2-1、松陰、黒船に渡航を拒否されて自首
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By published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, Link
嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際、松陰は、金子重之輔と二人で海岸につないであった漁民の小舟を盗み、下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せて乗船。通訳と話をして丁重に扱われるも、アメリカ軍も幕府と条約を結んだ以上、密航者を受け入れる重罪は犯せず渡航は拒否。
松陰たちは水兵に浜まで送ってもらうが、なんと下田奉行所に自首、伝馬町牢屋敷に投獄されることに。黙っていれば誰にもわからないのに、なんで自首したのかと誰もが思うことでしょう。
最初に自首した庄屋も迷惑がって逃がそうとしたけれど、死を覚悟していた松陰は無理にも奉行所に連れて行かせたのです。
しかも下田奉行所で拘束された松陰は、取り調べには言わなくても良いことまで洗いざらいしゃべりまくり、檻の中から番卒や見物人に国家の危機を説いて尊敬されたそう。護送された伝馬町の牢屋でもこれをやって、牢名主以下を傾聴させたということ。
幕府の一部ではこのときに松陰両名を死罪にしようという動きもあったが助命処置がとられ、国許蟄居となって長州へ檻送されて野山獄に収監。ここは身分の高い侍が入るムショで、富永有隣、高須久子らと囚人仲間に。松陰はこの獄中で密航の動機とその思想的背景を「幽囚録」にあらわしました。
2-2、野山獄での松陰
普通の人がもし刑務所に入ったとすればかなり落ち込んでしまうはず。しかし、純粋で前向きな松陰の場合、どんな人にも良いところがあると信じているせいで、ひとりひとり独房に入っているムショ仲間に呼びかけ、何か特技を持っていることを教えてほしいと提案、俳句や書道などを教え合うことで、それまでの獄内の雰囲気ががらりと変わったということ。
ちなみに士分階級が入る牢獄で、どうしようもないひねくれた人格で進塁が頼み込んでお金を払って入獄させた富永有隣なども、松陰のおかげで釈放されて松下村塾で教えるようになるほど社会復帰したそう。
3-1、松下村塾を開塾
安政2年(1855年)に出獄許可が下りて、松陰は実家の杉家に幽閉処分に。 安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾。この松下村塾は無料で、近所の子供たちから松陰より年上の人までが学びに来たということ。
そして飛耳張目録(ひじちょうもくろく)という、松陰手製の新聞のようなニュース帳が争って読まれ、これを読めば時勢がわかると遠くからも読みに来る人がいたということ。
3-2、松陰、老中間部攻撃を計画
松陰は、安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策を提言。間部要撃策というのは、老中首座である間部詮勝が、孝明天皇への弁明の為に上洛することになっていたのですが、この老中首座に条約破棄と攘夷の実行を迫って、言うことを聞かなければ討ち取るという策でした。
松陰は、なんとこの計画を実行するために、大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出たのですが、もちろん藩は拒絶。松陰は、次に伏見で公家の大原重徳と、参勤交代で伏見を通る藩主の毛利敬親を待ち受けて京に入る伏見要駕策を計画しましたが、野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や旧友の桂小五郎ら弟子、友人の多くは伏見要駕策に反対、松陰は失望のあまり絶交を宣言するなど、かなりエキサイトしたよう。松陰は、この後、草莽崛起論(そうもうけっき)を唱えるように。
さらに松陰は、幕府が日本最大の障害になっていると批判、倒幕を持ちかけたので、長州藩上層部に危険視されて、再度、野山獄に。
松陰は常に明るく前向きで、人の良いところを見て伸ばせる良い先生のイメージと、過激な攘夷思想で日本を変えようとしていた思想家とのギャップが激しいんですよね。
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3-3、松陰、安政の大獄に連座
安政6年(1859年)、小浜藩士で儒学者の梅田雲浜が安政の大獄で幕府に捕縛。
雲浜が萩に滞在した際に松陰とも面会したことで、松陰は最初は参考人程度の聴取のために江戸に檻送されて、伝馬町牢屋敷に投獄されたということ。
評定所でも、雲浜が萩に滞在した際の会話などを聞かれただけなのに、松陰は自分の考えをとうとうと述べたうえに、間部老中暗殺計画まで告白。
この結果、斬首が宣告されて、安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷で30歳で刑死。
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