日本史

松下村塾で長州の志士を導いた天才学者「吉田松陰」について歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回は吉田松陰を取り上げるぞ。松下村塾で後に大物になる逸材たちを育てたことで有名だが、たった3年間だったんだって、すごい塾だよな。

その辺のところを幕末明治維新にやたらと詳しいというあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新には勤王佐幕を問わず昔から興味津々。現在でも山口県では松陰先生と呼ばれている吉田松陰について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、吉田松陰は長州藩士の生まれ

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By 不明山口県文書館, パブリック・ドメイン, Link

松陰は、文政13年(1830年)8月4日(西曆9月20日)、長州萩城下松本村(現:山口県萩市)で長州藩士杉百合之助の次男として誕生。幼名は、寅次郎、大次郎、諱は矩方(のりかた)、字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。
きょうだいは兄梅之助民治(みんじ)、妹4人と弟ひとりがいます。

天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、幼いときから兵学師範になるべく兵学を修め、天保6年(1835年)の叔父大助の死後、同じく叔父の玉木文之進に松下村塾で指導を受けました。

1-2、松陰の子供時代

松陰の生まれる前、城下にあった家が火災で焼失、一家で郊外に住み農作業をしつつ貧しい暮らしを。松陰は毎日のように、父や兄の梅太郎民治とともに畑仕事で草取りや耕作をし、あぜ道に腰かけて四書五経の素読、「文政十年の詔」その他頼山陽の詩などを父が音読、兄弟で復唱したということで、貧しいながらも教育はしっかりと受け、母がとても明るく家族も仲の良いあたたかい家庭だったそう。

が、叔父の玉木文之進は、自宅で松下村塾を開いた人物で、松陰が勉強中、汗をぬぐったり、顔にとまった蚊を叩いたりしても、私心を持つなと激昂して折檻するなど、極めて厳格なスパルタ式だったということ。

1-3、松陰、9歳で藩校の師範に

image by PIXTA / 53753234

松陰、なんと9歳のときに藩校の明倫館の兵学師範に就任

11歳のとき、藩主毛利慶親への御前講義がわかりやすく見事であったことにより、その才能が認められて家庭教師を付けられ、約2年ごとに藩主直々に試験をすることに。尚、松陰の講義に感心した藩主は叔父玉木正之進の指導と聞き、正之進に役職を与えて叔父は出世。松陰13歳のときに長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流という江戸時代の兵学の双璧を学びました。

しかしアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知り、山鹿流兵学が時代遅れだと考え、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)、20歳のときに九州に遊学、江戸に出て佐久間象山、安積艮斎に師事。嘉永4年(1851年)、肥後藩の宮部鼎蔵と山鹿素水との交流も深めました。

司馬遼太郎著「世に棲む日日」によれば、吉田松陰は長州藩を挙げて兵学の「純粋培養」された後、藩の許可を得て兵学者を訪ねて旅に出て色々な学者と知り合い、また他の学者を紹介されたり、蔵書を読んだり筆写させてもらったりして勉学を深めたということ。ペリー来航以前から、アヘン戦争で清国が負けたニュースが伝わっていて、日本中のインテリにそのショックが駆け巡っていたのですが、松陰もその一人だったのですね。

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え、松陰は兵学が専門だったのか、子供なのにおとなの藩主にわかりやすく講義したとは末恐ろしい天才だな。

1-4、松陰、友達との約束を優先し、脱藩

江戸時代は初めての家を訪問するのにも、あらかじめ下僕とかを遣わして訪問を告げてからという習慣があったほどなのですが、武士や農民でもめったに旅行することはなく、旅行するときには、藩の発行する手形とか許可が必要という窮屈な時代でした。

松陰は、嘉永5年(1852年)、前の旅行で知り合った宮部鼎蔵(江戸で再会)らと東北旅行を計画したが、彼らとの約束の出発日に、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行が藩主が国元にいるせいで間に合わず、友達との約束を果たすために脱藩。

この東北遊学では、水戸で会沢正志斎らと面会したり、会津では藩校の日新館の見学、東北の鉱山の様子等を見学したり、秋田では相馬大作事件の現場を訪ねて、津軽では津軽海峡を通行する国船を見学しようとしたりと見聞を広めたそう。

松陰は、旅の日誌なども克明に記録する人で、色々と本人が書き残した資料が残っているということ
尚、江戸に帰着後、罪に問われて国元へ送還され、士籍剥奪、世禄没収の処分となり、父杉百合之助の育みという身分に。

そして藩主の恩情で、むこう10年の兵学修業を言い渡されたそう
長州藩は松陰や後の高杉晋作らに対しても、他の藩と違って、まるで大学と学生という関係みたいなかなり甘々の対応なところがあるせいか、松陰が罪を問われて国へ帰されても、家族やまわりの人たちも、咎めるどころか可愛そうにと松陰に同情する方が多かったよう。

1-5、松陰、黒船にカルチャーショックを

嘉永6年(1853年)、松陰は10年の遊学のため再び旅に出て、大和の国の森田節斎に入門、中山道から江戸へ。その頃、ペリーが浦賀に来航。噂を聞いた松陰は黒船を見に浦賀まで行き、西洋の先進文明にショックを受け、浪人だというのに、長州藩主毛利公に「将及私語」という意見書を

その後、佐久間象山に再入門、松陰は国内の学者には会い尽くし、外国留学しかないと思っていたところ、長崎にロシア船が来ると聞き、佐久間象山の薦めもあり長崎へ行き、寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込むつもりだったのですが、クリミア戦争にイギリスが参戦した事でロシア艦は予定を繰り上げて出航した後でした。

2-1、松陰、黒船に渡航を拒否されて自首

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By published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, Link

嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際、松陰は、金子重之輔と二人で海岸につないであった漁民の小舟を盗み、下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せて乗船。通訳と話をして丁重に扱われるも、アメリカ軍も幕府と条約を結んだ以上、密航者を受け入れる重罪は犯せず渡航は拒否。

松陰たちは水兵に浜まで送ってもらうが、なんと下田奉行所に自首、伝馬町牢屋敷に投獄されることに。黙っていれば誰にもわからないのに、なんで自首したのかと誰もが思うことでしょう。

最初に自首した庄屋も迷惑がって逃がそうとしたけれど、死を覚悟していた松陰は無理にも奉行所に連れて行かせたのです。

しかも下田奉行所で拘束された松陰は、取り調べには言わなくても良いことまで洗いざらいしゃべりまくり、檻の中から番卒や見物人に国家の危機を説いて尊敬されたそう。護送された伝馬町の牢屋でもこれをやって、牢名主以下を傾聴させたということ。

幕府の一部ではこのときに松陰両名を死罪にしようという動きもあったが助命処置がとられ、国許蟄居となって長州へ檻送されて野山獄に収監。ここは身分の高い侍が入るムショで、富永有隣、高須久子らと囚人仲間に。松陰はこの獄中で密航の動機とその思想的背景を「幽囚録」にあらわしました。

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これは不思議だよな、九分九厘失敗するとわかっていてあえて黒船に乗り込む、そして黙ってりゃわからないのに、わざわざ自首するなんて何を考えていたんだろうな。

2-2、野山獄での松陰

普通の人がもし刑務所に入ったとすればかなり落ち込んでしまうはず。しかし、純粋で前向きな松陰の場合、どんな人にも良いところがあると信じているせいで、ひとりひとり独房に入っているムショ仲間に呼びかけ、何か特技を持っていることを教えてほしいと提案、俳句や書道などを教え合うことで、それまでの獄内の雰囲気ががらりと変わったということ

ちなみに士分階級が入る牢獄で、どうしようもないひねくれた人格で進塁が頼み込んでお金を払って入獄させた富永有隣なども、松陰のおかげで釈放されて松下村塾で教えるようになるほど社会復帰したそう。

3-1、松下村塾を開塾

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安政2年(1855年)に出獄許可が下りて、松陰は実家の杉家に幽閉処分に。 安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾。この松下村塾は無料で、近所の子供たちから松陰より年上の人までが学びに来たということ。

そして飛耳張目録(ひじちょうもくろく)という、松陰手製の新聞のようなニュース帳が争って読まれ、これを読めば時勢がわかると遠くからも読みに来る人がいたということ

3-2、松陰、老中間部攻撃を計画

松陰は、安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策を提言。間部要撃策というのは、老中首座である間部詮勝が、孝明天皇への弁明の為に上洛することになっていたのですが、この老中首座に条約破棄と攘夷の実行を迫って、言うことを聞かなければ討ち取るという策でした。

松陰は、なんとこの計画を実行するために、大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出たのですが、もちろん藩は拒絶。松陰は、次に伏見で公家の大原重徳と、参勤交代で伏見を通る藩主の毛利敬親を待ち受けて京に入る伏見要駕策を計画しましたが、野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や旧友の桂小五郎ら弟子、友人の多くは伏見要駕策に反対、松陰は失望のあまり絶交を宣言するなど、かなりエキサイトしたよう。松陰は、この後、草莽崛起論(そうもうけっき)を唱えるように。
さらに松陰は、幕府が日本最大の障害になっていると批判、倒幕を持ちかけたので、長州藩上層部に危険視されて、再度、野山獄に。

松陰は常に明るく前向きで、人の良いところを見て伸ばせる良い先生のイメージと、過激な攘夷思想で日本を変えようとしていた思想家とのギャップが激しいんですよね。

3-3、松陰、安政の大獄に連座

安政6年(1859年)、小浜藩士で儒学者の梅田雲浜が安政の大獄で幕府に捕縛。
雲浜が萩に滞在した際に松陰とも面会したことで、松陰は最初は参考人程度の聴取のために江戸に檻送されて、伝馬町牢屋敷に投獄されたということ。
評定所でも、雲浜が萩に滞在した際の会話などを聞かれただけなのに、松陰は自分の考えをとうとうと述べたうえに、間部老中暗殺計画まで告白。

この結果、斬首が宣告されて、安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷で30歳で刑死。

4-1、松下村塾で学んだ弟子たち

松陰が松下村塾で教えたのは、なんとたった3年間でしたが、その間、明治維新で活躍した人材を育てました。松陰がこの塾を開いたのは、百人に一人くらいは奇士が来て自分を磨くことが出来るという目的だったということ。

