今日は王政復古の大号令について勉強していきます。江戸時代の幕末、明治時代の幕開けのきっかけとなったのが王政復古の大号令であり、その意味で王政復古の大号令は大きな出来事です。

そのため江戸時代の歴史を学ぶ上では必ず登場するワードですが、その説明は「起死回生のクーデター宣言」などいまいち分かりづらいでしょう。そこで、今回は王政復古の大号令を分かりやすく日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から王政復古の大号令をわかりやすくまとめた。

江戸時代の幕末の状況

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高まる幕府への不満

長く続いてきた徳川家による江戸幕府も、徐々に庶民の不満が高まるようになっていきます。その大きなきっかけは1858年の日米修好通商条約の締結で、この条約締結には2つの問題がありました。まず1つはこれが不平等条約だったことで、その条約締結によって生活が苦しくなった庶民は当然不満を抱きます。

もう1つは条約締結が天皇に無許可で行われたことで、こともあろうに不平等条約の調印を天皇の無許可で行った幕府は非難され、当時の責任者に相当する幕府の大老・井伊直弼に誰もが怒りを感じました。そこで井伊直弼は安政の大獄を行って弾圧するものの、過激なその弾圧は自らの命を落とすきっかけになったのです。

1860年、桜田門外の変にて井伊直弼は水戸藩を脱藩した浪士達に白昼暗殺され、幕府の大老が藩の脱藩者に殺害されたことは幕府の権威失墜を招きました。しかも幕府に不満を持つ庶民は多く、いっそ江戸幕府を倒してしまおうという倒幕の考えが生まれるようになったのです。

幕府派、尊王攘夷派、公武合体派の3つの思想

時は流れて1867年、徳川慶喜が江戸幕府・第15代征夷大将軍に就任します。失墜の道を一直線に進んでいた幕府でしたが、徳川慶喜が将軍に就任して以降は少しずつ勢力を取り戻していき、当時の日本では3つの思想が存在することになったのです。

1つ目に幕府派、要するにこれまでどおり幕府の存続を願う考えで、幕府はもちろん会津藩や桑名藩がこの考えを持っていました。2つ目に尊王攘夷派、これは幕府ではなく朝廷の天皇による政治を願う考えで、幕府が不要という意味で倒幕派と言い換えても良いでしょう。この考えを持っていたのは長州藩です。

3つ目に公武合体派、これは幕府と朝廷の協力した政治を願う考えで、幕府と朝廷を融合させて日本の政治体制を強化させることを目的としています。これは、薩摩藩や土佐藩が思想としていた考えですね。江戸時代の幕末、日本の政治の在り方はこれら3つの思想……すなわち3派に分かれていました。

高まる倒幕ムード

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四侯会議の崩壊による武力倒幕への考え

1867年、公武合体派を推していた薩摩藩は四侯会議を設置します。これは、島津久光、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、四賢公と呼ばれた4人の有力者による将軍・徳川慶喜に対しての諮詢機関とするためです。そして、この四候会議の設置を主導した薩摩藩にはある計画がありました。

現状政治の主導権を握っているのは幕府に違いありません。そこで、まずこの主導権を幕府から勢力の強い藩の集まりである雄藩連合側へと移し、その上で朝廷・天皇を中心とした公武合体の政治体制にするつもりでいたのです。しかし、ここで一枚上手だったのは徳川慶喜、彼は持ち前の政治力を巧みに駆使して薩摩藩の計画を潰すことに成功しました。

一方、見事計画を潰されてしまった薩摩藩は考えの方向転換をはかります。徳川慶喜が政治の主導権を渡すつもりがない以上、もう朝廷と幕府が協力することなどできるはずはなく、公武合体の実現は不可能、それならばと一変して武力倒幕へと考えを変えたのです。

討幕の密勅による徳川慶喜征伐の命令

第二次長州征討で長州藩に敗れた幕府、日本を支配しているはずがたった1つの藩に敗北したその様は、幕府の力の低下をはっきりと示していました。ですから、薩摩藩が倒幕派へと考えを変えたことは徳川慶喜にとって脅威だったでしょう。力があれば、江戸時代初期の大阪の陣のように武力で解決できたかもしれません。

