今日は18世紀の人物、フリードリヒ2世についてです。彼はプロイセンの国王で啓蒙君主だった。オーストリア継承戦争や七年戦争では軍事の才能があり、楽器や文学の才能もあったことから大王とも呼ばれているんです。

そこで今回は博識のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画にも目がなく関連した本を読み漁っている。今回はハプスブルク家、マリア・テレジアの宿敵プロイセン王フリードリヒ2世について解説。

1 プロイセンを大国へ導いた大王

image by iStockphoto

フリードリヒ2世は、当時まだ弱小国だったプロイセンの王。しかし彼は類稀な軍事の才能によってプロイセンを一躍大国の仲間入りへと果たした人物でした。そこで今回は軍事の才、文化面にも精通したフリードリヒの生涯を解説していきます。

1-1 フリードリヒ2世とは?

フリードリヒは1712年にフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の子として誕生。父王のフリードリヒ・ヴィルヘルムは根っからの軍人気質。芸術など理解しない父でした。しかしフリードリヒの母ゾフィーは洗練された宮廷人。フリードリヒ自身は母の影響が大きかったのでしょう。幼い頃から哲学書や音楽に親しんでいました。ちなみにフリードリヒは「反マキャヴェリ論」を著し、マキャヴェリ論を批判し君主は国家第一の僕であることを主張。哲人王との異名もあります。

1-2 プロイセンとは?

フリードリヒが生まれたプロイセン王国という国はどんな国だったのでしょうか。プロイセンの初代王、フリードリヒ1世はスペイン継承戦争でハプスブルク家側につき尽力したため、その功績を認められ公国から王国へと昇格。父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は軍事力の強化に努め、国力を高めました。フリードリヒは父の跡を継ぎ、プロイセンの三代目の王へ即位することに。

1-3 父王との確執

軍人皇帝とあだなされる父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世。息子フリードリヒとのエピソードにはこんなものがありました。後継者として期待した息子フリードリヒは音楽を愛好し、大の読書好き。父王とは真逆だったのです。両者と確執の溝は深く、フリードリヒは楽器を破壊されたり本を取り上げられたり、挙句の果てには暴力や食事を与えないなどの仕打ちに遭うことに。

1-4 祖母のゆかりの地、イギリスへ亡命を試みるも…

父王との確執に苦しんだフリードリヒ。彼は父王から、「女の腐ったようなやつ」と罵られていました。フリードリヒは父王からのかなり厳しい躾け(現代だと躾けというよりも虐待)に耐えかねイギリスへ亡命を決意。友人の少尉が彼を手引きすることに。ところがあろうことかこの計画は父王に筒抜けの状態だったのです。フリードリヒらは捕らえられ、彼の逃亡に協力した少尉は処刑されることに。フリードリヒは友人に対して「私を許してくれ」と叫び、処刑のシーンを目の当たりにし失神したというエピソードが。父王はフリードリヒを廃位するつもりでしたが、これを止めたのがハプスブルク家のカール6世。もしもカールが止めていなければその後の歴史は大きく変わっていたのかもしれませんね。

\次のページで「2 プロイセン王となったフリードリヒ」を解説!/

2 プロイセン王となったフリードリヒ

Friedrich2 jung.jpg
By アントワーヌ・ペスヌ - Stiftung Preußische Schlösser und Gärten Berlin-Brandenburg de.wikipedia からコモンズに移動されました。, originally uploaded on de.wikipedia by Zanza (トーク · 投稿記録) at 2005年10月6日, 17:39. Filename was Friedrich2 jung.jpg., パブリック・ドメイン, Link

父王の厳しい躾けに耐えかねて逃亡したフリードリヒでしたが、彼はついにプロイセンの王となりました。そして王となってすぐにやったことは、隣国オーストリアの領土を占領。なぜフリードリヒはオーストリアの領土を占領するに至ったのでしょうか。ここでは詳しく見ていきましょう。

2-1 隣国オーストリアのお家事情

さて、まずはフリードリヒの行動の背景を知るにはオーストリアの当時の事情をすることが大切でしょう。当時のオーストリアではカール6世の後継者問題がありました。カールには息子がいなかったのです。そのためカールは長女のマリア・テレジアを後継者とするべく、根回しをすることに。カールはマリア・テレジアが相続できるよう長子相続の詔書を作成。イギリスやフランス、スペインなどの大国から承認を取りつけます。もちろん、プロイセンも承認していました。

2-2 宿敵マリア・テレジア

父、カール6世によって後継者となったマリア・テレジア。しかしカールの死後、彼女の相続に異議を唱える者が多くいました。

詔書が作成された半年ほど前に王となったフリードリヒ。なんと彼はとても大胆な行動に出ることに。フリードリヒは宣戦布告もなく、オーストリアの領土だったシュレジエンを軍隊を派遣し占領したのです。シュレジエンは地下資源が豊富で、鉄鋼業が盛んな地域だったため狙われることに。なんとも恩知らずな行動でしょうか。カール6世によって廃位を免れたフリードリヒは、シュレジエンを占領し自国の領土へ。この件によってマリア・テレジアはフリードリヒを「モンスター」「シュレジエン泥棒」などと罵るようになるのでした。

2-3 オーストリア継承戦争へ 

Maria Theresia Familie.jpg
By マルティン・ファン・マイテンス - [1], パブリック・ドメイン, Link

マリア・テレジアのハプスブルク家の家督相続問題から発展したオーストリア継承戦争。この戦争でマリア・テレジアは苦境に立たされることに。味方のイギリスが資金援助しか行わなかったため、彼女はハンガリーへ赴き支援を求めました。こうして10万もの兵力を得ることに。しかし奮闘しましたが、シュレジエンの奪還叶わず。1748年のアーヘンの和約が結ばれ戦争は終わりを告げました。条約ではプロイセンへシュレジエンの割譲と引き換えに、マリア・テレジアの家督相続が正式に認められることに。

マーティン・マイテンス2世描く「マリアテレジアと家族」では画面右にマリア・テレジアが、左に夫フランツが描かれています。その間にはたくさんの子どもたち。それもそのはず。マリア・テレジアは生涯で16人もの子宝に恵まれていたのです。そして夫と息子たち、アリア・テレジアの手に注目あれ。夫や息子たちはマリア・テレジアを指さし、彼女は自らを指しています。これはフランツ1世が神聖ローマ皇帝となっていますが、実際に統べたのはマリア・テレジアということが示されているのです。

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2-4 マリア・テレジアの逆襲

8年にも及ぶオーストリア継承戦争で自身の継承を認められることになったマリア・テレジア。しかしシュレジエンを奪還することは叶わず。マリア・テレジアはシュレジエンをフリードリヒから奪還するために大胆な作戦を取ることに。なんと長年敵国だったフランスと手を組むことにしたのです。この外交革命によってマリア・テレジアは打倒フリードリヒに燃えました。フランスと手を組むほかにロシアも味方につけることに。ちなみにこの外交革命の一環として、フランスへ嫁ぐことになったのがマリー・アントワネットでした。

2-5 七年戦争へ

マリア・テレジアはシュレジエンの奪還のために、フランス、ロシアと結びます。そんな中の出来事でした。なんとフリードリヒがオーストリアへ先制攻撃。ここから次々オーストリアへ侵攻することに。しかしプロイセンの兵力20万に対し、オーストリア側の兵は40万。しかもプロイセンを支援するイギリス(植民地でフランスと対立したイギリスがプロセインの味方となる)は兵力をさくほどの余力がなかったため、ほぼフリードリヒの孤軍奮闘となる状況に。1759年にフランスが参戦し、フリードリヒは一時ベルリンを占領されることに。

ところがロシアの女帝、エリザヴェータが死去。これによって次の皇帝へ即位したピョートル3世がなんとロシア兵を引き上げたのです。これはピョートルが大のフリードリヒ贔屓だったため。後にフリードリヒはピョートルに対し「陛下は我が救世主です」とお礼を言っています。ピョートルは有頂天になりましたが、ロシア国内の怨嗟には気づかず(後に彼は妻に廃位に追い込まれ近衛兵によって殺害される運命)。

七年戦争でフリードリヒは戦闘では半分ほど敗北を喫していましたが、最終的には有利な内容で条約を結びました。フベルトゥブルク条約にてシュレジエンを領土としてマリア・テレジアに認めさせることになったのでした。この戦争からヨーロッパの強国へ上り詰めることに。

3 フリードリヒの素顔

父王からは女の腐ったような奴と言われ、マリア・テレジアからはシュレジエン泥棒と罵られたフリードリヒ。そんなフリードリヒのプロイセン国内の政治や彼の素顔はどんなものだったのでしょうか。

3-1 アドルフ・メンツェル「フリードリヒ大王のフルート・コンサート」

Adolph Menzel - Flötenkonzert Friedrichs des Großen in Sanssouci - Google Art Project.jpg
By アドルフ・フォン・メンツェル - WAFEF2zy8Ym8vQ at Google Cultural Institute, zoom level maximum, パブリック・ドメイン, Link

ロココの雰囲気が漂う広間でフルートを演奏している人物。画面右側には楽器を持ったオーケストラが音を奏で、画面左側にはその音を楽しんでいる人々が描かれていますね。中央で演奏している人物がフリードリヒ。若い頃は父からの執拗な躾けのせいでままならなかった音楽を心置きなく楽しんでいるのでしょう。しかし演奏を聴いている人物たちは三者三様の様子。画面一番左に立つ人物は楽しんでいる様子ですが、その隣の人物は天井を見上げ演奏が終わるのを今か今かと待っている様子。フリードリヒのフルートの演奏はプロ並みで作曲も手がけるほどだったそう。

そして画面の真ん中で赤いソファに腰かけている女性がいますね。王妃でしょうか。いいえ、彼女はフリードリヒの姉。本来ならば描かれているはずの王妃はここにはいません。それもそのはず。なんと王妃はサンスーシー宮殿に入ることを許されておらず、結婚してからずっと別居状態だったのです。これはフリードリヒが大の女嫌い(母と姉は例外)だったため。一時はマリア・テレジアとの結婚話も持ち上がりましたが、フリードリヒがプロテスタントだったため白紙へ。もしもこの二人が結婚していればビッグカップルの誕生だったかもしれませんね。

3-2 啓蒙君主だったフリードリヒ

啓蒙君主制とは、上からの改革のこと。国王フリードリヒが先頭に立って数々の改革を成し遂げていきます。即位後すぐに行った改革では国有穀物の安売りを行い、主要食品への間接税の廃止を行いました。また宗教面では異端審問の際に拷問することを禁止したことや宗教の寛容令を出すことに。また晩年には、保護関税の実施や高級磁器工業の国営化を行います。

3-3 フリードリヒとジャガイモ

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ドイツといえば、ジャガイモを食す文化がありますよね。この文化は三十年戦争でドイツの土地が荒廃したことからジャガイモの栽培が行われ始め、その後フリードリヒが国内に普及させたことからその文化が定着したのです。当初ジャガイモは形が悪く、色が緑色に変色したため民衆らは悪魔の食べ物と恐れ口に入れることをしませんでした。そこでフリードリヒ自らジャガイモを食べ、アピールすることに。その結果が現在の食文化に繋がっているのですね。ちなみにフリードリヒの治世では国内でコーヒーがよく飲まれるようになることに。

\次のページで「3-4 大王の残酷な実験」を解説!/

3-4 大王の残酷な実験

「国王は国家第一の僕」と称したフリードリヒ。しかし残酷な一面も。大王は科学的な探求心から、生身の人間を使って様々な実験をしています。中でも残酷なものは、捨てられた赤ん坊を使ったもの。彼は赤ん坊に対して抱きあげたりすることなく、ミルクを与えるだけにするとどうなるのかを試したのです。すると赤ん坊たちは次々と死去。人にとって肌のぬくもりが大事なのが証明されることに。しかしながらこの実験はかなり残酷ですよね。啓蒙君主という立場にありながらこのような実験をするのは、現代人の感覚としてはゾッとしますね。

3-5 フランス文化に憧れた大王

フリードリヒ大王は、ドイツ出身でありながら「ドイツ語は馬丁の言葉」として使わず代わりにフランス語を使っていたそう。フランス文化にすっかり魅了されていたため、ポツダムに建てたサンスーシー宮殿もロココ文化がふんだんに取り入れられています。ちなみにサンスーシーという名は、フランス語で憂いなきという意。フリードリヒは啓蒙思想家であったヴォルテールとも親交があり、彼をサンスーシー宮殿に招き、3年間も滞在したそう。