4-2、久坂玄瑞

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By published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, Link

長州藩医の家に生まれ、10歳年上で早世した兄の久坂玄機が逸材として知られていたが、弟も面白いと評判。松下村塾へは宮部鼎蔵の紹介で入塾、少々直情的なところがあるが、松陰は、最初の玄瑞の手紙をわざと酷評し、彼を刺激して才能を伸ばしたそう。また、弟子の中でも玄瑞を一番気に入り、妹の文の婿にと結婚させて義弟にしたほど。

しかし蛤御門の変で24歳で戦死。

4-3、高杉晋作

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By 上野彦馬 – 個人所有品, パブリック・ドメイン, Link

長州藩の上士の一人息子、松陰は奇士(異色の人材と言う意味)が来たと喜び、わざと久坂玄瑞の方が勝っていると競争心をあおって指導したが、身分が身分なのでさすがに親の言うことを聞いて家を継げ、藩主の側で仕えて助言するようにとだけ。
晋作は後に、奇兵隊を率いて長州征伐などに参戦するも、肺結核のために29歳で死亡。

4-4、品川弥二郎

身分の低い侍だったが、なぜか明るい性格が松陰の気に入り、ひいきしてもらったという。高杉晋作と行動を共にして、英国公使館焼き討ち事件など尊王攘夷運動に奔走し、明治政府の重鎮に。

4-5、伊藤博文

後、明治政府の初代総理大臣となったが、身分が低くまだ若かったせいか、松下村塾では下っ端で松陰も「周旋家になるだろう」程度。本人もあまり好かれていなかったせいか、明治後も松陰の弟子ではないと言ったが、幕末期には松下村塾閥を利用して活躍。

4-6、山縣有朋

中間という低い身分で、松下村塾でもわずか数か月しか松陰に接することがなかったが、松下村塾出身ということで奇兵隊で頭角をあらわし、明治時代になると陸軍大将から総理大臣などを歴任する元勲に。

4-7、吉田稔麿(としまろ)

無逸という号を持ち、謹直重厚で秀才ぶりは松下村塾でも有数のものだったそう。
牧野謙次郎著「維新伝疑史話」によると。山県有朋が、高杉晋作に、自分は稔麿に比べてどの程度劣っているか聞いたとき、晋作は笑って、「稔麿が座敷にいるとすれば、お前は玄関番ですらない。味噌も糞も一緒にするとはこのことだ」と答えたということ。
また、稔麿が、戯れに、放れ牛と烏帽子と木刀に棒切れを添えた絵を描いたのですが、山県有朋がそれは何かときくと、稔麿は、「放れ牛は高杉、久坂玄瑞は烏帽子、入江九一は少々劣って木刀くらい、残りの棒切れがお前(山県)、凡庸で何のとりえもない」と言ったという話。
しかし池田屋の変に巻き込まれて23歳で死亡。

4-8、入江九一

実際に学んだのは1ヶ月程度に過ぎないが、松陰から高く評価され久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿と並んで松門四天王の一人に数えられた。禁門の変で28歳で戦死。

4-9、木戸孝允

木戸孝允こと桂小五郎は松陰の3つ年下なのですが、桂小五郎は17歳の時に萩の藩校明倫館で吉田松陰に学んだこともあり、松陰に門人の礼を取り続け、松陰も手紙の中で桂小五郎のことを親友と言っているのでお互いを認め合った仲。「寛洪の量、温然愛すべき人なり。且つ才気あり」と評しています。

4-11、前原一誠

松陰は「八十郎(一誠)は勇あり、智あり。誠実人に過ぐ。いわゆる布帛粟米。適用せざるなし。その才や實甫(久坂玄瑞)に及ばず。その識や暢夫(高杉晋作)に及ばず。しかしてその人物の完全なること、二子また八十に及ばざること遠し。吾友肥後の宮部鼎蔵の資性、八十と相近し。八十父母に事へて至孝。余未だ責むるに国事を以てすべからざる也」と評しました。戊辰戦争で活躍したが徴兵制に反対して下野し、萩の乱の首謀者として刑死。

他にも山田顕義、入江の弟の野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などが。
松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰と弟子が意見を交わし、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったということです。

教育者として人材育成し、思想家として影響を与えた

司馬遼太郎氏によれば、革命には3段階あり、明治維新の場合、思想家が登場し、それをやりとげる人材が奔走、そして技術者が登場して完成するということ。

吉田松陰は松下村塾でキラ星のような人材を育て、彼らに思想家として多大な影響を与えたということです。個人的には松下村塾での的確な人物評や指導の仕方を考えると、国禁を犯してペリーの船に乗せてもらおうとして果たせず自首するとか、安政の大獄で幕府に捕まってなおも過激な言動を辞めず処刑されなくていいところを処刑されてしまうなど、別人のようなはっちゃけぶりが解せないのですが、自分に課された思想家としての使命を何が何でも果たそうと処刑される道を選んだと思うと納得できるかもしれないですね。

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