しかし、現状の幕府にそこまでの力はなく、薩摩藩や長州藩が武力倒幕の行動に出てしまえば幕府が敗北するのは明白です。そんな中、徳川慶喜はいよいよ窮地に立たされます。武力倒幕派に対して、討幕の密勅と呼ばれる徳川慶喜討伐の命令が天皇から下され、武力倒幕派はこれで堂々と倒幕できる状況になったのです。

後にこの討幕の密勅は偽物だったという可能性も挙げられていますが、どちらにしても武力倒幕派は戦闘の準備を整えており、江戸幕府・徳川慶喜の討伐決行が間近に迫ります。幕府は武力倒幕派に武力で太刀打ちしても勝算がなく、そこで徳川慶喜は意外な行動に出るのでした。

\次のページで「徳川慶喜の企みと王政復古の大号令」を解説!/

徳川慶喜の企みと王政復古の大号令

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大政奉還後も政権を握れると企んだ徳川慶喜

1867年の11月9日、薩摩藩と長州藩に倒幕の密勅が下されると、同日に徳川慶喜は大政奉還を行います。大政奉還とは政権を天皇に返上することであり、つまり徳川慶喜は自ら江戸幕府の歴史に幕を降ろしたのです。これに混乱したのは倒幕派、何しろ既に幕府と戦うための準備を進めていたわけですからね。

大政奉還をしたということは江戸幕府がなくなるということ、そして天皇による政治が始まることを意味します。倒すべき相手が自ら退いたことで討幕の密勅は延期、武力倒幕の行動を起こす前に江戸幕府はなくなることになり、結局は倒幕派からすれば望みどおり幕府がなくなる結果となったのです。

ただ、大政奉還を行った徳川慶喜にはある考えがありました。「明治天皇は人気があるとは言え、まだ若くて未熟である」「これまで幕府が政治を行っていたため、朝廷が政治を行うのは難しいだろう」……こうした考えから、大政奉還を行っても政治の主導権を握れると企んだのです。

岩倉具視の計画・王政復古の大号令

徳川慶喜の企みは成功、大政奉還を行った後も将軍職を辞職することはなく、また幕府にかわる新たな行政機関も誕生する気配がありません。またそれに関わる会議などが行われる様子もなく、結局は徳川慶喜が政務を担当することになりました

要するに、徳川慶喜は依然政治の主導権を握った状態を維持しており、これを面白く思わないのが倒幕派の者達です。何しろ、大政奉還で政権を返上したはずの徳川慶喜は政治の世界に居座り続け、それどころか今までどおり政治の中心に立っているわけですからね。これでは今までと何も変わらない……そう不満に思うのは当然でした。

そこで、公家の岩倉具視は現状を打破するための政変……つまりクーデターを計画します。1868年、薩摩藩・土佐藩・安芸藩・尾張藩・越前藩の兵士達に御所の城門を封鎖させ、岩倉具視は王政復古の大号令を出して今ここに新政権が誕生することを宣言したのです。

王政復古の大号令とその後の徳川慶喜

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王政復古の大号令の内容

新政権樹立を宣言した王政復古の大号令には5つの項目があります。「1.将軍職の辞職を勅許する」……これは徳川慶喜の将軍辞職届けを受理するもので、これで徳川慶喜は一切の権限を失うことになりました。「2.京都守護職の廃止」……京都守護職は幕府が作った役職ですから、これの廃止は幕府の影響をなくすことを意味します。

「3.幕府の廃止」……今後政治を行うのは朝廷であり、そのため幕府は必要ありません。今後武士が政治を行うことのないよう、征夷大将軍の地位をなくした上で幕府も廃止しようという考えです。「4.摂政・関白の廃止」……これは、武士以外に政治の主導権を握る可能性のある五摂家の力を奪うのが目的でしょう。

何しろ五摂家は藤原道長の子孫であり、藤原道長は当時朝廷の権力の手にしたため、その再来を怖れたに違いありません。「5.新たに総裁・議定・参与の三職を設置する」……これは新政府による政治体制を示すもので、要するにこれからは新政府による新政治の始まりを具体化したのです。

\次のページで「なお政治の世界に残ろうとする徳川慶喜」を解説!/

なお政治の世界に残ろうとする徳川慶喜

王政復古の大号令の項目から分かるとおり、王政復古の大号令は徳川慶喜を政治の世界から追い払うために行われたようなものです。ただ、それだけでなく禁門の変以降、幕府に処罰されていた武力倒幕派の大名や公家を復権させることも目的としてありました。

