世界帝国である唐の最盛期に君臨して善政を敷き改革を進めたたものの、晩年に一気に国力を衰退させた皇帝が玄宗皇帝です。玄宗皇帝は立派な君主であったはずが、なぜ国を傾けさせてしまったのか。

唐の皇帝となる今回は唐の玄宗の事績について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。

ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は世界帝国・唐の最盛期を現出させた玄宗皇帝をわかりやすくまとめた。

玄宗皇帝とは

Tang XianZong.jpg
By User Zhuwq on zh.wikipedia - 不明, パブリック・ドメイン, Link

玄宗は、古代中国における世界帝国・(西暦618年~907年)の第9代皇帝です。名前は李隆基。唐の最盛期を現出した皇帝と言われています。その生涯はどのようなものだったのでしょうか。

唐の宗室として生まれる

李隆基は西暦685年、唐の第8代皇帝・睿宗の三男として生まれました。当時、父・睿宗は皇帝であったに関わらず、政治の実権はその母で先代皇帝高宗の后でもある女傑・則天武后に握られていました。李隆基は外戚により李氏の唐が乗っ取られる時代に生まれ、自分の祖母でもある武照が自ら退位するまでを青年時代として過ごします。則天武后が開いた王朝が平和裏に終焉した西暦705年、玄宗は20歳になっていました。
武氏から皇位を奪還した唐の李氏は睿宗の兄であり李隆基の叔父でもある中宗が即位するのですが、その行く手は万事安泰というわけではありませんでした。

従兄の失敗

叔父である中宗の后に、韋后がいます。この韋后は中宗との間に皇子がいなかったのですが、義母である則天武后に似て欲の強い女性だったようです。前政権の周の皇族である武一族と結託し、自分たちの一族に次々と利権を付与。
この流れを周の二の舞になると危ぶんだ中宗の三男、皇太子であり、李隆基にとっては従兄にあたる李重俊は、西暦707年、韋后とその娘である安楽公主に加え、その舅で武一族の有力者・武三思を除くためクーデタを敢行。前政権の武氏の一族であり、則天武后の後釜として皇太子を望んでいたこともある武三思が、安楽公主(李重俊から見て異母妹)を皇太女にさせようとしたことが理由でした。クーデター派は武三思を殺せたものの、韋一族の逆襲に遭い失敗し、李重俊は殺されてしまいます。

韋后の排除

韋后は、則天武后によって夫の中宗が無理矢理皇帝の座から引き摺り下ろされた時、都を逐われて夫と一緒に配流されたことがあります。苦難を共にした夫婦仲は悪くなかったと言われていますが、愛は永遠では無かったのでしょう。李重俊を死に追いやった後の西暦710年、自らの不倫が発覚しそうになった韋后は、先手を打って娘の安楽公主とともに夫の中宗を毒殺。中宗の末子で、韋后とは血縁関係のない李重茂を急遽皇帝として擁立します。
発言権の無い若い皇帝を擁立する。武周と同じ手口ですね。皇族の一員として既に成人しており、韋后の動きに危機感を感じた李隆基は、高宗と則天武后の娘で中宗・睿宗兄弟の末娘であった太平公主を宮廷内部の協力者として引き込んだ上で、韋一族を滅ぼします。

外戚一派の一掃

中宗の崩御と韋一族の滅亡により、父である睿宗が重祚。しかし今度は、手を組んだはずの太平公主との間での対立が始まります。太平公主は、見た目も行動も則天武后と同じだったようで(これゆえに則天武后には可愛がられたようですが)、衝突は時間の問題だったかもしれません。韋一族を滅ぼした2年後の西暦712年、睿宗から譲位された李隆基は第9代皇帝・玄宗として即位するのですが、即位の翌年に、自ら剣を取って太平公主一派を一掃。
ここに、高宗時代から続く、皇帝の外戚を中心とした宮廷の乱は終結。唐の政権は、再び皇族の李氏のもとに戻ることになりました。

\次のページで「皇帝として」を解説!/

皇帝として

太宗・李世民以来、久しぶりに皇帝に権力を集中することに成功した玄宗は、様々な改革を進めます。そのブレーンも既に整えられていました。祖母である則天武后が抜擢した賢者たち、姚崇・宋璟らです。彼らが宰相として玄宗を支えて推進した善政と安定した政治を指し、その治世である開元(西暦713年~741年)という元号にちなんで「開元の治」と呼ばれています。

