今回は大村益次郎を取り上げるぞ。適塾の塾頭で蘭学医だったはずなのに、なんで陸軍創始者になって靖国神社に銅像が立ってるんでしょうな、

その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、薩摩長州幕府側に限らず誰にでも興味津々、例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大村益次郎について5分でわかるようにまとめた。

1-1、大村益次郎は、長州の町医者の息子

大村益次郎は、文政7年5月3日(1824年5月30日)周防国吉敷郡鋳銭司(すぜんじ)村字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として誕生。きょうだいは妹が2人。

最初は村田良庵、次は蔵六(ぞうろく)、後に大村益次郎と改名しています。
ここでは便宜上、大村益次郎でいきますね。

1-2、益次郎、各地の塾を渡り歩き、名門適塾の塾頭に

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By エドアルド・キヨッソーネ - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, Link

益次郎は町医者の息子で百姓身分のため、武士ならば藩校へ入れば済むところが身分制度が邪魔して入れなかったということ。
天保13年(1842年)、益次郎は、防府でシーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学んだ後、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田の広瀬淡窓の私塾咸宜園で1844年6月まで漢籍、算術、習字などを学習。同年、帰郷して梅田門下に復帰。

弘化3年(1846年)大坂の緒方洪庵の適塾に入塾。
適塾在籍中、長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭に。

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適塾とは
緒方洪庵が天保9年(1838年)大阪に開いた蘭学塾で、25年間に塾生およそ3千人が入門したということ。
現在の学校とは異なり、教える側と学ぶ側が互いに切磋琢磨する制度で研究をしていて、全員が純粋に必死になって学問修行に努めたせいで、緒方洪庵先生と塾生たちとの信頼関係は大変緊密となり、塾生たちは理解力と判断力をもつことを養ったそう。

門下生には、橋本左内をはじめ、大村益次郎、大鳥圭介、佐野常民、高松凌雲、福沢諭吉など歴史に名を残す偉業をなしとげた人材が輩出
文久3年(1863年)緒方洪庵が亡くなった後も、命日には元塾生が集まってくるほか、福沢諭吉らが恩師の記念日に同窓の親睦会を開いたということで、長与専斎や佐野常民など同門の人物はほとんど参加していたなど、在籍期間が同じでなくても適塾出身者としての交流が密だったようです。

適塾ではオランダ語と医学を教授、当時は蘭医になるための入塾がほとんどでしたが、洪庵先生の教育方針で、塾生は医学に限らず適材適所に知識を生かせばいいということだったということ。とにかくこの頃は、オランダ語が理解できる=オランダ語の本の翻訳ができる(ヨーロッパの色々な知識を持っている)人材というのが、ペリー来航以来重要になってきたことで、この後の大村益次郎が世に出るキーポイントに。

1-3、益次郎、帰郷して父の跡を継ぐ

緒方洪庵の適塾の塾頭となれば、各藩から300石で召し抱えに来るものなのですが、益次郎のときは時期が悪く声がかからなかったらしいです。これは決して益次郎が悪いわけではないということ。
嘉永3年(1850年)、父に帰って来いと言われて帰郷し、父の後を継いで村医に。翌年、隣村の農家高樹半兵衛の娘琴子と結婚。子供はなし。

1-4、開業医としての評判は

当時は大学も医学部もない時代なので、はやい話が看板を出しただけ、下男に薬箱を持たせて歩いただけで誰でも医師になれた時代。
益次郎は、もちろん町医者とはいえ祖父の代からの医師だし、あちこちの塾で蘭学と医学の知識を学びましたが、昔も今も開業医と言うのは患者さんとの信頼関係が基本。しかし色々な挿話を見るだけでも、アスペルガー症候群、高機能自閉症の疑い濃厚な人なので、簡単な時候の挨拶からして無理、「今日は暑いですね」「夏はこれくらいが当たり前です」と、会話がぷつんと途切れるわ、風邪をひいた患者さんが、葛根湯(意外と効くらしいが)をくれといっても、「葛根湯は効かないから出しません」の一点張りだったということ。

