなり、唐の政治・経済・領土などが大きく変わった。

今回は安史の乱の経緯と影響ついて、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。

ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は世界帝国・唐を大きく変えた安史の乱をわかりやすくまとめた。

大乱の前夜

唐の第9代皇帝・玄宗(在位:西暦712年~756年)は、祖母である則天武后が抜擢した有能な官僚らに支えられ、律令政治の改革を完遂。後世において開元の治と呼ばれる玄宗の善政は、唐の安定と発展に寄与するはずでしたが、その治世の晩年に急転直下、大規模な反乱「安史の乱」が起きてしまいます。
なぜ反乱が起きてしまったのでしょうか。

外戚・楊一族の権力把握

玄宗はその晩年、絶世の美女・楊貴妃を后としました。この楊貴妃に骨抜きにされた皇帝は政治を顧みず、代わって政治の実権は楊貴妃の一族であり宰相となった楊国忠が掌握。楊国忠は、自らに従わない官吏は讒言して左遷する派閥政治を進めます。

有力節度使・安禄山の決起

この楊国忠に標的にされた有力者がいます。玄宗によって有能と認められ、唐の北方国境付近にある范陽(現在の北京周辺)を本拠地として3つの節度使を兼務していた安禄山です。安禄山は玄宗や楊貴妃へとことん取り入りますが、自らの保身には余念が無い人物でした。安禄山と楊国忠は折り合いが悪かったようで、やがて互いの政治的な地位を巡って互いに弾劾を始め、次第にエスカレート。
楊国忠側が安禄山を追い詰めたことで、安禄山は節度使として掌握していた自らの軍事力を背景に、反乱を起こします。

反乱軍の進撃

安禄山が率いた反乱軍は唐の精鋭部隊であり、あっという間に東の副都である洛陽を落とします。洛陽を落とした安禄山は、本拠地である范陽の古名にちなんでを建国し、皇帝に即位。都・長安の重要な防衛ラインである潼関を落とした燕軍は長安に迫ります。

長安の失陥と楊一族の処刑

楊国忠は、自身が節度使(剣南節度使)であった蜀(現在の四川省)への避難を提案。玄宗はこれを受け入れ、朝廷の財宝はそのままに、玄宗は皇族や楊一族ら重臣を連れて蜀に向かいますが、長安は略奪と虐殺の嵐。
玄宗一行も無事では済みません。途中の馬嵬(ばかい)駅で引き連れていた兵士が反乱し、楊国忠や楊貴妃ら、楊一族を皆殺しにしてしまいました。

粛宗を迎え入れた忠臣・郭子儀

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馬嵬駅での反乱の後、失意の玄宗はそのまま蜀の中心都市である成都へ行きます。一方で同行していた皇太子の李亨は玄宗とは別れて北へ進み、オルドス地方にある朔方節度使の駐屯所・霊武(現在の寧夏回族自治区霊武市)に到着。
当地は元々安禄山の従兄が節度使を務めていましたが、反乱後に長安に召喚されたため、その部下である将軍・郭子儀が節度使となっていました。唐に忠誠を誓う郭子儀は李亨を迎え入れ、燕軍へ徹底抗戦を開始。
抗戦の最中、より権威付けする意味があったのでしょう。李亨はお付きの宦官・李輔国らに担がれて、玄宗に事前相談せずに皇帝に即位。第10代皇帝・粛宗となります。

唐の抵抗

都・長安を落とされた唐でしたが、地方では燕への抵抗が継続。対する燕は内紛により更なる攻勢に出るチャンスを逸失。その隙を付いて、唐が反撃の準備を進めることになります。

反乱の首謀者・安禄山の最期

皇帝となった安禄山でしたが、生来の肥満体質が更に悪化し、糖尿病に罹患。視力を失って理性が落ち、側近に暴力を振るい始めます。堪り兼ねた側近の将軍や宦官たちは、次男・安慶緒と共謀して安禄山を暗殺。
暗殺の事実を伏せた首謀者・安慶緒が第2代皇帝として即位するのですが、壁に耳あり障子に目あり。どうしても真実は漏れてしまいます。安禄山と同郷で、長年部下であった史思明は反発して、燕の本拠地・范陽に戻って半ば自立。燕は結束を瓦解させ内部分裂してしまいます。

