古代中国・唐の時代、非漢人であるものの持ち前の能力で皇帝に取り入って権力を握ったものの、身を守るために反乱を起こして唐が衰退するきっかけを作ったのが安禄山です。人は生まれて時に己の人生を選べないが、安禄山はその人生において出世のための努力を惜しまず成功した、高い能力の持ち主でもある。

    今回は安禄山の経歴について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。

    ライター/kei

    10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は世界帝国・唐を半壊させた異色の才人・安禄山をわかりやすくまとめた。

    安禄山とはどんな人なのか

    An Lu Shan.jpeg
    By 不明, パブリック・ドメイン, Link

    安禄山は古代中国の王朝(西暦618年~907年)の有力者、節度使です。節度使は地方の行政権・軍事権を一手に司る重要な役職だったことを考えると、並大抵の人物には任されないような気がします。実際、安禄山は高スキルな人材でした。安禄山の人となりを見ていきましょう。

    生まれがよくわからない人

    安禄山は西暦703年に中央アジアのサマルカンドで生まれました。突厥系ソグド人と言われていて、中国で圧倒的多数を占める漢人ではありません。父親はソグド人とされますが、誰かは分からず、母親は突厥人(トルコ人)の占い師であったようです。
    父は早くに亡くなったため、母親が再婚するに伴って連れられて母の故郷である突厥・モンゴルに移住。そこに居たソグド系の軍閥の一員となります。少なくとも恵まれた出生とは言えなかったようですね。

    マルチリンガル

    image by iStockphoto

    安禄山の居たソグド系軍閥は、突厥の国内が混乱した際、一族を挙げて唐に降伏。華北の山西地方に移り住みます。山西は突厥や契丹などの諸民族が混住する地域であったため、安禄山は6つの言語を駆使するマルチリンガルとして成長。
    得意の語学を活かして、唐に仕官。貿易官に任じられます。

    太りやすい体質

    image by iStockphoto

    突厥人の血が流れている安禄山は語学力だけでなく、持ち前の勇猛さもありました。それを買われたのでしょうか。西暦732年、現在の北京周辺に設置されていた幽州節度使の張守珪武将として仕官。
    張守珪の下での武将・安禄山は、当時、唐の北方を荒らしていたモンゴル系の奚族や契丹族から、持ち前の語学力を活かして内部情報を掴み、戦いを有利に進めます。
    上司から見た安禄山は有能な部下でした。しかし、非の打ちどころの無い人物というわけでもなく、その勤務評価で改善点としていつも指摘されていたのは、食事制限とダイエットでした。事実、安禄山は太りやすい体質で、後に巨漢に成長するのですが、小心な面もある安禄山は上司を恐れて、武将時代はアドバイスに忠実に従っていたと言われています。

    口が上手い

    勝利を重ねていた安禄山ですが、ある時、上官命令を無視して進軍し、大敗を喫してしまいます。張守珪は軍令無視を理由に安禄山を殺そうとしますが、「奚と契丹を滅ぼしたくないのか。なぜ、自分を殺すのだ。」と喚きます。
    その場で判断を下せなかった張守珪は、長安に送って判断を仰いだものの、そこでも口の上手さで死刑を回避することに成功。
    張守珪が失脚した後、西暦742年に北方の抑えの一つである平盧節度使に任じられ、晴れて一武将から地方の有力者にのし上がったのでした。

    節度使・安禄山

    節度使になり、唐の有力者としてひとかどの地位に就いた安禄山でしたが、その後も彼の強みは遺憾なく発揮されていきます。

    皇帝に取り入る

    安禄山は節度使になった翌年、長安において当時唐の皇帝だった玄宗に拝謁。その際、自らの忠誠をアピールするため、以下のような歯が浮くようなお世辞を述べたと言われています。

    昨年、自分の領地で蝗(いなご)が稲を食い荒らす被害が起きたので、「私の心が不正で不忠であるなら、蝗に私の腸を食い尽くさせて下さい。もし、神に背いてないのなら、蝗を全て退散させて下さい。」と願い、香を焚いて天へ祈りました。そうすると、北方から鳥の群れが飛んできて、蝗を食べ尽くしてしまいました。

    本当か嘘か分からない話。しかも、たまたま鳥がやってきて蝗の被害を押さえたのかもしれない。しかしこの言葉は、玄宗を大変喜ばせたようです。

    芸達者な安禄山

    image by PIXTA / 47327294

    節度使になった安禄山は、注意する上司が居なくなったのでしょう。太りやすい体質から肥満が進行し、体重200キロを超える巨漢に成長していました。それほどの巨体を持ちながら、玄宗の前で故郷・ソグディアナに伝わる舞踊・胡旋舞(こせんぶ)を披露したこともあります。多才な一面も見せた安禄山は、玄宗に更に喜ばれたようです。