その改革はどのようなものだったのでしょうか。

唐の律令政治

天智天皇ら日本の大和朝廷が手本にした唐の政治制度は何でしょうか。律令政治ですね。
日本の公地公民制と同じく、唐は農民に等しく田畑を与える均田制と、戸別に課税していく租庸調制を行政法である唐律として整備していました。
しかし、自然災害や重税などで本籍地から逃亡する農民が後を絶たず、戸籍上の人口が減ることにより税収が次第に減少。逃亡した農民は流民(客戸)として彷徨った挙句、多くは貴族など有力者に拾われて私有地における請負農民である小作人(佃戸:でんこ)となります。

戸籍の再整備を行う

image by PIXTA / 48361948

律令政治の立て直しを図りたい玄宗は、逃亡した農民を本籍地でなく逃亡先の土地の住民として改めて戸籍登録させる政策を行います。その際に、通常の租庸調よりも安い税金負担とするインセンティブを付けることで、客戸により受け入れられやすくするようにしました。

徴兵制を止めて兵農分離

image by iStockphoto

府兵制は均田制を前提とした軍事制度です。戸籍に登録された農民たちのうち、一定の割合で徴兵する仕組みですが、日本の律令制度にある防人と似ていますね。しかし日本よりも国土の広大な唐帝国において、故郷から遠く離れた辺境の兵役は農民たちに非常に負担の大きいものであったようで、兵士が集まらず苦労していました。
そこでこの制度も西暦749年を境に徐々に廃止していき、農民ではなく職業軍人としてお金を払って雇う傭兵制度に変更。この制度を「募兵制」と呼んでいます。

強力な権限を持つ節度使の設置

さらに、辺境を中心とした国境の守備体制も強化します。
それまでの唐の辺境統治は「羈縻政策(きびせいさく)」という、現地住民(多くは異民族)に名目的な官爵を与えて懐柔し、漢人が住む唐本土に襲ってこないようにする間接支配を行っていました。この政策を推進していたのが、都護府と呼ばれる役所です。
この都護府は純粋に政治的な行政機関であり、軍権も行政権もありませんでしたので、侵略や反乱が起こった時に即応できない体制でした。そこで、都護府に代わり節度使という新たな役職を設けます。この節度使は、それまで都護府の役人が持っていなかった軍権や行政権など幅広い権限を持ち、さらに徴税も出来ました。
西暦710年、律令体制においては根拠法が無い臨時の役職(令外官)として西北部の涼州に河西節度使が設置されて以来、モンゴルに近い唐本土にも河東節度使や

\次のページで「西へ軍を進める」を解説!/

西へ軍を進める

TALAS RIVER.JPG
By Thermokarst - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, Link

国内を固めた唐は、更なる外征に撃って出ます。
タリム盆地の押さえとして設置された安西節度使。その長である高句麗系の将軍・高仙芝は、中央アジアへの進出を進めます。唐の西進に対抗する西の大国・アッバース朝は、西暦751年、タラス河畔において決戦を行うのですが、現地住民の裏切りを誘うことで前後から高仙芝の軍を挟み撃ち。唐軍を撃退することに成功します。

これらの政策を行った唐は、玄宗皇帝の下で繁栄を謳歌します。アッバース朝に敗れたものの、西域を押さえ、主要交易ルートであるシルクロードの安全を確保した唐へは、都・長安に多くの外国人商人が来訪。東西交易の東の出発点として経済成長した国際都市・長安は、人口100万人を超える大都市に発展したと言われています。

安史の乱

善政を敷いたはずの玄宗でしたが、次第に政務を顧みなくなります。そのきっかけは美女が作った心の隙間でした。高宗や中宗もそうですが、唐の皇帝は女性に弱いのでしょうか。

傾国の美女

Hosoda Eishi - Yang Gui Fei.jpg
By Hosoda Eishi (1756-1829) - British Museum, パブリック・ドメイン, Link

楊玉環。楊貴妃として知られ、傾国の美女・世界三大美女、など色々な例えで表現される女性です。
元は玄宗のある皇子の妻であったのですが、西暦740年、玄宗が55歳、楊貴妃が21歳の時に息子から召し上げて自分の后・貴妃としています。
秀吉と淀君・太宗と則天武后以上の年の差婚で、息子からの略奪愛。節操がありませんね。しかし名君ですら虜にしてしまう理由は、容貌美しく才女であった以上に非常に心配りの上手い女性だったことであるようです。この点は男勝りな則天武后と違いますね。