こんなお医者さんでは村での評判ガタ落ちで、とうとう患者さんが来なくなってしまい、心配した父がやってきて諭してもダメ、シーボルトの弟子に学び、適塾の塾頭という当時の蘭学では最先端の医学知識を持っていたのに、患者さんへの対応力ゼロ、また後に塾を開いたときにも、弟子に医師としては失格と太鼓判が。

\次のページで「2-1、蘭学者として宇和島へ」を解説!/

2-1、蘭学者として宇和島へ

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嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航、蘭学者の需要が高まる時代が到来。益次郎は、伊予宇和島藩要請で出仕。
これは司馬遼太郎著「花神」によれば、宇和島藩関係者から城下のシーボルト門人で有名な蘭学医の二宮敬作に要請→蘭学者つながりで緒方洪庵に手紙で相談→大村益次郎を推薦で、宇和島藩藩士大野昌三郎が長州の益次郎のところに来訪、益次郎、快諾して宇和島へということ。蘭学者のネットワークですね。

2-2、益次郎、砲台と蒸気船作りに

宇和島に到着した益次郎は、宇和島藩で西洋兵学、蘭学の講義と翻訳を任され、宇和島城北部に樺崎砲台を作りました。
そして安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)にかけては、長崎で軍艦製造を研究。宇和島では提灯屋の嘉蔵(後の前原巧山)とともに洋式軍艦の雛形を製造。わずかな差で国産初ではなく国産第1号は薩摩藩ですが、益次郎はこの身分が低く無学だが、ものすごく器用で職人肌の嘉蔵の才能に、ヨーロッパに生まれていれば大学教授になっていたろうとびっくり。
「花神」によれば、じつはこの蒸気船製造は、宇和島藩主伊達宗城が、薩摩藩主の島津斉彬と佐賀藩主鍋島閑叟(かんそう)とペリーの黒船と同様の蒸気船を国産で作る競争をしていたという話。出来上がった蒸気船に試乗した伊達宗城は、ペリー来航からわずか3年で同じものが出来たことに感動したそう。
この頃、益次郎は村田蔵六(蔵六は亀の意)と改名。

2-3、江戸に出て私塾鳩居堂を開塾し、あちこちで引っ張りだこに

益次郎は、安政3年(1856年)4月、宇和島藩主伊達宗城の参勤に従い江戸へ。
同年11月1日、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾、蘭学、兵学、医学を教授し、宇和島藩御雇はそのままで、幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書や洋書翻訳のほかに、兵学講義、オランダ語などを講義。

翌年には幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を教授と、専門書の原書の難しい翻訳などもわかりやすく翻訳するため評価が高く、他の藩からの翻訳も頼まれたりと、いくら時間があっても足りないほどの忙しさだったそう。

2-4、大村益次郎、桂小五郎と出会う

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By mariemon - mariemon撮影 著作者自身による撮影, CC 表示 3.0, Link

益次郎は、江戸では蘭学者の間で優秀さが評判になり、蘭学者繋がりで幕府の蕃書調所に務めるまでになりましたが、故郷の長州藩からはコンタクトなし。

以下、「花神」によると、益次郎はこのまま幕臣になるよりも、やはり故郷の長州藩に認められたかったらしく、安政5年に父の病でいったん長州に帰ったとき、萩まで桂小五郎(後の木戸孝允)に会いに行き、桂も長州出身者が幕府の蕃書調所の教授になっていること、益次郎本人の変わり者ぶりにも感銘を受けたということ。
益次郎が江戸へ帰った後も、桂は四方八方に益次郎のことを手紙に書き、益次郎は長州藩上屋敷で青木周弼や東条英庵が行っていた蘭書会読会で、兵学書の講義をすることに。

この頃、世の中は安政の大獄の真っ最中でした。ある日、桂は、師で刑死した吉田松陰の遺体を受け取り埋葬に向かう途中、小塚原刑場で、死体解剖の真っ最中の益次郎に再会。

桂はこの出会いを吉田松陰が導いた運命のように感じたということ。
ということで、この後の益次郎の長州での活躍は、すべて桂が関わることに
また益次郎は、文久2年(1862年)、これからは英語だということで、ヘボンに英語と数学を学んだということ。江戸滞在時には箕作阮甫、大槻俊斎、桂川甫周、福澤諭吉、大鳥圭介といった適塾同窓生関連の蘭学者、洋学者と付き合いも。

