幕末日本史歴史江戸時代

新政権樹立の宣言!「王政復古の大号令」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。今日は王政復古の大号令について勉強していくぞ。江戸時代の幕末、明治時代の幕開けのきっかけとなったのが王政復古の大号令であり、その意味で王政復古の大号令は大きな出来事だ。

そのため江戸時代の歴史を学ぶ上では必ず登場するワードだが、その説明は「起死回生のクーデター宣言」などいまいち分かりづらいだろう。そこで、今回は王政復古の大号令を分かりやすく日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から王政復古の大号令をわかりやすくまとめた。

江戸時代の幕末の状況

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高まる幕府への不満

長く続いてきた徳川家による江戸幕府も、徐々に庶民の不満が高まるようになっていきます。その大きなきっかけは1858年の日米修好通商条約の締結で、この条約締結には2つの問題がありました。まず1つはこれが不平等条約だったことで、その条約締結によって生活が苦しくなった庶民は当然不満を抱きます。

もう1つは条約締結が天皇に無許可で行われたことで、こともあろうに不平等条約の調印を天皇の無許可で行った幕府は非難され、当時の責任者に相当する幕府の大老・井伊直弼に誰もが怒りを感じました。そこで井伊直弼は安政の大獄を行って弾圧するものの、過激なその弾圧は自らの命を落とすきっかけになったのです。

1860年、桜田門外の変にて井伊直弼は水戸藩を脱藩した浪士達に白昼暗殺され、幕府の大老が藩の脱藩者に殺害されたことは幕府の権威失墜を招きました。しかも幕府に不満を持つ庶民は多く、いっそ江戸幕府を倒してしまおうという倒幕の考えが生まれるようになったのです。

幕府派、尊王攘夷派、公武合体派の3つの思想

時は流れて1867年、徳川慶喜が江戸幕府・第15代征夷大将軍に就任します。失墜の道を一直線に進んでいた幕府でしたが、徳川慶喜が将軍に就任して以降は少しずつ勢力を取り戻していき、当時の日本では3つの思想が存在することになったのです。

1つ目に幕府派、要するにこれまでどおり幕府の存続を願う考えで、幕府はもちろん会津藩や桑名藩がこの考えを持っていました。2つ目に尊王攘夷派、これは幕府ではなく朝廷の天皇による政治を願う考えで、幕府が不要という意味で倒幕派と言い換えても良いでしょう。この考えを持っていたのは長州藩です。

3つ目に公武合体派、これは幕府と朝廷の協力した政治を願う考えで、幕府と朝廷を融合させて日本の政治体制を強化させることを目的としています。これは、薩摩藩や土佐藩が思想としていた考えですね。江戸時代の幕末、日本の政治の在り方はこれら3つの思想……すなわち3派に分かれていました。

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幕府を未だ支持する幕府派、天皇が政治を行うべきと考える尊王攘夷派、幕府と朝廷が融合して強くなるべきと考える公武合体派、江戸時代の幕末はこれら3つの考えに分かれていた。まずはこの現状をしっかりと把握しておいてくれ。

高まる倒幕ムード

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四侯会議の崩壊による武力倒幕への考え

1867年、公武合体派を推していた薩摩藩は四侯会議を設置します。これは、島津久光、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、四賢公と呼ばれた4人の有力者による将軍・徳川慶喜に対しての諮詢機関とするためです。そして、この四候会議の設置を主導した薩摩藩にはある計画がありました。

現状政治の主導権を握っているのは幕府に違いありません。そこで、まずこの主導権を幕府から勢力の強い藩の集まりである雄藩連合側へと移し、その上で朝廷・天皇を中心とした公武合体の政治体制にするつもりでいたのです。しかし、ここで一枚上手だったのは徳川慶喜、彼は持ち前の政治力を巧みに駆使して薩摩藩の計画を潰すことに成功しました。

一方、見事計画を潰されてしまった薩摩藩は考えの方向転換をはかります。徳川慶喜が政治の主導権を渡すつもりがない以上、もう朝廷と幕府が協力することなどできるはずはなく、公武合体の実現は不可能、それならばと一変して武力倒幕へと考えを変えたのです。

討幕の密勅による徳川慶喜征伐の命令

第二次長州征討で長州藩に敗れた幕府、日本を支配しているはずがたった1つの藩に敗北したその様は、幕府の力の低下をはっきりと示していました。ですから、薩摩藩が倒幕派へと考えを変えたことは徳川慶喜にとって脅威だったでしょう。力があれば、江戸時代初期の大阪の陣のように武力で解決できたかもしれません。

しかし、現状の幕府にそこまでの力はなく、薩摩藩や長州藩が武力倒幕の行動に出てしまえば幕府が敗北するのは明白です。そんな中、徳川慶喜はいよいよ窮地に立たされます。武力倒幕派に対して、討幕の密勅と呼ばれる徳川慶喜討伐の命令が天皇から下され、武力倒幕派はこれで堂々と倒幕できる状況になったのです。

後にこの討幕の密勅は偽物だったという可能性も挙げられていますが、どちらにしても武力倒幕派は戦闘の準備を整えており、江戸幕府・徳川慶喜の討伐決行が間近に迫ります。幕府は武力倒幕派に武力で太刀打ちしても勝算がなく、そこで徳川慶喜は意外な行動に出るのでした。

\次のページで「徳川慶喜の企みと王政復古の大号令」を解説!/

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