さて、まるで骨抜き状態にされた徳川慶喜でしたがこのまま引き下がろうとはせず、王政復古の大号令を大批判します。さらにここでも持ち前の頭の良さを発揮、この状態においても様々な策略によって徳川家の辞官納地(役職を退いて領地を天皇に返上すること)の無力化を企みました。

しかもそれは半ば成功、政治の世界において大政奉還を行っても徳川慶喜は生き残り、王政復古の大号令を出されてもなお生き残りつつあったのです。王政復古の大号令は徳川慶喜の排除を目的で行ったものの、徳川慶喜は諦めることなく窮地からの脱出を試みて、しかもそれは半ば成功しました。

そして戊辰戦争へ

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戊辰戦争の勃発

王政復古の大号令を出してもなお徳川慶喜を排除できず、それを実現する会議が行われるものの、もう具体案は出てきません。これに業を煮やしたのが薩摩藩、「こうなったら徳川慶喜を討伐するしかない」と、大政奉還が行われる以前に考えとしていた武力倒幕を推し進めます。

つまり、新政府軍として旧幕府軍と戦争すべきと考えたわけで、そのために徳川慶喜を散々挑発、徳川慶喜と未だそれを支持する旧幕府派の者達を戦争の舞台に引きずりおろそうとしました。そしてついに挑発に乗った徳川慶喜、これで新政府軍として旧幕府軍と堂々と戦争ができ、徳川慶喜を討伐する機会が生まれます。

この戦争こそ1868年に起こった戊辰戦争で、1年以上続いたこの戦争によって旧幕府軍は敗北、徳川慶喜は今度こそ完全に力を失って幕府は正真正銘終わりを迎えたのです。そしてその初戦となる鳥羽・伏見の戦いにて徳川慶喜は退却、その後江戸城を明け渡したことで政治の世界から身を引きました

大政奉還の後に戊辰戦争が起こった疑問の解消

王政復古の大号令を理解することで、江戸時代の幕末の最大の疑問点が解消されます。その疑問点とは「大政奉還を行ったにもかかわらず戊辰戦争が起こったこと」で、出来事だけを辿っていけば、徳川慶喜自らが政権を返納して幕府を終わらせたはずが、後に新政府と旧幕府で戦争するのは矛盾しているでしょう。

しかし、実際のところ徳川慶喜は大政奉還しても依然政治の主導権を握っており、さらに王政復古の大号令によって排除されてもなお権力を取り戻しつつありました。このため、倒幕派からすれば徳川慶喜含めた旧幕府派の者達を討つしかないと考えたのです。

ですから、徳川慶喜の大政奉還して政権を返上したにもかかわらず戊辰戦争が起こってしまったわけですね。そして、王政復古の大号令とは大政奉還しても政治の権力を握る徳川慶喜を排除するための岩倉具視らが計画・実行したクーデターだったのです。

王政復古の大号令・その原因と目的と結果のまとめ

最後に、王政復古の大号令が起こった原因・その目的・その後の結果をまとめておきましょう。まず原因ですが、これは四侯会議の崩壊で、これが公武合体の断念と倒幕ムードの加速、そして大政奉還へとつながりました。

次に目的ですが、これは大政奉還を行っても依然政治の主導権を握る徳川慶喜を排除することで、結果としては徳川慶喜を失脚させつつも完全な失脚は叶わず、結局戊辰戦争が勃発してしまうのです。

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幕末日本史歴史江戸時代

新政権樹立の宣言!「王政復古の大号令」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は王政復古の大号令について勉強していきます。江戸時代の幕末、明治時代の幕開けのきっかけとなったのが王政復古の大号令であり、その意味で王政復古の大号令は大きな出来事です。

そのため江戸時代の歴史を学ぶ上では必ず登場するワードですが、その説明は「起死回生のクーデター宣言」などいまいち分かりづらいでしょう。そこで、今回は王政復古の大号令を分かりやすく日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から王政復古の大号令をわかりやすくまとめた。