3-1、益次郎、長州へ帰り兵学などを教え、軍備関係の仕事も

文久3年(1863年)10月、益次郎は長州へ帰り、手当防御事務用掛に任命され、翌年、兵学校教授役に。長州藩の山口明倫館での西洋兵学の講義、鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、軍備関係の仕事を。

その一方で語学力を買われて四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛として下関に出張なども。外国艦隊退去後、政務座役事務掛として軍事関係に復帰し、明倫館廃止後に博習堂用掛兼赤間関応接掛に任命。

慶応元年(1865年)、益次郎は藩の軍艦壬戌丸売却のため、秘密裏に上海へ。当時は国禁を犯したということで、公式文書はなく、益次郎本人のメモがあるものの、明治後も本人は否定、仔細は不明のまま。

3-2、奇兵隊の指導も

幕府の第二次長州征伐に備えて、高杉晋作らは西洋式兵制を採用した奇兵隊を創設、長州藩の軍制改革に着手し、益次郎に指導を要請。

このとき、桂小五郎の推挙で、益次郎は馬廻役譜代100石取の上士身分となったので、それらしく大村益次郎永敏と改名
このころ、益次郎は明倫館や宿舎の普門寺で西洋兵学を教授、オランダの兵学者クノープの西洋兵術書「兵家須知戦闘術門」を翻訳刊行、またその内容を実戦に役立つようにわかりやすくした的確なテキストを作成したということ。

3-3、第二次長州征伐に

慶応2年(1866年)、幕府による第二次長州征伐が決定。長州では桂小五郎は5月に藩の指導権を握り、益次郎、晋作、伊藤博文、井上聞多(のち井上馨)らと幕府との全面戦争への体制固めに。尚、益次郎は3月に兵学校御用掛兼御手当御用掛として明倫館で兵学教授を開始後、5月に近代軍建設の責任者となって、閏5月に大組御譜代に昇格して名実共に藩士に。

益次郎は、この頃からすでに藩の武士階級だけでなく、農民、町人階級から組織した市民軍の組織体系確立の構想があったということ
幕府軍が攻めてくる現在これが急務となり、藩はその給与を負担したうえに、兵士の基本的訓練を決行すべしと述べ、1600人の16歳~25歳までの農商階級の兵士を編成。そして旧来の藩士の再編を断行、石高に合わせた隊にして効率のよい機動性を持たせた軍隊にし、隊の指揮官を普門塾に集め、戦術を徹底的に教授。

また青木群平を長崎に派遣し、最新のライフル銃であるミニエー銃を購購入させようとするがうまくいかず、桂が坂本龍馬を介して伊藤博文と井上馨を長崎のイギリス商人グラバーと交渉させ、薩摩藩の協力もあってミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を購入。

3-4、益次郎、実戦の指揮を執る

慶応2年(1866年)6月に対幕府軍との戦闘が開始、益次郎は石州口方面の実戦指揮を担当。益次郎の戦術は最新の武器と巧妙な用兵術に加え、無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘って攻撃を加えるという合理的なもの。これは旧態依然の幕府側をことごとく撃破、長州藩の蘭学者青木周弼は「その才知、鬼の如し」と語ったそう、
他の戦線でも長州藩は優勢に戦いを進め、事実上の長州藩勝利のもとに、将軍家茂の死去で停戦に。 益次郎は征討終了後は海軍用掛を兼務して海軍頭取前原彦太郎(のちの前原一誠)を補佐。

\次のページで「3-5、戊辰戦争へ」を解説!/

3-5、戊辰戦争へ

慶応3年(1867年)、討幕と王政復古を目指し西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩側から長州藩に働きかけがされ、討幕か否かに意見が分かれたが、益次郎は禁門の変や下関戦争の失敗で、薩摩の動きには用心すべきという考えを持っていて、慎重論を。しかし藩内の世論は出兵論に傾いたので、益次郎は掛助役に左遷されて、出兵の実務に携わったということ。