外戚の権臣

傾国の美女には、もれなくジョーカーが付いて来ました。又従兄の楊国忠です。
楊国忠は、得意としていた博打で培った才能を活かし、玄宗に認められてとんとん拍子に出世。李林甫の後を継いで、西暦752年に宰相になります。
宰相になった楊国忠は、派閥政治を推進。自分に従わない官吏は讒言して左遷します。

\次のページで「有力節度使・安禄山の決起」を解説!/

有力節度使・安禄山の決起

この楊国忠に標的にされた有力者がいます。玄宗に有能と認められて北方の3つの節度使を兼務していた安禄山です。安禄山は玄宗や楊貴妃へとことん取り入りますが、その裏返しで自らの保身には余念が無い人物でした。似たところのある安禄山と楊国忠は折り合いが悪かったようで、やがて互いの政治的な地位を巡って互いに弾劾を始め、次第にエスカレート。
西暦755年、追い詰められた安禄山が自分の配下の軍を率いて反乱を起こします(安史の乱)。反乱軍は唐の東の副都だった洛陽を落とし、を建国。長安に迫ります。

長安の失陥と楊一族の処刑

長安を守る重要な防御線を燕軍に突破された楊国忠は、自身が節度使(剣南節度使)であった蜀(現在の四川省)への避難を提案。玄宗はこれを受け入れ、朝廷の財宝はそのままに、玄宗は皇族や楊一族ら重臣を連れて蜀に向かいますが、長安は略奪と虐殺の嵐。
玄宗一行も無事では済みません。途中の馬嵬(ばかい)駅で引き連れていた兵士が反乱。彼ら兵士の家族は長安に居たから恨みがあったのでしょうか。全ての責任は無用な派閥争いで内乱を引き起こした楊国忠にあるということで、彼の一族は皆殺しにします。楊貴妃にもその手が伸び、玄宗は拒否したのですが興奮状態の兵士たちを押さえきれず、最後は玄宗を説得した宦官の手により絞殺されました。

強制隠居

馬嵬駅での反乱の後、失意の玄宗はそのまま蜀の中心都市である成都へ行きます。一方で同行していた皇太子の李亨は玄宗とは別れて北へ進み、オルドス地方にある朔方節度使の駐屯所・霊武(現在の寧夏回族自治区霊武市)に到着。
当地は元々安禄山の従兄が節度使を務めていましたが、反乱後に長安に召喚されたため、その部下である将軍・郭子儀が節度使になっていました。唐に忠誠を誓う郭子儀は李亨を迎え入れ、燕軍へ徹底抗戦を開始。
抗戦の最中、より権威付けする意味があったのでしょう。李亨はお付きの宦官・李輔国らに担がれて、玄宗に事前相談せずに皇帝に即位。第10代皇帝・粛宗となります。

崩御

既に皇帝としての気力を失っていた玄宗は、追認せざるを得ませんでした。安禄山の反乱は、粛宗及びその子・代宗らにより鎮圧されることになりますが、その完全終結を見ないまま、西暦762年に77歳で崩御し、その生涯を終えます。

玄宗は臣下を信じすぎたお人よし?

玄宗は先代睿宗の三男です。成人の兄が居たのですが、武韋の禍を収めた力量を認めた兄は、玄宗に皇太子の位を譲位。自らの地位を脅かす人物がいる場合、暗殺や追放を行う皇帝は歴史上多いですが、玄宗は皇帝の身でありながらも兄が死ぬまで、兄に対する敬意と礼節を貫いたと言います。
武韋の禍を収めた果敢さや、開元の治による改革の遂行が評価出来る玄宗。一方で、楊貴妃にゾッコンになって政治を顧みず、内乱を起こしてしまった点は批判される玄宗。玄宗には2つの相反する評価がなされますが、安史の乱に際しての財宝のエピソードや、上記のような兄へエピソードを見るにつけ、少なくとも仁君であったろうと思います。
中国古代の思想家で、国家のあるべき姿を説いた孔子は、勇・徳・仁を持つ君主を理想としたそうです。恐らく、玄宗はそれら全てを兼ね備えています。しかし結果的に国が乱れてしまったのは、西洋の思想家マキャベリが君主論で説いたように、人間とはしばしば利己的で偽善的な者であるという現実を直視して、楊国忠や安禄山などの利己的な部下を押さえる冷酷さを、傾国の美女に夢中になっている間に忘れてしまったことにあるのかもしれませんね。

