幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

蘭学者にして日本の軍隊の創始者「大村益次郎」について歴女がとことん解説

3-5、戊辰戦争へ

慶応3年(1867年)、討幕と王政復古を目指し西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩側から長州藩に働きかけがされ、討幕か否かに意見が分かれたが、益次郎は禁門の変や下関戦争の失敗で、薩摩の動きには用心すべきという考えを持っていて、慎重論を。しかし藩内の世論は出兵論に傾いたので、益次郎は掛助役に左遷されて、出兵の実務に携わったということ。

益次郎は、明治元年(1868年)鳥羽・伏見の戦いを受けて毛利広封が京へ進撃に随行し、用所本役軍務専任になり、京都へ。このときに新政府軍の江戸攻撃案を作成。

3-6、益次郎、江戸へ下向

明治元年(1868年)4月、西郷と勝海舟による江戸城無血開城。しかし旧幕府方の残党が東日本各地で反抗を続けており、情勢は依然として流動的なので、益次郎は有栖川宮東征大総督府補佐として江戸に下向。21日には海路で江戸に到着、軍務官判事、江戸府判事を兼任。

3-7、彰義隊を一日で鎮圧して一躍注目される

このころ江戸は、天野八郎ら旧幕府残党による彰義隊約3千名が上野寛永寺に構え不穏な動きを。西郷や勝海舟らもこれを抑えきれず、江戸中心部は半ば無法地帯に。

新政府は益次郎の手腕に期待、益次郎は、目黒の火薬庫を処分、兵器調達のために江戸城内の宝物を売却し、奥州討伐の増援部隊派遣の段取りを図るなど、てきぱきと処理。5月には外国官判事大隈重信の意見を受けて、幕府が注文した軍艦ストーンウォール購入費用25万両を討伐費に充てたということ。
5月1日には江戸市中の治安維持の権限を勝から委譲され江戸府知事兼任となって江戸市中の全警察権を取得。

益次郎は討伐軍を指揮し、5月15日わずか1日で上野の彰義隊を鎮圧し、大村益次郎の名が知れ渡りました。

3-8、益次郎、薩摩の海江田信義らと対立

益次郎は、金銭感覚もバッチリで合理的に計算して処理しましたが、合理的過ぎる処置とコミュニケーション障害が薩摩の連中の神経を逆なですることになり、後々に遺恨を。

上野戦争についての軍議で、薩摩の海江田信義と対立。海江田の発言に対して益次郎が「君はいくさを知らぬ」の一言に、海江田信義が尋常ではない怒りを見せ、後に海江田による大村益次郎暗殺関与説の根拠となり、益次郎も以前からの西郷や薩摩藩士の不信感を募らせたよう。

3-9、事実上の新政府軍総司令官に

明治2年(1869年)6月4日、益次郎は、鎮台府の民政会計を兼任、従四位に。関東北部での旧幕府残党勢力を鎮圧、江戸から事実上の新政府軍総司令官となりました。

しかし白河方面の作戦を巡って益次郎は西郷と対立、以降益次郎単独での作戦指導することに。そして函館五稜郭で榎本武揚らの最後の旧幕府残党軍も降伏して戊辰戦争は終結。このとき益次郎は、適塾の後輩の大鳥圭介の減刑助命に奔走。

3-10、兵制論争

明治2年(1869年)6月2日、益次郎は、戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通と並び新政府の幹部に。
10月24日、軍務官副知事に就任、益次郎は軍制改革の中心を担い、明治2年(1869年)6月には政府の兵制会議で大久保らと旧征討軍の処理と中央軍隊の建設方法について論争を展開。

益次郎は、武士階級である藩兵に依拠しない政府直属軍隊の創設を唱え、大久保利通らは、鹿児島(薩摩)、山口(長州)、高知(土佐)の武士階級の藩兵を主体にした中央軍隊を編成しようとして、激論に。
益次郎は、百姓身分の出身であるせいか、武士階級を嫌い、諸藩の廃止、廃刀令、徴兵制、鎮台、兵学校設置での職業軍人の育成など、後の日本の軍隊の青写真を描いていたということで、武士階級を残したい勢力と対立したわけですね。

3-11、益次郎、西南戦争を予測

益次郎は、この明治維新が成立したばかりのときに、すでに西南戦争が起こることを予測し、そのための準備をしていたということ。

まず、3年のうちに現在の藩兵を基に軍の基礎を完成させ、次に大阪に軍の基地を作って兵学校や武器工場を置くという組織作りを行った後、徴兵制度を起こして鎮台制を置こうとしていたそう。大阪に軍の中心を置くというのも、日本のほぼ中心にあり、また薩摩を警戒してのことなんですね。

3-11、益次郎、暗殺される

明治2年(1869年)、益次郎は軍事施設視察と建設予定地の下見のため、京阪方面に出張。この頃、京都で弾正台支所長官となっていた例の薩摩の海江田信義が益次郎に対しての遺恨を晴らそうと、益次郎暗殺の煽動をしているという風説があるほど不穏な情勢だったので、心配性の桂小五郎改め木戸孝允は、益次郎の京都大阪行きを反対したが、益次郎は意に介せず、中山道から京都へ。

益次郎は伏見練兵場の検閲、宇治の弾薬庫予定地検分、大阪城内の軍事施設視察、天保山の海軍基地を検分、そして9月4日夕刻、益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われ、静間と安達は死亡、益次郎も重傷を。

益次郎は一命をとりとめ、大阪の病院に転送されたが、その時の疵がもとで、11月1日、敗血症で45歳で死亡。
益次郎は、臨終の際に、「四斤砲をたくさん作っておけ」と船越衛に後事を託したということ。

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angelica