今日は壬申の乱について勉強していきます。壬申の乱は672年に起こった古代日本における最大の内乱ですが、古代日本というだけあってこの頃の日本は現代とは全く違った状況です。

しかも壬申の乱は情報が少ないことから、江戸時代や明治時代の戦いに比べるとイメージしづらいでしょう。そこで、今回は壬申の乱とそれが起こった流れを分かりやすく日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から壬申の乱をわかりやすくまとめた。

壬申の乱の一因・白村江の戦い

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唐に敗北して侵略に怯える日本

663年、朝鮮半島の白村江にて日本は唐・新羅の連合軍と戦争を起こします。まだ「日本」ではなく「倭国」の呼び名だった日本ですが、当時の唐は大国であり、そのため日本が挑んだことは無謀としか言えません。そして、この戦争を白村江の戦いを呼んでいます。

白村江の戦いの結果は案の定日本が敗北、共に戦った百済(古代の朝鮮半島西部に存在した国家)は滅亡、これで日本は国家存亡の危機に晒されるほど怯える毎日を送りました。と言うのも、日本は大国の唐を敵に回してしまったため、いつ侵略されてもおかしくない状況に陥ってしまったからです。

最も、日本もそのまま唐に侵略される時を指をくわえて待つつもりはありません。侵略戦争が起こった時に備えて様々な防衛策を考案していき、当時の日本の天皇・天智天皇は唐に攻められることを想定した防衛体制を次々と整えました。

防衛体制と政治改革によって高まる人々の不満

天智天皇の行った防衛策はまず「防人の設置」……唐が攻めてくるとすればその手段は船ですから、船が着きやすい博多湾の防御を固めようとしました。ただ、博多湾に近い九州の人間だけでは不充分のため、東の国からも人々を派遣します。

さらに「都を近江の大津宮へと移す」……これは、周囲に琵琶湖があることから攻められづらいと考えたためで、海に近くなく内陸であったことも近江の大津宮を選んだ理由の一つでしょう。また兵力動員の規模を分かりやすくするため庚午年籍を行って戸籍を作るなど、防衛のための政治改革も積極的に行いました。

しかし、天智天皇がこうした動きをする一方で、人々の不満は徐々に高まっていきます。なぜなら、天智天皇の行った防衛策はいずれも人々に大きな負担がかかるものでしたし、突然の度重なる政治改革に反対する者も少なくなかったためです。そして、この人々の不満が後に起こる壬申の乱の遠い一因になったとされています。

壬申の乱の一因・皇位継承

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天智天皇の裏切り

人々の不満を招いた天智天皇ですが、即位した時点で次期天皇の候補は半ば決まっていました。次期天皇候補は天智天皇の弟である大海人皇子で、天智天皇は自分が即位した時から大海人皇子を次期天皇候補と定め、そのため要職に就かせていたのです。

最も、大海人皇子が以前から天智天皇に仕えて活躍していたため、これまでの功績を考えれば天智天皇の判断はむしろ自然のことでした。しかし671年にその状況は一変、なぜか天智天皇は大海人皇子を要職から外してしまい、代わりとして息子の大友皇子を要職に就かせたのです

実際のところ、この時の天智天皇の思惑は定かになっておらず、やはり弟よりも息子がかわいかったということでしょうか。次期天皇候補だった大海人皇子からすれば当然面白くないでしょう。そんな中、天智天皇は重い病気になってしまい、するとなぜか今度は再び大海人皇子に跡を継いでほしいと訴えました

天智天皇を信用できない大海人皇子

跡を継いでほしいと頼まれた大海人皇子でしたが、安易に天智天皇の言葉を信用することはできません。何しろ元々次期天皇候補とされていたはずが一転して突如要職を外されたわけですし、なおかつまたまた一転して「跡を継いでほしい」と言われては、信用できないのも当然でしょう。

また何より、天智天皇は過去にも皇位の座に関係した策略を行った前例もあったのです。それは、かつて天智天皇が中大兄皇子と名乗っていた頃のことでした。当時天皇だった孝徳天皇の息子・有馬皇子を皇位簒奪をそそのかした挙句に処刑しており、それも大海人皇子が天智天皇の言葉を安易に信用しなかった理由の一つでしょう。

このため大海人皇子は天智天皇の依頼を断り、出家を理由に旅に出ることにしました。結局まだ24歳の大友皇子が跡を継ぐことになり、大海人皇子は出家のため吉野宮(現在の奈良県・吉野)に下っていきます。天智天皇の息子・大友皇子と天智天皇の弟・大海人皇子、後にこの二人が戦う壬申の乱が起こるのです