" /> 名君なのか暗君なのか?唐の「玄宗」を歴史オタクが5分でわかりやすく解説!その事績をまとめてみる – Study-Z
世界史中国史歴史

名君なのか暗君なのか?唐の「玄宗」を歴史オタクが5分でわかりやすく解説!その事績をまとめてみる

世界帝国である唐の最盛期に君臨して善政を敷き改革を進めたたものの、晩年に一気に国力を衰退させた皇帝が玄宗皇帝です。玄宗皇帝は立派な君主であったはずが、なぜ国を傾けさせてしまったのか。

唐の皇帝となる今回は唐の玄宗の事績について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。

ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は世界帝国・唐の最盛期を現出させた玄宗皇帝をわかりやすくまとめた。

玄宗皇帝とは

Tang XianZong.jpg
By User Zhuwq on zh.wikipedia不明, パブリック・ドメイン, Link

玄宗は、古代中国における世界帝国・(西暦618年~907年)の第9代皇帝です。名前は李隆基。唐の最盛期を現出した皇帝と言われています。その生涯はどのようなものだったのでしょうか。

唐の宗室として生まれる

李隆基は西暦685年、唐の第8代皇帝・睿宗の三男として生まれました。当時、父・睿宗は皇帝であったに関わらず、政治の実権はその母で先代皇帝高宗の后でもある女傑・則天武后に握られていました。李隆基は外戚により李氏の唐が乗っ取られる時代に生まれ、自分の祖母でもある武照が自ら退位するまでを青年時代として過ごします。則天武后が開いた王朝が平和裏に終焉した西暦705年、玄宗は20歳になっていました。
武氏から皇位を奪還した唐の李氏は睿宗の兄であり李隆基の叔父でもある中宗が即位するのですが、その行く手は万事安泰というわけではありませんでした。

従兄の失敗

叔父である中宗の后に、韋后がいます。この韋后は中宗との間に皇子がいなかったのですが、義母である則天武后に似て欲の強い女性だったようです。前政権の周の皇族である武一族と結託し、自分たちの一族に次々と利権を付与。
この流れを周の二の舞になると危ぶんだ中宗の三男、皇太子であり、李隆基にとっては従兄にあたる李重俊は、西暦707年、韋后とその娘である安楽公主に加え、その舅で武一族の有力者・武三思を除くためクーデタを敢行。前政権の武氏の一族であり、則天武后の後釜として皇太子を望んでいたこともある武三思が、安楽公主(李重俊から見て異母妹)を皇太女にさせようとしたことが理由でした。クーデター派は武三思を殺せたものの、韋一族の逆襲に遭い失敗し、李重俊は殺されてしまいます。

韋后の排除

韋后は、則天武后によって夫の中宗が無理矢理皇帝の座から引き摺り下ろされた時、都を逐われて夫と一緒に配流されたことがあります。苦難を共にした夫婦仲は悪くなかったと言われていますが、愛は永遠では無かったのでしょう。李重俊を死に追いやった後の西暦710年、自らの不倫が発覚しそうになった韋后は、先手を打って娘の安楽公主とともに夫の中宗を毒殺。中宗の末子で、韋后とは血縁関係のない李重茂を急遽皇帝として擁立します。
発言権の無い若い皇帝を擁立する。武周と同じ手口ですね。皇族の一員として既に成人しており、韋后の動きに危機感を感じた李隆基は、高宗と則天武后の娘で中宗・睿宗兄弟の末娘であった太平公主を宮廷内部の協力者として引き込んだ上で、韋一族を滅ぼします。

外戚一派の一掃

中宗の崩御と韋一族の滅亡により、父である睿宗が重祚。しかし今度は、手を組んだはずの太平公主との間での対立が始まります。太平公主は、見た目も行動も則天武后と同じだったようで(これゆえに則天武后には可愛がられたようですが)、衝突は時間の問題だったかもしれません。韋一族を滅ぼした2年後の西暦712年、睿宗から譲位された李隆基は第9代皇帝・玄宗として即位するのですが、即位の翌年に、自ら剣を取って太平公主一派を一掃。
ここに、高宗時代から続く、皇帝の外戚を中心とした宮廷の乱は終結。唐の政権は、再び皇族の李氏のもとに戻ることになりました。

\次のページで「皇帝として」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: