4-8、入江九一
実際に学んだのは1ヶ月程度に過ぎないが、松陰から高く評価され久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿と並んで松門四天王の一人に数えられた。禁門の変で28歳で戦死。
4-9、木戸孝允
木戸孝允こと桂小五郎は松陰の3つ年下なのですが、桂小五郎は17歳の時に萩の藩校明倫館で吉田松陰に学んだこともあり、松陰に門人の礼を取り続け、松陰も手紙の中で桂小五郎のことを親友と言っているのでお互いを認め合った仲。「寛洪の量、温然愛すべき人なり。且つ才気あり」と評しています。
4-11、前原一誠
松陰は「八十郎(一誠)は勇あり、智あり。誠実人に過ぐ。いわゆる布帛粟米。適用せざるなし。その才や實甫(久坂玄瑞)に及ばず。その識や暢夫(高杉晋作)に及ばず。しかしてその人物の完全なること、二子また八十に及ばざること遠し。吾友肥後の宮部鼎蔵の資性、八十と相近し。八十父母に事へて至孝。余未だ責むるに国事を以てすべからざる也」と評しました。戊辰戦争で活躍したが徴兵制に反対して下野し、萩の乱の首謀者として刑死。
他にも山田顕義、入江の弟の野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などが。
松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰と弟子が意見を交わし、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったということです。
教育者として人材育成し、思想家として影響を与えた
司馬遼太郎氏によれば、革命には3段階あり、明治維新の場合、思想家が登場し、それをやりとげる人材が奔走、そして技術者が登場して完成するということ。
吉田松陰は松下村塾でキラ星のような人材を育て、彼らに思想家として多大な影響を与えたということです。個人的には松下村塾での的確な人物評や指導の仕方を考えると、国禁を犯してペリーの船に乗せてもらおうとして果たせず自首するとか、安政の大獄で幕府に捕まってなおも過激な言動を辞めず処刑されなくていいところを処刑されてしまうなど、別人のようなはっちゃけぶりが解せないのですが、自分に課された思想家としての使命を何が何でも果たそうと処刑される道を選んだと思うと納得できるかもしれないですね。