    楊貴妃に取り入る

    安禄山は口が上手いだけでなく、空気を読むのが上手い人物でもありました。玄宗の寵愛を受けていた楊貴妃に取り入るべきことを、見抜いていたのでしょう。2つのエピソードがあります。

    一つは、皇帝である玄宗と楊貴妃が一緒にいる前で、主君である玄宗を差し置いて楊貴妃に挨拶したことがあったようです。これは主君を無視する行為で不忠と言われても仕方ないことなのですが、無礼を指摘された安禄山は、
    「自分が育ったソグドの風習では母を大事にする、というものがございます。それ故に、国母である楊貴妃に先にご挨拶致しました。お許しください」と答え、楊貴妃はもとより玄宗も喜ばせたとか。

    もう一つは、おむつをして大きなゆりかごに入って宮廷に入り、楊貴妃の赤ちゃんを演じていることです。そこまで出来る関係性を持っていると判断したからこそ実行に移したのでしょう。玄宗は大いに笑ったようですが、楊貴妃と安禄山はそれで何日も一緒に宮廷に入ったことから、唐の宮廷では醜聞がしばらくの間絶えなかったとか。

    このような努力をしていれば、嫌でも信任は厚くなりますね。自身の誕生日には玄宗と楊貴妃からプレゼントが贈られるような親密な関係になったようです。また、唐の臣下としての権力も大幅に拡大し、范陽・平盧・河東の3つの節度使を兼ねることとなり、唐の北方の兵力の大半を手中に収めるに至りました。

    安禄山のライバルたち

    順風満帆に見える安禄山。しかし安禄山自身がそうであったように、世界帝国だった唐は人材の宝庫でもありました。玄宗配下の重臣たちには、安禄山のライバルと言えるものが出現。そのうち、後に敵対することとなった哥舒翰楊国忠の二人を挙げてみます。

    西の有力者・哥舒翰

    哥舒翰(かじょかん)は、河西節度使・隴西節度使を兼務している唐の有力者です。安禄山の拠点である范陽から見ると、黄河を挟んで長安の西方に位置する節度使でした。人となりは以下のような感じですが、同じ非漢人でも安禄山とはタイプが違います。

    安禄山と同郷で、父は突厥人の唐将軍・母は西域のホータン王国の王女。由緒正しい家柄。
    唐の西部で勢力を強めたチベットの吐蕃(西暦618年~824年)との戦いで、自ら前線で槍を振るって奮戦した正統派の武人。
    中国の古典である春秋や漢書を読む知識人。
    財産にこだわらず人によく施し、西方の士として名声を得る。

    この哥舒翰と安禄山は同郷のわりに折り合いが悪かったようで、都の長安での宴席でも口論になったことがあるようです。

    \次のページで「博打大好きな外戚・楊国忠」を解説!/

    博打大好きな外戚・楊国忠

    image by PIXTA / 10334789

    もう一人は、楊貴妃の又従兄である楊国忠です。
    楊国忠は博打が好きな無頼の徒として一族からも忌み嫌われていましたが、楊貴妃が玄宗の寵愛を受けるに際して任官された典型的な外戚でした。その人となりは以下の通りですが、人により評価が変わると思われます。

    又従妹の美人な楊貴妃の血縁にあったためか、持ち前の男前な容姿
    博打で培ったと思われる優れた計算力を持つ「好度支郎」(優秀な出納官)
    博打で培ったと思われる弁舌(はったりとも…)

    これらの才を認められてとんとん拍子に官位を上げた楊国忠は、やがて宰相・李林甫の後を継いで西暦752年に宰相となります。楊国忠は、自分に従う者は出世させ、反発する者は讒言して左遷させるという典型的な派閥争いを進めていました。

    楊国忠から仕掛けた権力争い

    楊国忠は蜀(現在の四川省)の節度使である剣南節度使を兼ねていました。宰相の地位には就いたものの、楊国忠よりも強力な軍権を持ち、玄宗や従妹に取り入っていた安禄山が面白くなかったのでしょう。安禄山に謀反の意図ありと盛んに吹聴して回ります。
    焦った安禄山は西暦754年正月に長安で玄宗に謁見。玄宗に楊国忠から迫害されていることを直訴し、自らが宰相に相応しいと力説します。しかしこれを伝え聞いた楊国忠は一派を駆使して安禄山を宰相とすることを玄宗に思い止まらせた上で、安禄山の配下の役人を節度使の勢力圏外に左遷して安禄山派の勢力を削ろうと、あの手この手の陰謀工作を遂行していきました。
    自らの次官が左遷途中に暗殺されるに至り、安禄山は楊国忠を武力で打倒するため反乱を決意。西暦755年冬、安史の乱が勃発します。

