蛙の子供は蛙といわれているが、鳶が鷹を生むこともあったようです。

今回はそれに近しい存在だった宇喜多秀家について日本史に詳しい歴史ライターのwhat_0831と紹介していきます。

ライター/what

日本史が大好きで現地に行きより詳しく調べてることもしている歴史好きのサラリーマン。宇喜多秀家の父といえば直家で悪人と呼ばれた恐ろしい人だが、父とは全く違った秀家について細かく紹介していく。

悪人直家の嫡男として誕生する

悪名名高い直家から生まれてくる秀家の幼少時代から見ていきましょう。

岡山城で誕生

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1572年に備中岡山城で宇喜多直家と継室円融院の間に生まれ次男として誕生します。幼名は八郎。この頃は、直家が主君を倒した下剋上を起こしていて三村家親を鉄砲によって暗殺し勢力を拡大している最中でした。

また勢力を拡大している状態ではありましたが、直家の裏切り行為が相次ぎ周りに味方が一切居なくなり孤立した存在となっています。

宇喜多家当主

一時は、追い込まれていた直家でしたが徐々に備中国の国人衆を打ち倒していき備中国を手にすることができました。しかし時代は信長に傾いていて対抗するまでの力は宇喜多家にはありませんでしたが、毛利家と同調して織田家を滅ぼそうします。

ところが信長の力に屈した直家は、信長に従軍し毛利家と争っていくも1581年に備中岡山城で病死したため秀家が宇喜多家二代目当主となりました。信長に従軍していたことで本領を安堵され羽柴秀吉と共に中国征伐の軍に起用されていきます。

信長時代から秀吉時代へと変わる

毛利家と争っている間の1582年に本能寺の変が起こり信長が明智光秀に討たれたことで、時代が大きく変わっていくことになりました。

中国征伐に協力

秀吉と共に中国征伐に加わりますが、この時の秀家は十歳ととても軍を指揮できる存在ではありませんでした。そのため秀家の代わりとして叔父の宇喜多忠家が軍に加わります。

そして高松城を水攻めし落城寸前まで追い込んでいた時に、本能寺で信長が討たれたことで急ぎ領内に戻ることを選択した秀吉。毛利家と和睦を結び光秀を討ち果たすと織田家家臣の中で台頭した存在となってきました。

\次のページで「秀吉から秀の一字をもらう」を解説!/

秀吉から秀の一字をもらう

中国攻めがひとまず落ち着き、毛利家の監視役と領土を秀吉から与えられた秀家は大名となりました。また若い年齢だったおかげか秀吉から寵愛された存在となり、秀吉の養女であった豪姫を秀家に嫁がせ想定で十から十六歳の間に婚姻をしています。

また豪姫は前田利家の四女でもあり、秀吉と寧々からも大変愛情を注がれた女性でした。この大切な豪姫を嫁がせるということは、秀吉から見た秀家もまた可愛い存在だったことで両者は結ばれたのだと思われます。そして元服した際に、秀吉から秀の一字をいただき宇喜多秀家と名乗っていきました。

二大勢力の衝突

秀吉がこのまま天下を統一していくと思われましたが、秀吉に匹敵する敵が残されていました。それは徳川家康です。信長の嫡子だった信雄が秀吉に不満を抱き家康と同盟を結び秀吉派だった家臣を斬ったことが要因となり小牧長久手で羽柴軍と徳川軍は対峙しました。

結果は羽柴軍の敗北に終わりましたが、信雄が秀吉と和睦したことで休戦となり形式的に家康が上洛した形で同盟関係を結んでいきます。小牧長久手の戦いでの秀家は、大坂方面を根来衆と雑賀衆からの攻撃を防いでいました。

秀家の初陣

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信雄及び家康と同盟していた長宗我部元親らは孤立する形で秀吉に反抗していくものの、秀吉は紀州攻めと四国攻めを決定しました。四国攻めが初陣となっていた秀家は、先鋒の黒田如水に従い参陣していきます。

讃岐から上陸していき総勢で約二万の兵で高松城を攻め込み城主の高松頼邑を討ち取り続いて香西城・牟礼城を攻略しました。次なるは植田城でしたが支城に戦意が無いことに違和感を覚えた如水は、軍議を開きます。

すると如水は諸将らに植田城を取り囲むと、背後から長宗我部軍に攻撃されると予見しました。如水の判断によって植田城は攻撃せずに阿波にいる本隊に合流し次々と城を攻略し羽柴軍が勝利します。

九州征伐から朝鮮出兵

十三歳で初陣をかざり外様だったものの、秀吉の気に入られ秀吉の一門衆として特別な扱いをされていきます。

\次のページで「九州征伐へ参陣」を解説!/

九州征伐へ参陣

長宗我部氏を臣従させた秀吉は、次に九州に目を向けていきます。九州地方で勢いのあった島津氏は九州統一を果たすために大友氏を滅ぼそうとしていました。大友氏は自軍だけで太刀打ちできないと判断し、秀吉に救援を依頼していきます。