益次郎は、明治元年(1868年)鳥羽・伏見の戦いを受けて毛利広封が京へ進撃に随行し、用所本役軍務専任になり、京都へ。このときに新政府軍の江戸攻撃案を作成。

3-6、益次郎、江戸へ下向

明治元年(1868年)4月、西郷と勝海舟による江戸城無血開城。しかし旧幕府方の残党が東日本各地で反抗を続けており、情勢は依然として流動的なので、益次郎は有栖川宮東征大総督府補佐として江戸に下向。21日には海路で江戸に到着、軍務官判事、江戸府判事を兼任。

3-7、彰義隊を一日で鎮圧して一躍注目される

このころ江戸は、天野八郎ら旧幕府残党による彰義隊約3千名が上野寛永寺に構え不穏な動きを。西郷や勝海舟らもこれを抑えきれず、江戸中心部は半ば無法地帯に。

新政府は益次郎の手腕に期待、益次郎は、目黒の火薬庫を処分、兵器調達のために江戸城内の宝物を売却し、奥州討伐の増援部隊派遣の段取りを図るなど、てきぱきと処理。5月には外国官判事大隈重信の意見を受けて、幕府が注文した軍艦ストーンウォール購入費用25万両を討伐費に充てたということ。
5月1日には江戸市中の治安維持の権限を勝から委譲され江戸府知事兼任となって江戸市中の全警察権を取得。

益次郎は討伐軍を指揮し、5月15日わずか1日で上野の彰義隊を鎮圧し、大村益次郎の名が知れ渡りました。

3-8、益次郎、薩摩の海江田信義らと対立

益次郎は、金銭感覚もバッチリで合理的に計算して処理しましたが、合理的過ぎる処置とコミュニケーション障害が薩摩の連中の神経を逆なですることになり、後々に遺恨を。

上野戦争についての軍議で、薩摩の海江田信義と対立。海江田の発言に対して益次郎が「君はいくさを知らぬ」の一言に、海江田信義が尋常ではない怒りを見せ、後に海江田による大村益次郎暗殺関与説の根拠となり、益次郎も以前からの西郷や薩摩藩士の不信感を募らせたよう。

3-9、事実上の新政府軍総司令官に

明治2年(1869年)6月4日、益次郎は、鎮台府の民政会計を兼任、従四位に。関東北部での旧幕府残党勢力を鎮圧、江戸から事実上の新政府軍総司令官となりました。

しかし白河方面の作戦を巡って益次郎は西郷と対立、以降益次郎単独での作戦指導することに。そして函館五稜郭で榎本武揚らの最後の旧幕府残党軍も降伏して戊辰戦争は終結。このとき益次郎は、適塾の後輩の大鳥圭介の減刑助命に奔走。

3-10、兵制論争

明治2年(1869年)6月2日、益次郎は、戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通と並び新政府の幹部に。
10月24日、軍務官副知事に就任、益次郎は軍制改革の中心を担い、明治2年(1869年)6月には政府の兵制会議で大久保らと旧征討軍の処理と中央軍隊の建設方法について論争を展開。

益次郎は、武士階級である藩兵に依拠しない政府直属軍隊の創設を唱え、大久保利通らは、鹿児島(薩摩)、山口(長州)、高知(土佐)の武士階級の藩兵を主体にした中央軍隊を編成しようとして、激論に。
益次郎は、百姓身分の出身であるせいか、武士階級を嫌い、諸藩の廃止、廃刀令、徴兵制、鎮台、兵学校設置での職業軍人の育成など、後の日本の軍隊の青写真を描いていたということで、武士階級を残したい勢力と対立したわけですね。

3-11、益次郎、西南戦争を予測

益次郎は、この明治維新が成立したばかりのときに、すでに西南戦争が起こることを予測し、そのための準備をしていたということ。

まず、3年のうちに現在の藩兵を基に軍の基礎を完成させ、次に大阪に軍の基地を作って兵学校や武器工場を置くという組織作りを行った後、徴兵制度を起こして鎮台制を置こうとしていたそう。大阪に軍の中心を置くというのも、日本のほぼ中心にあり、また薩摩を警戒してのことなんですね。

3-11、益次郎、暗殺される

明治2年(1869年)、益次郎は軍事施設視察と建設予定地の下見のため、京阪方面に出張。この頃、京都で弾正台支所長官となっていた例の薩摩の海江田信義が益次郎に対しての遺恨を晴らそうと、益次郎暗殺の煽動をしているという風説があるほど不穏な情勢だったので、心配性の桂小五郎改め木戸孝允は、益次郎の京都大阪行きを反対したが、益次郎は意に介せず、中山道から京都へ。