江戸時代の幕末の状況

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高まる幕府への不満

長く続いてきた徳川家による江戸幕府も、徐々に庶民の不満が高まるようになっていきます。その大きなきっかけは1858年の日米修好通商条約の締結で、この条約締結には2つの問題がありました。まず1つはこれが不平等条約だったことで、その条約締結によって生活が苦しくなった庶民は当然不満を抱きます。

もう1つは条約締結が天皇に無許可で行われたことで、こともあろうに不平等条約の調印を天皇の無許可で行った幕府は非難され、当時の責任者に相当する幕府の大老・井伊直弼に誰もが怒りを感じました。そこで井伊直弼は安政の大獄を行って弾圧するものの、過激なその弾圧は自らの命を落とすきっかけになったのです。

1860年、桜田門外の変にて井伊直弼は水戸藩を脱藩した浪士達に白昼暗殺され、幕府の大老が藩の脱藩者に殺害されたことは幕府の権威失墜を招きました。しかも幕府に不満を持つ庶民は多く、いっそ江戸幕府を倒してしまおうという倒幕の考えが生まれるようになったのです。

幕府派、尊王攘夷派、公武合体派の3つの思想

時は流れて1867年、徳川慶喜が江戸幕府・第15代征夷大将軍に就任します。失墜の道を一直線に進んでいた幕府でしたが、徳川慶喜が将軍に就任して以降は少しずつ勢力を取り戻していき、当時の日本では3つの思想が存在することになったのです。

1つ目に幕府派、要するにこれまでどおり幕府の存続を願う考えで、幕府はもちろん会津藩や桑名藩がこの考えを持っていました。2つ目に尊王攘夷派、これは幕府ではなく朝廷の天皇による政治を願う考えで、幕府が不要という意味で倒幕派と言い換えても良いでしょう。この考えを持っていたのは長州藩です。

3つ目に公武合体派、これは幕府と朝廷の協力した政治を願う考えで、幕府と朝廷を融合させて日本の政治体制を強化させることを目的としています。これは、薩摩藩や土佐藩が思想としていた考えですね。江戸時代の幕末、日本の政治の在り方はこれら3つの思想……すなわち3派に分かれていました。

高まる倒幕ムード

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四侯会議の崩壊による武力倒幕への考え

1867年、公武合体派を推していた薩摩藩は四侯会議を設置します。これは、島津久光、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、四賢公と呼ばれた4人の有力者による将軍・徳川慶喜に対しての諮詢機関とするためです。そして、この四候会議の設置を主導した薩摩藩にはある計画がありました。

現状政治の主導権を握っているのは幕府に違いありません。そこで、まずこの主導権を幕府から勢力の強い藩の集まりである雄藩連合側へと移し、その上で朝廷・天皇を中心とした公武合体の政治体制にするつもりでいたのです。しかし、ここで一枚上手だったのは徳川慶喜、彼は持ち前の政治力を巧みに駆使して薩摩藩の計画を潰すことに成功しました。

一方、見事計画を潰されてしまった薩摩藩は考えの方向転換をはかります。徳川慶喜が政治の主導権を渡すつもりがない以上、もう朝廷と幕府が協力することなどできるはずはなく、公武合体の実現は不可能、それならばと一変して武力倒幕へと考えを変えたのです。

討幕の密勅による徳川慶喜征伐の命令

第二次長州征討で長州藩に敗れた幕府、日本を支配しているはずがたった1つの藩に敗北したその様は、幕府の力の低下をはっきりと示していました。ですから、薩摩藩が倒幕派へと考えを変えたことは徳川慶喜にとって脅威だったでしょう。力があれば、江戸時代初期の大阪の陣のように武力で解決できたかもしれません。

しかし、現状の幕府にそこまでの力はなく、薩摩藩や長州藩が武力倒幕の行動に出てしまえば幕府が敗北するのは明白です。そんな中、徳川慶喜はいよいよ窮地に立たされます。武力倒幕派に対して、討幕の密勅と呼ばれる徳川慶喜討伐の命令が天皇から下され、武力倒幕派はこれで堂々と倒幕できる状況になったのです。

後にこの討幕の密勅は偽物だったという可能性も挙げられていますが、どちらにしても武力倒幕派は戦闘の準備を整えており、江戸幕府・徳川慶喜の討伐決行が間近に迫ります。幕府は武力倒幕派に武力で太刀打ちしても勝算がなく、そこで徳川慶喜は意外な行動に出るのでした。

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