秀吉は島津氏に対して停戦命令を発令するも島津氏は、発令を無視して戦を続けていくとこれを見た秀吉は九州攻めに踏み切りました。1587年1月25日に先駆けとして秀家が出陣していき毛利輝元らと合流して日向国へと入っていきます。

根白坂で衝突

秀家らはまず日向松尾城を攻め落として山田有信が守る高城を攻略するため、羽柴秀家軍と合流し高城を二層で取り囲み兵は約十万に及んでいました。高城が孤立したことで島津義弘が率いる三万五千の兵と根白坂で対峙するも兵力差で勝っている羽柴軍の攻撃により島津軍は敗走します。

秀家は根白坂では如水と小早川隆景らと共に後詰隊として、戦場に加わりました。

帰服しない大名

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九州征伐で島津氏を降伏させると秀吉の威厳はより強くなっていきます。帰服しない大名は相模の北條氏と奥羽の伊達氏のみとなっていました。二大名の地域に対して惣無事令を発令し大名同士の死闘を禁止します。

1587年には、豊臣性と羽柴性を授かり秀吉一門として奮起していく秀家。一方で未だ秀吉帰服しない北条家当主氏直は、真田領内だった名胡桃城を落城させ秀吉の反感を買うことになり小田原征伐へと発展していきます。

秀家も主力部隊として参陣し秀吉本隊として戦い秀吉を支えていき小田原城が開城し、豊臣軍の勝利となりました。

朝鮮出兵へ

北条氏を降伏させたことで天下統一を為した秀吉。次なる土地を制すために朝鮮へ出兵する決断をしていきます。七番隊に組まれ軍監役として黒田如水が任命され文禄の役で総大将に選ばれ出征軍を率いていきました。一番隊が釜山に到着し瞬く間に朝鮮軍の城を攻略していくと明軍の援軍が到着したことで、一番隊が敗走しソウルへ撤退していきます。

ソウルに戻ると小早川隆景と立花宗茂らが兵を率いて李如松を碧蹄館で撃退し、李如松は山城で籠城することを選択すると碧蹄館の戦いに参加しなかった大名を中心に編成された隊で山城を取り囲んでいきました。三度に渡り攻撃をしていくも高低差を利用した砲撃を撃ち込まれたことで、日本軍は潰走したうえに秀家や吉川広家らが重傷となったことでソウルまで兵を引かせていきます。

ところが第二晋州城の戦いで日本軍が大勝したことで、明軍の勢いが弱まり休戦となりました。

二度目の渡海

休戦に入った後に、両軍にて和平交渉が進められるも偽り報告を受けたことと秀吉の要望が全く聞き入れられなかったことで再度明へ攻撃することになっていきます。秀家は毛利秀元と八番隊と九番隊で編成され南原城の攻略をしていき順天倭城の築城も手掛けました。

その後、他の諸将らより早く帰国し戦功が認められ秀吉から五大老の一人に命じられます。1598年に秀吉が亡くなったことで出征していた大名らは日本へ帰国しました。

宇喜多家騒動から関ヶ原

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秀吉が没したことで明の征服が失敗に終わり、日本へ帰国していく大名達でした。宇喜多家のお家騒動から徳川家康との戦を見ていきましょう。

\次のページで「秀家による無理な国政」を解説!/

秀家による無理な国政

帰国後は備中全体が明遠征によって財政難を強いられているも領民から無理やり税を巻き上げていき、家臣らも不満をいただき始めました。また豪姫が病で伏せている時に祈祷の効果が無く、キリシタンへの改宗させ無理な政治を行っていきます。この時に賛成派と反対派に分かれていきました。

更に豪姫の付き人として中村次郎兵衛と重臣の長船綱直は、国政を思いのままにしていき従来の宇喜多風土が無くなっていくと宇喜多左京亮と戸川達安及び岡貞綱がこれらの国政に異を唱えていきます。1599年に綱直が病死すると達安らが、次郎兵衛を処分するよう大坂にいた秀家に迫るも拒絶されてしまい危機を感じた次郎兵衛は前田家に逃れていきました。

直訴した達安は騒動を発生させた首謀者として、秀家に暗殺を図られるも達安は大坂屋敷に立て籠もり一戦交える勢いでしたが家康らの仲介によって事なきを得ます。

譜代家臣を失う中で揺れる豊臣政権

お家騒動で譜代家臣は、仲介に入った家康経由で増田氏の元に預けられ一気に譜代家臣を失うこととなりました。辛うじて明石全登を起用しますが、以前のような兵の統率がまともに出来ない軍団となってしまいます。

宇喜多家がお家騒動に揺れている中で、豊臣の子飼いを中心とした武断派と五奉行を中心とした奉行派の関係が悪化していきました。また家康が秀吉の遺言を無視した行動を批判する上杉景勝と直江兼続は直江状を送り付け家康と対立し会津征伐が決行されます。家康が会津征伐に向かう最中に毛利輝元らが家康に対して挙兵し、秀家も西軍の一員に加わっていきました。