類稀なる軍事の才能と文化人だったフリードリヒ大王

幼少期の父王からの過激な躾けや、そんな父王から逃れるため逃亡した青年が即位してそうそう大国オーストリアの領土を占領するなど誰が考えたでしょうか。父王の言いなりとなっていた気弱な青年が、オーストリア継承戦争、七年戦争によって後にマリア・テレジアから「悪魔」や「モンスター」、「シュレジエン泥棒」と罵られることになるとは。

フリードリヒは類稀なる軍事の才能と共に、啓蒙君主としてプロイセン王国内の改革を次々と成し遂げていきました。宗教に対して寛容な政策を取り、軍隊を強化しただけでなく、ヴォルテールとも親交があった文化人の一面ものぞかせています。

またフリードリヒが国内で普及させたジャガイモの栽培によって、今日のドイツの食文化にも大きな影響を与えることとなりました。そんな功績から、彼の墓にはジャガイモが供えられているとか。

国民から敬愛されたフリードリヒは今もポツダムにあるサンスーシー宮殿内にあるお墓で静かに眠っています。

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ドイツプロイセン王国ヨーロッパの歴史世界史歴史

啓蒙君主と呼ばれた「フリードリヒ2世」の生涯について歴女が5分でわかりやすく解説!

今日は18世紀の人物、フリードリヒ2世についてです。彼はプロイセンの国王で啓蒙君主だった。オーストリア継承戦争や七年戦争では軍事の才能があり、楽器や文学の才能もあったことから大王とも呼ばれているんです。

そこで今回は博識のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画にも目がなく関連した本を読み漁っている。今回はハプスブルク家、マリア・テレジアの宿敵プロイセン王フリードリヒ2世について解説。

1 プロイセンを大国へ導いた大王

image by iStockphoto

フリードリヒ2世は、当時まだ弱小国だったプロイセンの王。しかし彼は類稀な軍事の才能によってプロイセンを一躍大国の仲間入りへと果たした人物でした。そこで今回は軍事の才、文化面にも精通したフリードリヒの生涯を解説していきます。

1-1 フリードリヒ2世とは?

フリードリヒは1712年にフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の子として誕生。父王のフリードリヒ・ヴィルヘルムは根っからの軍人気質。芸術など理解しない父でした。しかしフリードリヒの母ゾフィーは洗練された宮廷人。フリードリヒ自身は母の影響が大きかったのでしょう。幼い頃から哲学書や音楽に親しんでいました。ちなみにフリードリヒは「反マキャヴェリ論」を著し、マキャヴェリ論を批判し君主は国家第一の僕であることを主張。哲人王との異名もあります。

1-2 プロイセンとは?

フリードリヒが生まれたプロイセン王国という国はどんな国だったのでしょうか。プロイセンの初代王、フリードリヒ1世はスペイン継承戦争でハプスブルク家側につき尽力したため、その功績を認められ公国から王国へと昇格。父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は軍事力の強化に努め、国力を高めました。フリードリヒは父の跡を継ぎ、プロイセンの三代目の王へ即位することに。

1-3 父王との確執

軍人皇帝とあだなされる父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世。息子フリードリヒとのエピソードにはこんなものがありました。後継者として期待した息子フリードリヒは音楽を愛好し、大の読書好き。父王とは真逆だったのです。両者と確執の溝は深く、フリードリヒは楽器を破壊されたり本を取り上げられたり、挙句の果てには暴力や食事を与えないなどの仕打ちに遭うことに。

1-4 祖母のゆかりの地、イギリスへ亡命を試みるも…

父王との確執に苦しんだフリードリヒ。彼は父王から、「女の腐ったようなやつ」と罵られていました。フリードリヒは父王からのかなり厳しい躾け(現代だと躾けというよりも虐待)に耐えかねイギリスへ亡命を決意。友人の少尉が彼を手引きすることに。ところがあろうことかこの計画は父王に筒抜けの状態だったのです。フリードリヒらは捕らえられ、彼の逃亡に協力した少尉は処刑されることに。フリードリヒは友人に対して「私を許してくれ」と叫び、処刑のシーンを目の当たりにし失神したというエピソードが。父王はフリードリヒを廃位するつもりでしたが、これを止めたのがハプスブルク家のカール6世。もしもカールが止めていなければその後の歴史は大きく変わっていたのかもしれませんね。

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