    唐への反乱

    安禄山の起こした反乱の経過はどのようなものだったのでしょうか。

    精強な安禄山軍

    マルチリンガルだった安禄山は、本拠地である范陽(現在の北京周辺)から程近いモンゴル高原に住む契丹族などの異民族と、彼らの言語を使って深い友好関係を結んでいました。安禄山は反乱決起にあたって、これらの勇敢で協力的な異民族を自軍に組み込むことに成功。安禄山軍本隊もまた、辺境守備軍として連年戦い続けてきたこともあり、士気も練度も高い精鋭でした。

    破竹の進撃

    君側の奸・楊国忠を除くという名目を掲げ、本拠地・范陽から20万の大軍で、唐の東の都であった黄河中流域の洛陽目指して進軍。唐の西域将軍である高仙芝らを撃破し、洛陽を落とします。
    安禄山の反乱を最初は信じなかった玄宗も、華北が全て陥落したことを知ると、長安に留まっていて結婚したばかりだった安禄山の長男を捕らえて処刑。対立は決定的となりました。

    皇帝に即位

    洛陽を落とした安禄山は、洛陽を都として皇帝に即位。本拠地である范陽の昔の名称である燕(えん)を国号として建国し、百官を置きます。

    哥舒翰との対決

    洛陽を失った唐側は、都・長安に通じる要衝である潼関に、哥舒翰を配置。この頃の哥舒翰は病に掛かり往年の勢いを失っていましたが、長安周辺の唐軍主力20万の兵力を率いて出撃。潼関に到着すると、そこから撃って出ずに堅守の構えを見せ、攻め寄せる燕軍を何度も撃退します。
    このまま戦線が膠着すると思われた矢先、唐は権臣の失策で、自滅の一手を踏んでしましました。

    保身から見誤った楊国忠

    この膠着の最中、楊国忠に下手な忠告をする者がいました。
    「今、唐の主力軍は全て哥舒翰の手中にあります。もし哥舒翰が裏切って長安に攻めて来たら、危険ではないでしょうか。」
    これを恐れた楊国忠は、潼関周辺に数千の燕軍しかいないことを理由に、哥舒翰へ洛陽に進撃するよう、玄宗に進言します。当時、長安北方のオルドス地方に駐屯していた朔方節度使の郭子儀とその部下・李光弼は、潼関は堅守して敵を疲労させつつ、自分たちが別動隊となって山西地方から燕軍の本拠である范陽へ攻め掛ける、と反対しました。

    軍事的には郭子儀らの提案が安全策であったと思えるものの、楊国忠の一派による世論工作に誘導され、玄宗は楊国忠の進言を受諾。哥舒翰に関を出て進撃するよう命じます。

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    哥舒翰の慟哭

    一方の哥舒翰は、楊国忠を討ち安禄山の反乱の大義名分を絶ち、朝廷の元凶を取り除くべき、という部下の進言を押し止めていました。紳士で気骨な武人であった哥舒翰は、皇帝に弓を引くような真似はしたくなかったのでしょう。

    そこへ玄宗皇帝の出撃命令が届きます。軍事に明るく燕軍の潼関周辺の少数兵は囮だと看破していた哥舒翰は、命令を何度も無視。しかし度重なる出撃命令を断り切れず、長安のある西に向かって慟哭し、出撃します。
    案の定、伏兵が潜んでおり、20万の大軍は壊滅。僅かな敗残兵とともに潼関に舞い戻ったものの、敗戦の責任を楊国忠に弾劾されることを恐れた部下の裏切りにより、関は陥落することになります。

    長安の攻略

    要衝・潼関を落とし、主力が壊滅した唐では、楊国忠が蜀への脱出を玄宗皇帝に具申。玄宗も受け入れ、楊貴妃や皇族を伴い南下。
    長安に到達した燕軍は、玄宗が敢えて残した財宝の略奪をするのみならず、楊国忠の一派であった唐の群臣や皇族たちへの粛清を行いましたが、それだけに留まらず民間人への略奪も行いました。奪った宝は洛陽に送らせることになります。