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唐の忠臣たちの奮起

また、燕の勢力は盤石というわけでもありませんでした。安禄山暗殺の前から、黄河の両岸である河北及び河南では、燕に対する唐の遺臣たちの抵抗運動が繰り広げられていました。燕軍と戦って壮烈な最期を遂げた、2人の忠臣を挙げてみたいと思います。

義に殉じた烈士・顔杲卿

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河北の常山太守であった顔杲卿(がんこうけい)は、范陽を発した安禄山の大軍を出迎えた際、安禄山が反乱を企んでいることを見抜きます。洛陽目指して南下した安禄山を見送った顔杲卿は、平原太守で一族の顔真卿(がんしんけい)ら周辺の唐の旧臣とすぐさま連絡を取り、河北で留守を預かっていた安禄山の配下武将をおびき寄せて謀殺。反旗を翻します。
しかし、急遽の挙兵で兵が集まらなかったことと、本拠地・范陽と洛陽の間の連絡が絶たれることを恐れた安禄山により、10日も持ち堪えられず敗北。
かつて一介の小役人だったのを太守に推挙してやった恩を忘れたのかと詰問する安禄山に対して、捕縛された顔杲卿は猛烈に罵ります。

私は唐の臣である。常に忠義を守る。お前(安禄山)は、元々西北の一介の羊飼いに過ぎぬ。天子の恩寵を受けながら謀反するとは何事だ。

安禄山の強烈な怒りを買った顔杲卿及び彼の一族は、柱に縛り付けられた上で、死なない程度にゆっくり切り刻み苦痛を長時間味合わせる凌遅刑(りょうちけい)に処せられ、絶命したのでした。何とも残酷なものですね。

城を枕に徹底抗戦した張巡

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同じ頃、洛陽から程近い河南地方でも、張巡らが燕軍に対して抵抗していました。張巡は、睢陽(すいよう)太守の許遠を支援するため睢陽に入城。やがて許遠から実力を認められて守備軍の大将となり、洛陽から何度も攻め寄せて来る燕軍の攻撃をゲリラ戦で防ぎます。
睢陽城は当初、1年分の兵糧を備蓄していましたが、

兵糧が無くなると馬やネズミなどの動物を捕らえて食べ、
それも無くなると張巡は自分の妾を殺して兵士に食料として振る舞い、
兵士たちは戦力にならない女性や老人子供を食料とした

と史書には書かれています。
「私の志は貴様らを越えていた。ただ力が足りなかったのみだ。」
安慶緒の配下に捕縛された張巡はそう言い残して刑場の露と消えるのですが、燕軍に睢陽籠城軍の十倍以上・12万の兵士を失わせた上に長期間にわたって足止め。張巡の目論見通り、河南から更に南の淮南や江南地方へ燕の勢力が伸びることを阻止したのでした。

睢陽城落城から3日後、ウイグル帝国の援軍を得て長安方面の燕軍を撃破した唐軍が到着し、河南から燕軍は一掃されまます。あと数日唐軍の到着が早かったなら、と思ってしまいますね。

ちなみに張巡の死後、河南・淮南方面には郭子儀の部下でもあった李光弼が駐屯し、燕軍の南下を押さえています。

唐の反撃

長安から北上して霊武に攻め込んできた燕軍を撃破した郭子儀ら唐軍の首脳部は、長安奪回のための戦力増強のため、北の隣国・ウイグル帝国を頼ることになります。

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ウイグル帝国との同盟

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ウイグル帝国(西暦744年~840年)は、トルコ系遊牧民がモンゴル高原西部を中心に打ち立てた国家です。安史の乱の当時、第2代皇帝・葛勒可汗(かつろくかがん)の治世(西暦747年~759年)でした。
唐の要請を受けた葛勒可汗は支援を受諾。長男で皇太子である葉護(やぶぐ)を、唐の本拠地・霊武に派遣します。葉護太子の来援に狂気した粛宗は、自身の長男である李俶との間で義兄弟の契りを結ばせました。

都の奪回

ウイグル帝国の援軍を得た唐軍は、西暦757年冬、長安近郊における決戦で勝利。長安を奪回した勢いに乗り、燕の都であった洛陽も奪い返します。燕の皇帝・安慶緒は、河北の中心地・鄴城に追い詰められてしまいました。

