4-1、松下村塾で学んだ弟子たち
松陰が松下村塾で教えたのは、なんとたった3年間でしたが、その間、明治維新で活躍した人材を育てました。松陰がこの塾を開いたのは、百人に一人くらいは奇士が来て自分を磨くことが出来るという目的だったということ。
4-2、久坂玄瑞

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長州藩医の家に生まれ、10歳年上で早世した兄の久坂玄機が逸材として知られていたが、弟も面白いと評判。松下村塾へは宮部鼎蔵の紹介で入塾、少々直情的なところがあるが、松陰は、最初の玄瑞の手紙をわざと酷評し、彼を刺激して才能を伸ばしたそう。また、弟子の中でも玄瑞を一番気に入り、妹の文の婿にと結婚させて義弟にしたほど。
しかし蛤御門の変で24歳で戦死。
4-3、高杉晋作
長州藩の上士の一人息子、松陰は奇士(異色の人材と言う意味)が来たと喜び、わざと久坂玄瑞の方が勝っていると競争心をあおって指導したが、身分が身分なのでさすがに親の言うことを聞いて家を継げ、藩主の側で仕えて助言するようにとだけ。
晋作は後に、奇兵隊を率いて長州征伐などに参戦するも、肺結核のために29歳で死亡。
4-4、品川弥二郎
身分の低い侍だったが、なぜか明るい性格が松陰の気に入り、ひいきしてもらったという。高杉晋作と行動を共にして、英国公使館焼き討ち事件など尊王攘夷運動に奔走し、明治政府の重鎮に。
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4-5、伊藤博文
後、明治政府の初代総理大臣となったが、身分が低くまだ若かったせいか、松下村塾では下っ端で松陰も「周旋家になるだろう」程度。本人もあまり好かれていなかったせいか、明治後も松陰の弟子ではないと言ったが、幕末期には松下村塾閥を利用して活躍。
4-6、山縣有朋
中間という低い身分で、松下村塾でもわずか数か月しか松陰に接することがなかったが、松下村塾出身ということで奇兵隊で頭角をあらわし、明治時代になると陸軍大将から総理大臣などを歴任する元勲に。
4-7、吉田稔麿(としまろ)
無逸という号を持ち、謹直重厚で秀才ぶりは松下村塾でも有数のものだったそう。
牧野謙次郎著「維新伝疑史話」によると。山県有朋が、高杉晋作に、自分は稔麿に比べてどの程度劣っているか聞いたとき、晋作は笑って、「稔麿が座敷にいるとすれば、お前は玄関番ですらない。味噌も糞も一緒にするとはこのことだ」と答えたということ。
また、稔麿が、戯れに、放れ牛と烏帽子と木刀に棒切れを添えた絵を描いたのですが、山県有朋がそれは何かときくと、稔麿は、「放れ牛は高杉、久坂玄瑞は烏帽子、入江九一は少々劣って木刀くらい、残りの棒切れがお前(山県)、凡庸で何のとりえもない」と言ったという話。
しかし池田屋の変に巻き込まれて23歳で死亡。
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