大海人皇子の出家の狙い

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天智天皇の死

天智天皇の頼みを断り出家した大海人皇子は、大津宮から遠く離れた吉野へと下りていきます。出家の言葉どおり頭を丸めて僧となった大海人皇子、天智天皇の言葉を断ったことからも彼は既に天皇になることに興味を失ったように思えました。しかし、そう思わせることが大海人皇子の狙いだったのです

天智天皇が息子の大友皇子をかわいがっている以上、大海人皇子は命を狙われるかもしれません。だからこそ、皇位への興味を失ったふりをして一旦大津宮から離れて身を隠したのです。そんな中、病気だった天智天皇が671年に死去します。

大海人皇子も不在な上、天智天皇も大友皇子をかわいがっていましたから、ここは大友皇子が天智天皇の跡を継ぎました。ただ、大友皇子が天智天皇の跡を継ぐものの、大友皇子に置かれた状況は芳しくありません。これは白村江の戦いによる人々の不満が尾を引いていたためです。

揺れる朝廷、それを見逃さなかった大海人皇子

白村江の戦いに敗れた日本は、唐の侵略に備えて次々と防衛策を考えました。そしてその防衛策による負担、さらに防衛を目的とした突然の政治政策などから人々は天智天皇に不満を抱きます。そんな天智天皇が死去したため、今度は天智天皇の息子である大友皇子に人々は不満の目を向けたのです

こうして不安定な状態に陥る朝廷、この状況を見逃さなかったのが吉野に身を潜めていた大海人皇子でした。翌672年、大海人皇子は吉野を発つと、伊賀や伊勢を経由して美濃へと向かいます。ここは自らの領地であり、そのため大海人皇子は豪族中心に35000人に及ぶ兵を集めることに成功しました。

しかし、大海人皇子がこうもたやすく多くの兵を集められたのは、やはり白村江の戦いの影響で天智天皇が嫌われ、そして現在息子の大友皇子が嫌われていたことが大きな理由でしょう。大海人皇子と大友皇子では、天智天皇の息のかかっていない大海人皇子の方が人々から人気があったということではないでしょうか。

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壬申の乱の勃発と結果

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壬申の乱・不破を抑えて有利になった大海人皇子

壬申の乱では、大海人皇子の迅速な判断と行動が光ります。まず東の国と都を結ぶルートとなる不破を抑え、大友皇子が援軍を目的にした使者を派遣できないようにしました。さらに大海人皇子は自らも不破に向かい、その道中で多くの兵を集めて軍勢と呼べる規模にまでさせます

その上で今度は抑えた不破を拠点に主に東の国から兵を集めようとしました。これは、東の国には白村江の戦い後の防衛策による防人に反発していた者が多く、そのため大海人皇子は必ず東の国の人々は自分に味方してくれるだろうと読んだからです。

一方、近江宮では大海人皇子が攻めてきた知らせが入り、これに対抗するため東の国へ使者を送って援軍の要請をしようとします。しかし時既に遅し、使者が通らなければならない不破は既に大海人皇子の軍勢が抑えており、これでは援軍が来ないどころか要請することすらできません。

壬申の乱・決着

東の国に援軍の要請ができないなら西の国はどうでしょうか?……これも不可能で、内乱よりも国土防衛の優先が必要なため、唐の侵略のために配置された防人を援軍として送ることはできないと却下されます。こうした流れから、大海人皇子と大友皇子とではまず兵力において大きな差が出ました

大海人皇子は攻め込む準備が整うと、軍勢を近江宮へと向かわせます。次々と援軍が到着したこともあり、大海人皇子はあっという間に近江宮まで到達し、大友皇子が敗北するのはもはや時間の問題でした。おまけに大友皇子の仲間は逃亡してしまい、最後はわずか数名しかいない状況になってしまいます。

この状況に大友皇子もさすがに観念すると自ら死を選んで自害、こうして壬申の乱は大海人皇子の勝利に終わり、大海人皇子は大友皇子から皇位簒奪に成功しました。実はこの結果は非常に珍しく、なぜなら内乱を起こして皇位簒奪に成功した例はこの壬申の乱のみだからです。

壬申の乱の影響

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中央集権国家の実現

壬申の乱に勝利した大海人皇子は、奈良にある飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となりました。この戦いの後、日本では天皇の権威が高まり、天皇を主権とする国へと変わります。元々日本は外国を脅威としており、その備えとして中央集権国家を作り上げることを目標としていたのです。

