安土桃山時代日本史歴史

3分で簡単「五大老」!「五奉行」との違いも元塾講師が分かりやすくわかりやすく解説

死期を悟り、死後を案じた豊臣秀吉

豊臣秀吉が五大老を設置したのは豊臣政権の晩年のことで、病気で自らの死が近いことを悟ってからでした。独裁政権を突き進んできた豊臣政権は力はあったものの、あくまでそれは豊臣秀吉がいるからこそで、そのため豊臣秀吉が死去すれば豊臣政権が崩れるのは明白でしょう。

言わばこれは独裁政権を行ってきたツケであり、ワンマンの政治を行ってきたからこそ次の代への準備が整っていなかったのです。しかも豊臣秀吉にはかわいい息子・豊臣秀頼がいましたから、豊臣秀吉は何とかして豊臣秀頼に安心してバトンを渡し、その後も豊臣政権を安定して維持させたいと考えます。

しかし、息子・豊臣秀頼が成長するまで自分が生き続けるのはもはや不可能、自分が死ねば力を持つ大名達が天下統一を狙ってくるに違いない!……そう豊臣秀吉は考えたのです。そして、「これでは豊臣秀頼も豊臣政権も危ないだろう」と豊臣秀吉は悩みます。

将来の敵となり得る有力な大名を味方に取り込む

そこで、豊臣秀吉は天下統一を狙いそうな有力な大名を今のうちに仲間に取り込み、自分の死後に豊臣政権を狙わないようにしたのです。こうして集められた有力な大名らを五大老と名付けて設置、さらに信頼できる家臣達の中から優秀な者を選んで五奉行として設置します。

つまり、自分の死後に敵になり得る有力な大名を味方につけて五大老として設置、そして信頼できる家臣による五奉行も設置、こうして五大老と五奉行が豊臣秀頼のサポートを行う体制を整えようとしたのです。最も、そんな豊臣秀吉の考えは思ったようにはいきませんでした。

豊臣秀吉の死後、五大老と五奉行の対立は深くなり、それが徳川家康と石田三成の戦いである1600年の関ヶ原の戦いに発展していきます。最も、徳川家康はそんな振る舞いを見せるのはまだ先のこと、この時の徳川家康はまだ豊臣秀吉に仕える五大老の一人としての存在でした。

五大老と五奉行のメンバー

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五大老のメンバー

次に、五大老のメンバーを覚えておきましょう。まず五大老は文字どおり5人の有力な大名から成り立っており、豊臣秀吉が当初五大老として指名したのは徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家小早川隆景の5人でした。ただ、五大老設置後のメンバーに注目すると、そこに小早川隆景の名前はありません

これについてですが、豊臣秀吉が小早川隆景を指名したのは間違いないのですが、この5人を大老とみなしたのは正確には1595年、そして正式に五大老として設置したのは1598年です。そして、小早川隆景はその間の期間となる1597年に死去しています

つまり、いざ五大老を設置する直前のタイミングで不運にも小早川隆景が死去してしまい、その代わりとして新たに上杉景勝が加わることになり、そのため五大老の正式なメンバーは徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家上杉景勝の5人です。

五奉行のメンバー

一方で五奉行のメンバーですが、これも紛らわしい点があるので注意してください。五奉行はそれぞれ担当する政務が振り分けられており、司法担当が浅野長政、行政担当が石田三成、財政担当が長束正家、土木担当が増田長盛、朝廷・宗教担当が前田玄以となっています。

この中で司法担当を担っていた浅野長政ですが、似た名前で織田信長と同盟・その後決裂して織田軍と戦った浅井長政という有名な武将がいるのです。浅井長政と浅野長政は全くの別人ですが、名前が似ているため「浅井長政=五奉行」と勘違いしてしまうケースがあります。

しかしそれは間違いで、五奉行の一人となるのは浅野長政です。ちなみに、浅野長政は関ヶ原の戦いで徳川家康を支持しており、常陸国真壁藩の初代藩主にもなっています。確かに、浅野長政も織田信長の家臣を務めた時代がありますが、浅井長政とは全くの別人なので注意してください

\次のページで「関ヶ原の戦い・五大老と五奉行の立ち位置」を解説!/

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