益次郎は伏見練兵場の検閲、宇治の弾薬庫予定地検分、大阪城内の軍事施設視察、天保山の海軍基地を検分、そして9月4日夕刻、益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われ、静間と安達は死亡、益次郎も重傷を。

益次郎は一命をとりとめ、大阪の病院に転送されたが、その時の疵がもとで、11月1日、敗血症で45歳で死亡。
益次郎は、臨終の際に、「四斤砲をたくさん作っておけ」と船越衛に後事を託したということ。

\次のページで「4-1、大村益次郎の逸話」を解説!/

4-1、大村益次郎の逸話

天才的で秀才肌の人ですが、色々な逸話があります。

4-2、豆腐と骨董品が好き

適塾時代でも豆腐を肴にひとりでお銚子2本の酒を飲むのが好きだったということで、料亭で芸者さんを呼んでどんちゃん騒ぎという宴会は大嫌い、益次郎と飲んでいても全然酒がうまくなかったと言われたそう。

また、骨董品、特に掛け軸が好きなのに、1両以上の値段のものは決して買わないと決めていたということ。

4-3、火吹き達磨と仇名される

この仇名は高杉晋作か周布政之助が付けたと言われていますが、益次郎は自分の風貌を嫌っていたらしくて写真は一枚も存在せず。

4-4、兵士のための細かい気配りが

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By 大熊氏廣 - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, Link

益次郎は、戊辰戦争時、奥州北陸に遠征する兵士の食事について、「兵食というものは、まことに粗末なもので、兵士が頼りにするのは米ばかり」と、絶えず米糧のチェックを行ったとか、明治2年(1868年)6月、益次郎は、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(現在の靖国神社)の建立を献策、欧米の無名戦士の墓を参考にしたのかもしれないですが、意外なほど気配りが出来るところもあったのですね。

4-5、名言

司馬遼太郎氏によれば、益次郎が、頼まれてオランダ語の兵学書などを読んで翻訳し、講義したりするだけで内容を把握し実戦に役立てて戦争に勝ったのは、天性の勘を持っていたからだということで、「戦術を知っていても、戦略を知らないものはついに国家をあやまつ」という驚くべき先覚的な名言を。

4-6、楠本イネとの関係

益次郎は、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが日本に残した娘、楠本イネを、シーボルトの弟子の二宮敬作に紹介されて蘭学を教え、その後も医学を巡って交流あり。このイネさんとのほのかな恋愛のような関係が、正直言って合理的で人間味がないといってもいい大村益次郎の唯一のほのぼのした逸話かも。
イネさんは、益次郎が凶刃に倒れたとき、当時開業していた横浜から大阪まで駆けつけて最期まで看病したと言われています。

時代の変革期にあらわれた技術者

大村益次郎は、ペリー来航前から蘭学を勉強、村のお医者さんとして一生を終わるはずが、ペリー来航後、オランダ語が読めるために、それも非常に優秀で合理的な頭脳を持ち、わかりやすく教えられるために重用されました。

兵学書の翻訳、講義も頼まれたが、なぜか本を読んだだけで自分で兵隊を動かして戦争に勝つ能力を発揮して戊辰戦争に貢献、そのうえに新政府の新しい軍制度、長年続いた武士制度にこだわらずに軍を作る構想を持ち、西南戦争の予想までしていたという、天才としか思えない人でした。

しかし抜群の合理的な考えと実行力は役に立っても、相手の立場を考えないコミュニケーション障害のせいで恨みを買って暗殺されてしまい、司馬遼太郎のいわゆる革命の完成人として登場し去ったとしているような気がします。

" /> 蘭学者にして日本の軍隊の創始者「大村益次郎」について歴女がとことんわかりやすく解説 – Study-Z
幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

蘭学者にして日本の軍隊の創始者「大村益次郎」について歴女がとことんわかりやすく解説

今回は大村益次郎を取り上げるぞ。適塾の塾頭で蘭学医だったはずなのに、なんで陸軍創始者になって靖国神社に銅像が立ってるんでしょうな、

その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、薩摩長州幕府側に限らず誰にでも興味津々、例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大村益次郎について5分でわかるようにまとめた。