それが実現しなかったのは力を持つ豪族がいたからですが、幸いにもそんな力を持つ豪族の多くが壬申の乱において大友皇子の側に就いていました。このため、中央集権国家実現における邪魔者達を幸運にも壬申の乱で一掃できたのです。

最も、大海人皇子の側にも豪族の味方は就いていましたが、いずれも小中規模の地方の豪族だったため天皇が怖れるほどの存在ではありません。皇位簒奪の唯一の成功者である点、力の持つ豪族をたまたま壬申の乱で一掃できた点、これらの点を改めて考えると大海人皇子は強運も味方していたのかもしれませんね。

皇親政治と八色の姓の導入

また、天武天皇はより天皇の権力を高めるために皇親政治を行います。皇親政治とは天皇家を中心に政治を行うことで、天皇の妻や息子を重要な職や地位に就任させる政治方針です。天武天皇の天皇の権力を高めるための政策はそれだけではありません。

天皇中心の新たな身分制度となる八色の姓を定め、「真人」、「朝臣」、「宿禰」、「忌寸」、「道師」、「臣」、「連」、「稲置」の8種類の姓を制定します。例えば「真人」の姓は天皇家に近い親戚に与えるなど、天皇を筆頭に皇族の権威を形として示すようにしたのです

とは言え、天皇が象徴である点は現代の日本からすればむしろ当然だと思うでしょう。ところが当時の日本はそうではなく、その意味では壬申の乱が起こらなければ現代の日本は天皇を象徴とした形になっていなかった可能性もありますね。

壬申の乱を理解するには白村江の戦いまで遡ろう

壬申の乱は、シンプルに考えれば勃発の要因は天智天皇の皇位継承を巡っての争いです。ただ、実際の戦いに注目すると大海人皇子があまりにも上手く事を運んだことが分かりますね。

これは大友皇子が嫌われていたからで、ではなぜ嫌われていたのかと言えば、白村江の戦い後の天智天皇の行動が関係してきます。このため、壬申の乱は白村江の戦いまで遡ってみると覚えやすくなりますよ。

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日本史歴史飛鳥時代

皇位継承を巡る一戦「壬申の乱」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は壬申の乱について勉強していきます。壬申の乱は672年に起こった古代日本における最大の内乱ですが、古代日本というだけあってこの頃の日本は現代とは全く違った状況です。

しかも壬申の乱は情報が少ないことから、江戸時代や明治時代の戦いに比べるとイメージしづらいでしょう。そこで、今回は壬申の乱とそれが起こった流れを分かりやすく日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から壬申の乱をわかりやすくまとめた。

壬申の乱の一因・白村江の戦い

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唐に敗北して侵略に怯える日本

663年、朝鮮半島の白村江にて日本は唐・新羅の連合軍と戦争を起こします。まだ「日本」ではなく「倭国」の呼び名だった日本ですが、当時の唐は大国であり、そのため日本が挑んだことは無謀としか言えません。そして、この戦争を白村江の戦いを呼んでいます。

白村江の戦いの結果は案の定日本が敗北、共に戦った百済(古代の朝鮮半島西部に存在した国家)は滅亡、これで日本は国家存亡の危機に晒されるほど怯える毎日を送りました。と言うのも、日本は大国の唐を敵に回してしまったため、いつ侵略されてもおかしくない状況に陥ってしまったからです。

最も、日本もそのまま唐に侵略される時を指をくわえて待つつもりはありません。侵略戦争が起こった時に備えて様々な防衛策を考案していき、当時の日本の天皇・天智天皇は唐に攻められることを想定した防衛体制を次々と整えました。

防衛体制と政治改革によって高まる人々の不満

天智天皇の行った防衛策はまず「防人の設置」……唐が攻めてくるとすればその手段は船ですから、船が着きやすい博多湾の防御を固めようとしました。ただ、博多湾に近い九州の人間だけでは不充分のため、東の国からも人々を派遣します。

さらに「都を近江の大津宮へと移す」……これは、周囲に琵琶湖があることから攻められづらいと考えたためで、海に近くなく内陸であったことも近江の大津宮を選んだ理由の一つでしょう。また兵力動員の規模を分かりやすくするため庚午年籍を行って戸籍を作るなど、防衛のための政治改革も積極的に行いました。

しかし、天智天皇がこうした動きをする一方で、人々の不満は徐々に高まっていきます。なぜなら、天智天皇の行った防衛策はいずれも人々に大きな負担がかかるものでしたし、突然の度重なる政治改革に反対する者も少なくなかったためです。そして、この人々の不満が後に起こる壬申の乱の遠い一因になったとされています。

壬申の乱の一因・皇位継承

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