史思明の裏切り

絶体絶命のピンチに陥った安慶緒を救ったのは、半ば仲違いしていた范陽の史思明でした。鄴城周辺に殺到した唐とウイグルの連合軍を、激戦の末に押し返します。人を疑うことを知らない単純な安慶緒は、援軍のお礼を述べに城を出たところ、既に自立の意思を持っていた史思明に騙されて捕縛。殺されるわけですが、命乞いする安慶緒に対して以下のように言い放ったと言われています。

両都(長安・洛陽)を失ったことなど、些細なことだ。お前(安慶緒)は人の子でありながら、父を殺して位を奪う。天地に容れられない大悪人だ。我は、太上皇(安禄山)のために賊を討つ。どうしてお前の媚びへつらいを受けられよう。

燕の再攻撃

史思明は、燕の皇帝に即位。そのまま軍を南下させ、洛陽を奪い返します。更に東に進み、長安を取ろうとするのですが、唐の将軍・郭子儀は、洛陽のすぐ北・黄河の対岸にある河陽を押さえ、東に進もうとする燕軍を北から牽制する作戦に出ました。これにより、再度両軍睨み合いの情勢となる中、安禄山と同じような理由で史思明も、西暦761年、子の史朝義に暗殺されてしまいます。

一発逆転の謀略

西暦762年春、唐側は上皇玄宗・皇帝粛宗が相次いで崩御。皇太子・李俶が後を継いで代宗として即位。ちょうどこの頃、ウイグル帝国でも葛勒可汗や葉護太子が世を去ります。
唐とウイグル帝国の関係が薄れた隙を狙ったのか、ウイグル帝国のソグド人宰相を通じたのか、史朝義の燕は、ウイグル帝国第3代皇帝・牟羽可汗(ぶぐかがん)と同盟。同年の夏、唐を挟み撃ちにするためにウイグル帝国軍は砂漠を南下し始めます。

僕固懐恩の貢献

唐の郭子儀らが防御を固める一方、ウイグル帝国軍へ唐の使者が何度も不義を説得に掛かりますが、牟羽可汗は聞く耳を持ちません。東から燕・西からウイグル帝国と、強力な敵軍に挟み撃ちにされることになり、唐の命運も尽きたように思われましたが、この牟羽可汗の妻になっていたのは、唐の将軍・僕固懐恩の娘でした。
僕固懐恩を通して妻から説得された牟羽可汗は、唐への攻撃を思い止まります。逆に、ウイグル帝国は唐と改めて同盟を結び、その足でそのまま燕へ再遠征を行うことになりました。

史朝義の最期と乱の終結

謀略に失敗し、ウイグル帝国との同盟を反故にされた史朝義。唐とウイグル連合軍の前に敗北して洛陽を失い、本拠地の范陽に逃げ帰ります。しかし、既に再起の芽は無いと考えた守将の離反により、范陽の城門は閉じたまま。
史思明と違い、謙虚な性格で部下を労わり人望のあった史朝義。彼を慕う部下も多かったのでしょう。敗残の史朝義軍に范陽の城門を開放し、遠路食事を取らず逃げてきた彼らに最後の食事を振舞います。ここで多くの部下たちは家族のもとに戻るため史朝義に別れの挨拶をして軍を離脱。史朝義は涙ながらに無言で見送ります。
部下が四散し、数百騎になった史朝義は更に北方に逃れようとしますが、唐軍についに追いつかれ自殺。こうして、安禄山が始めた反乱、安史の乱は唐の勝利で終焉を迎えることとなりました。

安史の乱の影響

安史の乱は唐の政治体制を大きく変えることになりました。

河北が唐の支配下から半分外れる

唐に降伏した燕の有力武将たちは、唐に従属して王位を名乗らないまでも唐への税の貢納をせず、独自の百官を置く半独立勢力を保ちました。国力を落とした唐の朝廷は、安禄山が治めた河北地方に引き続き割拠する節度使たち・河朔三鎮(かさくさんちん)の力を一時的に抑えることが出来たものの完全に滅ぼすことは出来ず、河北は唐の支配下から事実上外れることになります。

