
しかも壬申の乱は情報が少ないことから、江戸時代や明治時代の戦いに比べるとイメージしづらいでしょう。そこで、今回は壬申の乱とそれが起こった流れを分かりやすく日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から壬申の乱をわかりやすくまとめた。
唐に敗北して侵略に怯える日本
663年、朝鮮半島の白村江にて日本は唐・新羅の連合軍と戦争を起こします。まだ「日本」ではなく「倭国」の呼び名だった日本ですが、当時の唐は大国であり、そのため日本が挑んだことは無謀としか言えません。そして、この戦争を白村江の戦いを呼んでいます。
白村江の戦いの結果は案の定日本が敗北、共に戦った百済(古代の朝鮮半島西部に存在した国家)は滅亡、これで日本は国家存亡の危機に晒されるほど怯える毎日を送りました。と言うのも、日本は大国の唐を敵に回してしまったため、いつ侵略されてもおかしくない状況に陥ってしまったからです。
最も、日本もそのまま唐に侵略される時を指をくわえて待つつもりはありません。侵略戦争が起こった時に備えて様々な防衛策を考案していき、当時の日本の天皇・天智天皇は唐に攻められることを想定した防衛体制を次々と整えました。
防衛体制と政治改革によって高まる人々の不満
天智天皇の行った防衛策はまず「防人の設置」……唐が攻めてくるとすればその手段は船ですから、船が着きやすい博多湾の防御を固めようとしました。ただ、博多湾に近い九州の人間だけでは不充分のため、東の国からも人々を派遣します。
さらに「都を近江の大津宮へと移す」……これは、周囲に琵琶湖があることから攻められづらいと考えたためで、海に近くなく内陸であったことも近江の大津宮を選んだ理由の一つでしょう。また兵力動員の規模を分かりやすくするため庚午年籍を行って戸籍を作るなど、防衛のための政治改革も積極的に行いました。
しかし、天智天皇がこうした動きをする一方で、人々の不満は徐々に高まっていきます。なぜなら、天智天皇の行った防衛策はいずれも人々に大きな負担がかかるものでしたし、突然の度重なる政治改革に反対する者も少なくなかったためです。そして、この人々の不満が後に起こる壬申の乱の遠い一因になったとされています。
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