    安禄山の最期

    皇帝に即位し、都の長安をも奪った安禄山でしたが、唐を完全に滅ぼすことなくあえない最期を遂げることになります。

    暴君化した安禄山

    皇帝となった安禄山でしたが、太りすぎの代償だったのでしょう。糖尿病の影響により、視力を失ってしまいました。また、糖尿病は失明以外に痴呆を進ませるのですが、痴呆に進む前の段階の症状の一つとして、理性を保つことが難しく(つまり非常にキレやすく)なることがあります。
    恐らくはこれが原因だったのでしょう。決起以来の側近将軍であった厳荘や宦官・李猪児たちに対して、事あるごとに暴力を振るい始めます。更に次男・安慶緒を差し置いて、愛妻が産んだ三男の安慶恩に後を継がせることを公言し始めました。有能さを失い、見境がなくなっていますね。

    暗殺決行

    image by iStockphoto

    度重なる暴力に耐えかねた厳荘と李猪児は次男の安慶緒と共謀し、暗殺を決行。失明していた安禄山は武器を手に取ることも出来ず、李猪児により腹を刺され、死亡。西暦757年、55歳でした。

    安禄山が反乱を起こした理由

    西遊記で有名な玄奘法師が、その著書・西遊記の中で書いた一説である窣利総記において、ソグド人の人となりを書いています。すなわち、「体つきは大きいが性格は臆病であり、風俗は軽薄で、詭弁がまかり通っている。おおむね欲張りで、父子ともに利殖をはかっている。財産の多い者を貴とし、身分の優劣の区別が無い。」
    釈明をしても身を守れないと思い反乱したのでしょうが、身に潔白であれば官位を辞するという手もあるし、私利私欲無ければ皇帝に即位しようとは思わないはず。
    能弁・多才で有能な武人であり、上司に好まれ部下に慕われる人望ある人物であったものの、私利私欲に汲々とした安禄山は、身近な欲によって引き起こされた不摂生により身を滅ぼしたのでしょうね。

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    高い能力を持った唐の重臣「安禄山」の生涯を歴史オタクが5分でわかりやすく解説!


      古代中国・唐の時代、非漢人であるものの持ち前の能力で皇帝に取り入って権力を握ったものの、身を守るために反乱を起こして唐が衰退するきっかけを作ったのが安禄山です。人は生まれて時に己の人生を選べないが、安禄山はその人生において出世のための努力を惜しまず成功した、高い能力の持ち主でもある。

      今回は安禄山の経歴について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。

    ライター/kei

    10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は世界帝国・唐を半壊させた異色の才人・安禄山をわかりやすくまとめた。

    安禄山とはどんな人なのか

    An Lu Shan.jpeg
    By 不明, パブリック・ドメイン, Link

    安禄山は古代中国の王朝(西暦618年~907年)の有力者、節度使です。節度使は地方の行政権・軍事権を一手に司る重要な役職だったことを考えると、並大抵の人物には任されないような気がします。実際、安禄山は高スキルな人材でした。安禄山の人となりを見ていきましょう。

    生まれがよくわからない人

    安禄山は西暦703年に中央アジアのサマルカンドで生まれました。突厥系ソグド人と言われていて、中国で圧倒的多数を占める漢人ではありません。父親はソグド人とされますが、誰かは分からず、母親は突厥人(トルコ人)の占い師であったようです。
    父は早くに亡くなったため、母親が再婚するに伴って連れられて母の故郷である突厥・モンゴルに移住。そこに居たソグド系の軍閥の一員となります。少なくとも恵まれた出生とは言えなかったようですね。

    マルチリンガル

    image by iStockphoto

    安禄山の居たソグド系軍閥は、突厥の国内が混乱した際、一族を挙げて唐に降伏。華北の山西地方に移り住みます。山西は突厥や契丹などの諸民族が混住する地域であったため、安禄山は6つの言語を駆使するマルチリンガルとして成長。
    得意の語学を活かして、唐に仕官。貿易官に任じられます。

    太りやすい体質

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    突厥人の血が流れている安禄山は語学力だけでなく、持ち前の勇猛さもありました。それを買われたのでしょうか。西暦732年、現在の北京周辺に設置されていた幽州節度使の張守珪武将として仕官。
    張守珪の下での武将・安禄山は、当時、唐の北方を荒らしていたモンゴル系の奚族や契丹族から、持ち前の語学力を活かして内部情報を掴み、戦いを有利に進めます。
    上司から見た安禄山は有能な部下でした。しかし、非の打ちどころの無い人物というわけでもなく、その勤務評価で改善点としていつも指摘されていたのは、食事制限とダイエットでした。事実、安禄山は太りやすい体質で、後に巨漢に成長するのですが、小心な面もある安禄山は上司を恐れて、武将時代はアドバイスに忠実に従っていたと言われています。