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西域が唐の支配下から一時的に外れる

河北以外にも、唐の版図は縮小します。西域です。安史の乱の終結直後の西暦763年、チベットの吐蕃(とばん)が長駆東進して長安を陥落させる事件が起こります。長安を略奪した吐蕃軍はすぐに引き揚げますが、西域は占領を継続。唐の西の国境は、長安周辺の関中地方にまで後退します。

宦官政治が始まる

粛宗を擁立した李輔国や、続く代宗の世で権力を握った魚朝恩らは宦官です。元々、皇帝の宮殿の奥に仕えるだけで政治的・軍事的な権限を何も持たない彼ら宦官が、乱の終結に一定の役割を果たしたことにより、政治や軍事に介入を始めるのですが、これに反発した将軍・僕固懐恩がウイグルやチベットを引き入れた反乱を起こしています。

魚朝恩は、有力官僚の元載らの謀略により宮中で暗殺され、宦官の専横は一旦収束。しかしその後、代宗の曾孫である第14代皇帝・憲宗の時代、各地の節度使の動向を皇帝の側近である宦官が監視する仕組みが作られることで、皇帝以上の権力を持つ宦官が出てくることになります。

律令制が崩壊し、両税制が制定される

安史の乱による国土の荒廃は、流民の増加と戸籍上の人口の減少を招き、律令制度を持続不可能なものとさせていました。律令制における税制・租庸調に代わり新しい徴税制度が求められます。

西暦780年、魚朝恩を暗殺した元載の後任で宰相となった炎の建議により、従来の租庸調に代わるものとして両税法を制定。これは、

・本籍地であろうと無かろうと、現在住んでいる土地を本籍とする。

・資産額(田畑の広さなど)に応じて徴税額を決定する。

・税を年2回(夏:麦や絹など、冬:米など)に分ける。

年2回に分けているので両税法と呼ばれるのですが、重要なポイントは資産額に応じて徴税額が決まることです。租庸調制がベースにした均田制では、課税する対象の住民資産である田畑は同一であり全ての人が同じ税額となります。しかしこれは極端な話、貴族などの大土地所有者であっても貧しい農民と同じ税額となるわけです。これでは不公平ですね。

そこで現代における所得税と同じく、所得(資産)の多さによって税金を決めました。しかし、これは国が定めた画一的・共産的な財産制度が緩むきっかけとなり、それまでも進んでいた大土地所有がますます進行していくことになりました。

塩と鉄の専売制が開始

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両税法以外にも重要な税制があります。専売制です。

漢の時代においても同様の制度がありましたが、安史の乱に対処するための戦費調達のため、758年に塩法を制定。第五琦を塩鉄使として塩の専売制を導入します。後に、元載の部下である劉晏とともに全国規模での塩の専売体制を完成させ、租庸調に代わる唐の主要な財源となりました。

安史の乱は唐を滅ぼしたのか

凄惨な内乱となった安史の乱は、唐の統治秩序を大きく変えました。唐の領土は中国本土に縮小し、外戚らとの争いの末に取り戻したはずの国家権力の大半は、地方に割拠した有力者・節度使に移りました。徴税制度も壊れ、均田制が終焉を迎えます。

しかし、乱の終結後およそ150年間にわたって唐は延命したので、安史の乱が直接唐を滅ぼしたとは言えません。乱に対処するために行った様々な改革が唐を延命させたのです。

しかし、世界帝国である唐は普通の中華王朝に転落し、皇帝・宦官・官僚・節度使らの相互牽制により、白村江の戦いであったような周辺のアジア諸国への膨張圧力を減らします。それによって、吐蕃やウイグルもそうですが、契丹、女真、ベトナム、日本など、周辺諸民族が自らの国力(軍事力・経済力・文化など)を増す猶予を与えたと言えるのではないでしょうか。

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唐帝国が衰退するきっかけを作った「安史の乱」ー経緯と影響を歴史オタクが5分でわかりやすく解説!

