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蘭学者にして日本の軍隊の創始者「大村益次郎」について歴女がとことん解説

2-1、蘭学者として宇和島へ

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嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航、蘭学者の需要が高まる時代が到来。益次郎は、伊予宇和島藩要請で出仕。
これは司馬遼太郎著「花神」によれば、宇和島藩関係者から城下のシーボルト門人で有名な蘭学医の二宮敬作に要請→蘭学者つながりで緒方洪庵に手紙で相談→大村益次郎を推薦で、宇和島藩藩士大野昌三郎が長州の益次郎のところに来訪、益次郎、快諾して宇和島へということ。蘭学者のネットワークですね。

2-2、益次郎、砲台と蒸気船作りに

宇和島に到着した益次郎は、宇和島藩で西洋兵学、蘭学の講義と翻訳を任され、宇和島城北部に樺崎砲台を作りました。
そして安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)にかけては、長崎で軍艦製造を研究。宇和島では提灯屋の嘉蔵(後の前原巧山)とともに洋式軍艦の雛形を製造。わずかな差で国産初ではなく国産第1号は薩摩藩ですが、益次郎はこの身分が低く無学だが、ものすごく器用で職人肌の嘉蔵の才能に、ヨーロッパに生まれていれば大学教授になっていたろうとびっくり。
「花神」によれば、じつはこの蒸気船製造は、宇和島藩主伊達宗城が、薩摩藩主の島津斉彬と佐賀藩主鍋島閑叟(かんそう)とペリーの黒船と同様の蒸気船を国産で作る競争をしていたという話。出来上がった蒸気船に試乗した伊達宗城は、ペリー来航からわずか3年で同じものが出来たことに感動したそう。
この頃、益次郎は村田蔵六(蔵六は亀の意)と改名。

2-3、江戸に出て私塾鳩居堂を開塾し、あちこちで引っ張りだこに

益次郎は、安政3年(1856年)4月、宇和島藩主伊達宗城の参勤に従い江戸へ。
同年11月1日、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾、蘭学、兵学、医学を教授し、宇和島藩御雇はそのままで、幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書や洋書翻訳のほかに、兵学講義、オランダ語などを講義。

翌年には幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を教授と、専門書の原書の難しい翻訳などもわかりやすく翻訳するため評価が高く、他の藩からの翻訳も頼まれたりと、いくら時間があっても足りないほどの忙しさだったそう。

2-4、大村益次郎、桂小五郎と出会う

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By mariemon – mariemon撮影 著作者自身による撮影, CC 表示 3.0, Link

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益次郎は、江戸では蘭学者の間で優秀さが評判になり、蘭学者繋がりで幕府の蕃書調所に務めるまでになりましたが、故郷の長州藩からはコンタクトなし。

以下、「花神」によると、益次郎はこのまま幕臣になるよりも、やはり故郷の長州藩に認められたかったらしく、安政5年に父の病でいったん長州に帰ったとき、萩まで桂小五郎(後の木戸孝允)に会いに行き、桂も長州出身者が幕府の蕃書調所の教授になっていること、益次郎本人の変わり者ぶりにも感銘を受けたということ。
益次郎が江戸へ帰った後も、桂は四方八方に益次郎のことを手紙に書き、益次郎は長州藩上屋敷で青木周弼や東条英庵が行っていた蘭書会読会で、兵学書の講義をすることに。

この頃、世の中は安政の大獄の真っ最中でした。ある日、桂は、師で刑死した吉田松陰の遺体を受け取り埋葬に向かう途中、小塚原刑場で、死体解剖の真っ最中の益次郎に再会。

桂はこの出会いを吉田松陰が導いた運命のように感じたということ。
ということで、この後の益次郎の長州での活躍は、すべて桂が関わることに
また益次郎は、文久2年(1862年)、これからは英語だということで、ヘボンに英語と数学を学んだということ。江戸滞在時には箕作阮甫、大槻俊斎、桂川甫周、福澤諭吉、大鳥圭介といった適塾同窓生関連の蘭学者、洋学者と付き合いも。

3-1、益次郎、長州へ帰り兵学などを教え、軍備関係の仕事も

文久3年(1863年)10月、益次郎は長州へ帰り、手当防御事務用掛に任命され、翌年、兵学校教授役に。長州藩の山口明倫館での西洋兵学の講義、鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、軍備関係の仕事を。

その一方で語学力を買われて四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛として下関に出張なども。外国艦隊退去後、政務座役事務掛として軍事関係に復帰し、明倫館廃止後に博習堂用掛兼赤間関応接掛に任命。

慶応元年(1865年)、益次郎は藩の軍艦壬戌丸売却のため、秘密裏に上海へ。当時は国禁を犯したということで、公式文書はなく、益次郎本人のメモがあるものの、明治後も本人は否定、仔細は不明のまま。

3-2、奇兵隊の指導も

幕府の第二次長州征伐に備えて、高杉晋作らは西洋式兵制を採用した奇兵隊を創設、長州藩の軍制改革に着手し、益次郎に指導を要請。

このとき、桂小五郎の推挙で、益次郎は馬廻役譜代100石取の上士身分となったので、それらしく大村益次郎永敏と改名
このころ、益次郎は明倫館や宿舎の普門寺で西洋兵学を教授、オランダの兵学者クノープの西洋兵術書「兵家須知戦闘術門」を翻訳刊行、またその内容を実戦に役立つようにわかりやすくした的確なテキストを作成したということ。

3-3、第二次長州征伐に

慶応2年(1866年)、幕府による第二次長州征伐が決定。長州では桂小五郎は5月に藩の指導権を握り、益次郎、晋作、伊藤博文、井上聞多(のち井上馨)らと幕府との全面戦争への体制固めに。尚、益次郎は3月に兵学校御用掛兼御手当御用掛として明倫館で兵学教授を開始後、5月に近代軍建設の責任者となって、閏5月に大組御譜代に昇格して名実共に藩士に。

益次郎は、この頃からすでに藩の武士階級だけでなく、農民、町人階級から組織した市民軍の組織体系確立の構想があったということ
幕府軍が攻めてくる現在これが急務となり、藩はその給与を負担したうえに、兵士の基本的訓練を決行すべしと述べ、1600人の16歳~25歳までの農商階級の兵士を編成。そして旧来の藩士の再編を断行、石高に合わせた隊にして効率のよい機動性を持たせた軍隊にし、隊の指揮官を普門塾に集め、戦術を徹底的に教授。

また青木群平を長崎に派遣し、最新のライフル銃であるミニエー銃を購購入させようとするがうまくいかず、桂が坂本龍馬を介して伊藤博文と井上馨を長崎のイギリス商人グラバーと交渉させ、薩摩藩の協力もあってミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を購入。

3-4、益次郎、実戦の指揮を執る

慶応2年(1866年)6月に対幕府軍との戦闘が開始、益次郎は石州口方面の実戦指揮を担当。益次郎の戦術は最新の武器と巧妙な用兵術に加え、無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘って攻撃を加えるという合理的なもの。これは旧態依然の幕府側をことごとく撃破、長州藩の蘭学者青木周弼は「その才知、鬼の如し」と語ったそう、
他の戦線でも長州藩は優勢に戦いを進め、事実上の長州藩勝利のもとに、将軍家茂の死去で停戦に。 益次郎は征討終了後は海軍用掛を兼務して海軍頭取前原彦太郎(のちの前原一誠)を補佐。

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