1-1、大村益次郎は、長州の町医者の息子

大村益次郎は、文政7年5月3日(1824年5月30日)周防国吉敷郡鋳銭司(すぜんじ)村字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として誕生。きょうだいは妹が2人。

最初は村田良庵、次は蔵六(ぞうろく)、後に大村益次郎と改名しています。
ここでは便宜上、大村益次郎でいきますね。

1-2、益次郎、各地の塾を渡り歩き、名門適塾の塾頭に

Masujiro Omura cropped.jpg
By エドアルド・キヨッソーネ – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, Link

益次郎は町医者の息子で百姓身分のため、武士ならば藩校へ入れば済むところが身分制度が邪魔して入れなかったということ。
天保13年(1842年)、益次郎は、防府でシーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学んだ後、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田の広瀬淡窓の私塾咸宜園で1844年6月まで漢籍、算術、習字などを学習。同年、帰郷して梅田門下に復帰。

弘化3年(1846年)大坂の緒方洪庵の適塾に入塾。
適塾在籍中、長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭に。

適塾とは
緒方洪庵が天保9年(1838年)大阪に開いた蘭学塾で、25年間に塾生およそ3千人が入門したということ。
現在の学校とは異なり、教える側と学ぶ側が互いに切磋琢磨する制度で研究をしていて、全員が純粋に必死になって学問修行に努めたせいで、緒方洪庵先生と塾生たちとの信頼関係は大変緊密となり、塾生たちは理解力と判断力をもつことを養ったそう。

門下生には、橋本左内をはじめ、大村益次郎、大鳥圭介、佐野常民、高松凌雲、福沢諭吉など歴史に名を残す偉業をなしとげた人材が輩出
文久3年(1863年)緒方洪庵が亡くなった後も、命日には元塾生が集まってくるほか、福沢諭吉らが恩師の記念日に同窓の親睦会を開いたということで、長与専斎や佐野常民など同門の人物はほとんど参加していたなど、在籍期間が同じでなくても適塾出身者としての交流が密だったようです。

適塾ではオランダ語と医学を教授、当時は蘭医になるための入塾がほとんどでしたが、洪庵先生の教育方針で、塾生は医学に限らず適材適所に知識を生かせばいいということだったということ。とにかくこの頃は、オランダ語が理解できる=オランダ語の本の翻訳ができる(ヨーロッパの色々な知識を持っている)人材というのが、ペリー来航以来重要になってきたことで、この後の大村益次郎が世に出るキーポイントに。

1-3、益次郎、帰郷して父の跡を継ぐ

緒方洪庵の適塾の塾頭となれば、各藩から300石で召し抱えに来るものなのですが、益次郎のときは時期が悪く声がかからなかったらしいです。これは決して益次郎が悪いわけではないということ。
嘉永3年(1850年)、父に帰って来いと言われて帰郷し、父の後を継いで村医に。翌年、隣村の農家高樹半兵衛の娘琴子と結婚。子供はなし。

1-4、開業医としての評判は

当時は大学も医学部もない時代なので、はやい話が看板を出しただけ、下男に薬箱を持たせて歩いただけで誰でも医師になれた時代。
益次郎は、もちろん町医者とはいえ祖父の代からの医師だし、あちこちの塾で蘭学と医学の知識を学びましたが、昔も今も開業医と言うのは患者さんとの信頼関係が基本。しかし色々な挿話を見るだけでも、アスペルガー症候群、高機能自閉症の疑い濃厚な人なので、簡単な時候の挨拶からして無理、「今日は暑いですね」「夏はこれくらいが当たり前です」と、会話がぷつんと途切れるわ、風邪をひいた患者さんが、葛根湯(意外と効くらしいが)をくれといっても、「葛根湯は効かないから出しません」の一点張りだったということ。

こんなお医者さんでは村での評判ガタ落ちで、とうとう患者さんが来なくなってしまい、心配した父がやってきて諭してもダメ、シーボルトの弟子に学び、適塾の塾頭という当時の蘭学では最先端の医学知識を持っていたのに、患者さんへの対応力ゼロ、また後に塾を開いたときにも、弟子に医師としては失格と太鼓判が。

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