古代の東アジアにおいて、超大国だった唐が衰退するきっかけとなったのが安史の乱です。反乱は周辺国も巻き込む大規模なものとなり、唐の政治・経済・領土などが大きく変わった。

今回は安史の乱の経緯と影響ついて、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。

ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は世界帝国・唐を大きく変えた安史の乱をわかりやすくまとめた。

大乱の前夜

唐の第9代皇帝・玄宗(在位:西暦712年~756年)は、祖母である則天武后が抜擢した有能な官僚らに支えられ、律令政治の改革を完遂。後世において開元の治と呼ばれる玄宗の善政は、唐の安定と発展に寄与するはずでしたが、その治世の晩年に急転直下、大規模な反乱「安史の乱」が起きてしまいます。
なぜ反乱が起きてしまったのでしょうか。

外戚・楊一族の権力把握

玄宗はその晩年、絶世の美女・楊貴妃を后としました。この楊貴妃に骨抜きにされた皇帝は政治を顧みず、代わって政治の実権は楊貴妃の一族であり宰相となった楊国忠が掌握。楊国忠は、自らに従わない官吏は讒言して左遷する派閥政治を進めます。

有力節度使・安禄山の決起

この楊国忠に標的にされた有力者がいます。玄宗によって有能と認められ、唐の北方国境付近にある范陽(現在の北京周辺)を本拠地として3つの節度使を兼務していた安禄山です。安禄山は玄宗や楊貴妃へとことん取り入りますが、自らの保身には余念が無い人物でした。安禄山と楊国忠は折り合いが悪かったようで、やがて互いの政治的な地位を巡って互いに弾劾を始め、次第にエスカレート。
楊国忠側が安禄山を追い詰めたことで、安禄山は節度使として掌握していた自らの軍事力を背景に、反乱を起こします。

反乱軍の進撃

安禄山が率いた反乱軍は唐の精鋭部隊であり、あっという間に東の副都である洛陽を落とします。洛陽を落とした安禄山は、本拠地である范陽の古名にちなんでを建国し、皇帝に即位。都・長安の重要な防衛ラインである潼関を落とした燕軍は長安に迫ります。

長安の失陥と楊一族の処刑

楊国忠は、自身が節度使(剣南節度使)であった蜀(現在の四川省)への避難を提案。玄宗はこれを受け入れ、朝廷の財宝はそのままに、玄宗は皇族や楊一族ら重臣を連れて蜀に向かいますが、長安は略奪と虐殺の嵐。
玄宗一行も無事では済みません。途中の馬嵬(ばかい)駅で引き連れていた兵士が反乱し、楊国忠や楊貴妃ら、楊一族を皆殺しにしてしまいました。

粛宗を迎え入れた忠臣・郭子儀

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馬嵬駅での反乱の後、失意の玄宗はそのまま蜀の中心都市である成都へ行きます。一方で同行していた皇太子の李亨は玄宗とは別れて北へ進み、オルドス地方にある朔方節度使の駐屯所・霊武(現在の寧夏回族自治区霊武市)に到着。
当地は元々安禄山の従兄が節度使を務めていましたが、反乱後に長安に召喚されたため、その部下である将軍・郭子儀が節度使となっていました。唐に忠誠を誓う郭子儀は李亨を迎え入れ、燕軍へ徹底抗戦を開始。
抗戦の最中、より権威付けする意味があったのでしょう。李亨はお付きの宦官・李輔国らに担がれて、玄宗に事前相談せずに皇帝に即位。第10代皇帝・粛宗となります。

唐の抵抗

都・長安を落とされた唐でしたが、地方では燕への抵抗が継続。対する燕は内紛により更なる攻勢に出るチャンスを逸失。その隙を付いて、唐が反撃の準備を進めることになります。

反乱の首謀者・安禄山の最期

皇帝となった安禄山でしたが、生来の肥満体質が更に悪化し、糖尿病に罹患。視力を失って理性が落ち、側近に暴力を振るい始めます。堪り兼ねた側近の将軍や宦官たちは、次男・安慶緒と共謀して安禄山を暗殺。
暗殺の事実を伏せた首謀者・安慶緒が第2代皇帝として即位するのですが、壁に耳あり障子に目あり。どうしても真実は漏れてしまいます。安禄山と同郷で、長年部下であった史思明は反発して、燕の本拠地・范陽に戻って半ば自立。燕は結束を瓦解させ内部分裂してしまいます。

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