
2 プロイセン王となったフリードリヒ
By アントワーヌ・ペスヌ – Stiftung Preußische Schlösser und Gärten Berlin-Brandenburg de.wikipedia からコモンズに移動されました。, originally uploaded on de.wikipedia by Zanza (トーク · 投稿記録) at 2005年10月6日, 17:39. Filename was Friedrich2 jung.jpg., パブリック・ドメイン, Link
父王の厳しい躾けに耐えかねて逃亡したフリードリヒでしたが、彼はついにプロイセンの王となりました。そして王となってすぐにやったことは、隣国オーストリアの領土を占領。なぜフリードリヒはオーストリアの領土を占領するに至ったのでしょうか。ここでは詳しく見ていきましょう。
2-1 隣国オーストリアのお家事情
さて、まずはフリードリヒの行動の背景を知るにはオーストリアの当時の事情をすることが大切でしょう。当時のオーストリアではカール6世の後継者問題がありました。カールには息子がいなかったのです。そのためカールは長女のマリア・テレジアを後継者とするべく、根回しをすることに。カールはマリア・テレジアが相続できるよう長子相続の詔書を作成。イギリスやフランス、スペインなどの大国から承認を取りつけます。もちろん、プロイセンも承認していました。
2-2 宿敵マリア・テレジア
父、カール6世によって後継者となったマリア・テレジア。しかしカールの死後、彼女の相続に異議を唱える者が多くいました。
詔書が作成された半年ほど前に王となったフリードリヒ。なんと彼はとても大胆な行動に出ることに。フリードリヒは宣戦布告もなく、オーストリアの領土だったシュレジエンを軍隊を派遣し占領したのです。シュレジエンは地下資源が豊富で、鉄鋼業が盛んな地域だったため狙われることに。なんとも恩知らずな行動でしょうか。カール6世によって廃位を免れたフリードリヒは、シュレジエンを占領し自国の領土へ。この件によってマリア・テレジアはフリードリヒを「モンスター」や「シュレジエン泥棒」などと罵るようになるのでした。
2-3 オーストリア継承戦争へ
By マルティン・ファン・マイテンス – [1], パブリック・ドメイン, Link
マリア・テレジアのハプスブルク家の家督相続問題から発展したオーストリア継承戦争。この戦争でマリア・テレジアは苦境に立たされることに。味方のイギリスが資金援助しか行わなかったため、彼女はハンガリーへ赴き支援を求めました。こうして10万もの兵力を得ることに。しかし奮闘しましたが、シュレジエンの奪還叶わず。1748年のアーヘンの和約が結ばれ戦争は終わりを告げました。条約ではプロイセンへシュレジエンの割譲と引き換えに、マリア・テレジアの家督相続が正式に認められることに。
マーティン・マイテンス2世描く「マリアテレジアと家族」では画面右にマリア・テレジアが、左に夫フランツが描かれています。その間にはたくさんの子どもたち。それもそのはず。マリア・テレジアは生涯で16人もの子宝に恵まれていたのです。そして夫と息子たち、アリア・テレジアの手に注目あれ。夫や息子たちはマリア・テレジアを指さし、彼女は自らを指しています。これはフランツ1世が神聖ローマ皇帝となっていますが、実際に統べたのはマリア・テレジアということが示されているのです。
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