幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

蘭学者にして日本の軍隊の創始者「大村益次郎」について歴女がとことん解説

よぉ、桜木健二だ、今回は大村益次郎を取り上げるぞ。適塾の塾頭で蘭学医だったはずなのに、なんで陸軍創始者になって靖国神社に銅像が立ってるんだろうな、

その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、薩摩長州幕府側に限らず誰にでも興味津々、例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大村益次郎について5分でわかるようにまとめた。

1-1、大村益次郎は、長州の町医者の息子

大村益次郎は、文政7年5月3日(1824年5月30日)周防国吉敷郡鋳銭司(すぜんじ)村字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として誕生。きょうだいは妹が2人。

最初は村田良庵、次は蔵六(ぞうろく)、後に大村益次郎と改名しています。
ここでは便宜上、大村益次郎でいきますね。

1-2、益次郎、各地の塾を渡り歩き、名門適塾の塾頭に

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By エドアルド・キヨッソーネ – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, Link

益次郎は町医者の息子で百姓身分のため、武士ならば藩校へ入れば済むところが身分制度が邪魔して入れなかったということ。
天保13年(1842年)、益次郎は、防府でシーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学んだ後、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田の広瀬淡窓の私塾咸宜園で1844年6月まで漢籍、算術、習字などを学習。同年、帰郷して梅田門下に復帰。

弘化3年(1846年)大坂の緒方洪庵の適塾に入塾。
適塾在籍中、長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭に。

適塾とは
緒方洪庵が天保9年(1838年)大阪に開いた蘭学塾で、25年間に塾生およそ3千人が入門したということ。
現在の学校とは異なり、教える側と学ぶ側が互いに切磋琢磨する制度で研究をしていて、全員が純粋に必死になって学問修行に努めたせいで、緒方洪庵先生と塾生たちとの信頼関係は大変緊密となり、塾生たちは理解力と判断力をもつことを養ったそう。

門下生には、橋本左内をはじめ、大村益次郎、大鳥圭介、佐野常民、高松凌雲、福沢諭吉など歴史に名を残す偉業をなしとげた人材が輩出
文久3年(1863年)緒方洪庵が亡くなった後も、命日には元塾生が集まってくるほか、福沢諭吉らが恩師の記念日に同窓の親睦会を開いたということで、長与専斎や佐野常民など同門の人物はほとんど参加していたなど、在籍期間が同じでなくても適塾出身者としての交流が密だったようです。

適塾ではオランダ語と医学を教授、当時は蘭医になるための入塾がほとんどでしたが、洪庵先生の教育方針で、塾生は医学に限らず適材適所に知識を生かせばいいということだったということ。とにかくこの頃は、オランダ語が理解できる=オランダ語の本の翻訳ができる(ヨーロッパの色々な知識を持っている)人材というのが、ペリー来航以来重要になってきたことで、この後の大村益次郎が世に出るキーポイントに。

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うむ、適塾の塾生はみんな、凄まじい勉強をしたそうだな。まったく、すごい人材が出たもんだ。

1-3、益次郎、帰郷して父の跡を継ぐ

緒方洪庵の適塾の塾頭となれば、各藩から300石で召し抱えに来るものなのですが、益次郎のときは時期が悪く声がかからなかったらしいです。これは決して益次郎が悪いわけではないということ。
嘉永3年(1850年)、父に帰って来いと言われて帰郷し、父の後を継いで村医に。翌年、隣村の農家高樹半兵衛の娘琴子と結婚。子供はなし。

1-4、開業医としての評判は

当時は大学も医学部もない時代なので、はやい話が看板を出しただけ、下男に薬箱を持たせて歩いただけで誰でも医師になれた時代。
益次郎は、もちろん町医者とはいえ祖父の代からの医師だし、あちこちの塾で蘭学と医学の知識を学びましたが、昔も今も開業医と言うのは患者さんとの信頼関係が基本。しかし色々な挿話を見るだけでも、アスペルガー症候群、高機能自閉症の疑い濃厚な人なので、簡単な時候の挨拶からして無理、「今日は暑いですね」「夏はこれくらいが当たり前です」と、会話がぷつんと途切れるわ、風邪をひいた患者さんが、葛根湯(意外と効くらしいが)をくれといっても、「葛根湯は効かないから出しません」の一点張りだったということ。

こんなお医者さんでは村での評判ガタ落ちで、とうとう患者さんが来なくなってしまい、心配した父がやってきて諭してもダメ、シーボルトの弟子に学び、適塾の塾頭という当時の蘭学では最先端の医学知識を持っていたのに、患者さんへの対応力ゼロ、また後に塾を開いたときにも、弟子に医師としては失格と太鼓判が。

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うむ、たしかに病人は気が弱くなっているからな、いくら天才でも益次郎みたいな医者には掛かりたくないぞ。

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