    口が上手い

    勝利を重ねていた安禄山ですが、ある時、上官命令を無視して進軍し、大敗を喫してしまいます。張守珪は軍令無視を理由に安禄山を殺そうとしますが、「奚と契丹を滅ぼしたくないのか。なぜ、自分を殺すのだ。」と喚きます。
    その場で判断を下せなかった張守珪は、長安に送って判断を仰いだものの、そこでも口の上手さで死刑を回避することに成功。
    張守珪が失脚した後、西暦742年に北方の抑えの一つである平盧節度使に任じられ、晴れて一武将から地方の有力者にのし上がったのでした。

    節度使・安禄山

    節度使になり、唐の有力者としてひとかどの地位に就いた安禄山でしたが、その後も彼の強みは遺憾なく発揮されていきます。

    皇帝に取り入る

    安禄山は節度使になった翌年、長安において当時唐の皇帝だった玄宗に拝謁。その際、自らの忠誠をアピールするため、以下のような歯が浮くようなお世辞を述べたと言われています。

    昨年、自分の領地で蝗(いなご)が稲を食い荒らす被害が起きたので、「私の心が不正で不忠であるなら、蝗に私の腸を食い尽くさせて下さい。もし、神に背いてないのなら、蝗を全て退散させて下さい。」と願い、香を焚いて天へ祈りました。そうすると、北方から鳥の群れが飛んできて、蝗を食べ尽くしてしまいました。

    本当か嘘か分からない話。しかも、たまたま鳥がやってきて蝗の被害を押さえたのかもしれない。しかしこの言葉は、玄宗を大変喜ばせたようです。

    芸達者な安禄山

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    節度使になった安禄山は、注意する上司が居なくなったのでしょう。太りやすい体質から肥満が進行し、体重200キロを超える巨漢に成長していました。それほどの巨体を持ちながら、玄宗の前で故郷・ソグディアナに伝わる舞踊・胡旋舞(こせんぶ)を披露したこともあります。多才な一面も見せた安禄山は、玄宗に更に喜ばれたようです。

    楊貴妃に取り入る

    安禄山は口が上手いだけでなく、空気を読むのが上手い人物でもありました。玄宗の寵愛を受けていた楊貴妃に取り入るべきことを、見抜いていたのでしょう。2つのエピソードがあります。

    一つは、皇帝である玄宗と楊貴妃が一緒にいる前で、主君である玄宗を差し置いて楊貴妃に挨拶したことがあったようです。これは主君を無視する行為で不忠と言われても仕方ないことなのですが、無礼を指摘された安禄山は、
    「自分が育ったソグドの風習では母を大事にする、というものがございます。それ故に、国母である楊貴妃に先にご挨拶致しました。お許しください」と答え、楊貴妃はもとより玄宗も喜ばせたとか。

    もう一つは、おむつをして大きなゆりかごに入って宮廷に入り、楊貴妃の赤ちゃんを演じていることです。そこまで出来る関係性を持っていると判断したからこそ実行に移したのでしょう。玄宗は大いに笑ったようですが、楊貴妃と安禄山はそれで何日も一緒に宮廷に入ったことから、唐の宮廷では醜聞がしばらくの間絶えなかったとか。

    このような努力をしていれば、嫌でも信任は厚くなりますね。自身の誕生日には玄宗と楊貴妃からプレゼントが贈られるような親密な関係になったようです。また、唐の臣下としての権力も大幅に拡大し、范陽・平盧・河東の3つの節度使を兼ねることとなり、唐の北方の兵力の大半を手中に収めるに至りました。

    安禄山のライバルたち

    順風満帆に見える安禄山。しかし安禄山自身がそうであったように、世界帝国だった唐は人材の宝庫でもありました。玄宗配下の重臣たちには、安禄山のライバルと言えるものが出現。そのうち、後に敵対することとなった哥舒翰楊国忠の二人を挙げてみます。

    西の有力者・哥舒翰

    哥舒翰(かじょかん)は、河西節度使・隴西節度使を兼務している唐の有力者です。安禄山の拠点である范陽から見ると、黄河を挟んで長安の西方に位置する節度使でした。人となりは以下のような感じですが、同じ非漢人でも安禄山とはタイプが違います。

    安禄山と同郷で、父は突厥人の唐将軍・母は西域のホータン王国の王女。由緒正しい家柄。
    唐の西部で勢力を強めたチベットの吐蕃(西暦618年~824年)との戦いで、自ら前線で槍を振るって奮戦した正統派の武人。
    中国の古典である春秋や漢書を読む知識人。
    財産にこだわらず人によく施し、西方の士として名声を得る。

    この哥舒翰と安禄山は同郷のわりに折り合いが悪かったようで、都の長安での宴席でも口論になったことがあるようです。

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