関ヶ原で奮闘するも敗北

西軍主力として一万七千の兵を率いて中心となって戦うも、西軍側では戦わない大名が多く布陣していました。中でも小早川秀秋はどっちつかずの態度となったまま西軍に加担していたため一万五千もの兵がなにもせず松尾山で待機した状態です。

宇喜多軍や大谷軍及び小西軍が奮戦したことで優勢となっていた西軍でしたが、秀秋の裏切りにより大谷軍が壊滅し状況を見た毛利軍と長宗我部軍は早々と撤退していきました。また小早川軍と藤堂軍らの攻撃によって宇喜多軍も壊滅。戦場から数名の家臣と共に離脱し、伊吹山へ逃げると矢野五右衛門に助けられ四十日ほど牛舎で過ごします。

その後も家康の追ってから逃げ島津家を頼り匿われるも、匿われている噂が広まり家康に身柄を引き渡され前田利長と島津恒忠らの助命嘆願があり八丈島への流罪となりました。

八丈島で長寿

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流罪となるも家康によって久能山で六年幽閉され1606年に公式史上初の流罪となり、八丈島で家臣十三人ほどを移っていき生活していきました。八丈島での生活はとても裕福な生活とはいえず福島正則の家臣などから食料などを分け与えてもらった喜んだとされる記録が残されています。

1616年になると家康が亡くなり刑が解かれると、利長から十万石与えるから大名に復帰しないかと持ち掛けていたようですが秀家は断り八丈島に居続けました。また、八丈島を収めている源家と宴を楽しんだ記録も残されています。

1655年11月20日に、八十四歳という長生きし大名宇喜多秀家が亡くなり嫡男だった宇喜多秀高と宇喜多秀継の子孫が浮田と名を変え血脈が続いていきました。

お坊ちゃま大名だった秀家

秀吉に気に入られたことで、一介の国人衆だった宇喜多家が五十七万石と異例の大出世した秀家でしたが民の苦しさを理解出来なかったために引き起こされたお家騒動だと思います。多少なりとも戦で活躍していたことは間違いないと思いますが、録を上げるのも秀吉が決めていたため大名の中でもひいきされた存在だったでしょう。

関ヶ原の戦前に起きたお家騒動によって、宇喜多家が弱体化していくも関ヶ原で大軍を率いて来れたのも秀吉の評価があったからだと思われます。お家騒動が無く秀家が家臣と民の声をしっかりと聴ける自分だったならば、関ヶ原の行方も少し変わっていた可能性もあったでしょう。

幼少時代から甘やかされて育ってしまった秀家でしたが、最後は八丈島で苦しい生活したことで貧しい民の暮らしも理解したと思われました。

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安土桃山時代日本史歴史

戦国の美男子と呼ばれ五大老まで登りつめた「宇喜多秀家」戦国通サラリーマンが5分でわかりやすく解説

蛙の子供は蛙といわれているが、鳶が鷹を生むこともあったようです。

今回はそれに近しい存在だった宇喜多秀家について日本史に詳しい歴史ライターのwhat_0831と紹介していきます。

ライター/what

日本史が大好きで現地に行きより詳しく調べてることもしている歴史好きのサラリーマン。宇喜多秀家の父といえば直家で悪人と呼ばれた恐ろしい人だが、父とは全く違った秀家について細かく紹介していく。

悪人直家の嫡男として誕生する

悪名名高い直家から生まれてくる秀家の幼少時代から見ていきましょう。

岡山城で誕生

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1572年に備中岡山城で宇喜多直家と継室円融院の間に生まれ次男として誕生します。幼名は八郎。この頃は、直家が主君を倒した下剋上を起こしていて三村家親を鉄砲によって暗殺し勢力を拡大している最中でした。

また勢力を拡大している状態ではありましたが、直家の裏切り行為が相次ぎ周りに味方が一切居なくなり孤立した存在となっています。

宇喜多家当主

一時は、追い込まれていた直家でしたが徐々に備中国の国人衆を打ち倒していき備中国を手にすることができました。しかし時代は信長に傾いていて対抗するまでの力は宇喜多家にはありませんでしたが、毛利家と同調して織田家を滅ぼそうします。

ところが信長の力に屈した直家は、信長に従軍し毛利家と争っていくも1581年に備中岡山城で病死したため秀家が宇喜多家二代目当主となりました。信長に従軍していたことで本領を安堵され羽柴秀吉と共に中国征伐の軍に起用されていきます。

信長時代から秀吉時代へと変わる

毛利家と争っている間の1582年に本能寺の変が起こり信長が明智光秀に討たれたことで、時代が大きく変わっていくことになりました。

中国征伐に協力

秀吉と共に中国征伐に加わりますが、この時の秀家は十歳ととても軍を指揮できる存在ではありませんでした。そのため秀家の代わりとして叔父の宇喜多忠家が軍に加わります。

そして高松城を水攻めし落城寸前まで追い込んでいた時に、本能寺で信長が討たれたことで急ぎ領内に戻ることを選択した秀吉。毛利家と和睦を結び光秀を討ち果たすと織田家家臣の中で台頭した存在となってきました。

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