その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、大村益次郎は、長州の町医者の息子
- 1-2、益次郎、各地の塾を渡り歩き、名門適塾の塾頭に
- 1-3、益次郎、帰郷して父の跡を継ぐ
- 1-4、開業医としての評判は
- 2-1、蘭学者として宇和島へ
- 2-2、益次郎、砲台と蒸気船作りに
- 2-3、江戸に出て私塾鳩居堂を開塾し、あちこちで引っ張りだこに
- 2-4、大村益次郎、桂小五郎と出会う
- 3-1、益次郎、長州へ帰り兵学などを教え、軍備関係の仕事も
- 3-2、奇兵隊の指導も
- 3-3、第二次長州征伐に
- 3-4、益次郎、実戦の指揮を執る
- 3-5、戊辰戦争へ
- 3-6、益次郎、江戸へ下向
- 3-7、彰義隊を一日で鎮圧して一躍注目される
- 3-8、益次郎、薩摩の海江田信義らと対立
- 3-9、事実上の新政府軍総司令官に
- 3-10、兵制論争
- 3-11、益次郎、西南戦争を予測
- 3-11、益次郎、暗殺される
- 4-1、大村益次郎の逸話
- 4-2、豆腐と骨董品が好き
- 4-3、火吹き達磨と仇名される
- 4-4、兵士のための細かい気配りが
- 4-5、名言
- 4-6、楠本イネとの関係
- 時代の変革期にあらわれた技術者
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、薩摩長州幕府側に限らず誰にでも興味津々、例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大村益次郎について5分でわかるようにまとめた。
1-1、大村益次郎は、長州の町医者の息子
大村益次郎は、文政7年5月3日(1824年5月30日)周防国吉敷郡鋳銭司(すぜんじ)村字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として誕生。きょうだいは妹が2人。
最初は村田良庵、次は蔵六(ぞうろく)、後に大村益次郎と改名しています。
ここでは便宜上、大村益次郎でいきますね。
1-2、益次郎、各地の塾を渡り歩き、名門適塾の塾頭に
By エドアルド・キヨッソーネ – この画像は国立国会図書館のウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, Link
益次郎は町医者の息子で百姓身分のため、武士ならば藩校へ入れば済むところが身分制度が邪魔して入れなかったということ。
天保13年(1842年)、益次郎は、防府でシーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学んだ後、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田の広瀬淡窓の私塾咸宜園で1844年6月まで漢籍、算術、習字などを学習。同年、帰郷して梅田門下に復帰。
弘化3年(1846年)大坂の緒方洪庵の適塾に入塾。
適塾在籍中、長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭に。
By by Reggaeman – photo by Reggaeman, CC 表示-継承 3.0, Link
適塾とは
緒方洪庵が天保9年(1838年)大阪に開いた蘭学塾で、25年間に塾生およそ3千人が入門したということ。
現在の学校とは異なり、教える側と学ぶ側が互いに切磋琢磨する制度で研究をしていて、全員が純粋に必死になって学問修行に努めたせいで、緒方洪庵先生と塾生たちとの信頼関係は大変緊密となり、塾生たちは理解力と判断力をもつことを養ったそう。
門下生には、橋本左内をはじめ、大村益次郎、大鳥圭介、佐野常民、高松凌雲、福沢諭吉など歴史に名を残す偉業をなしとげた人材が輩出。
文久3年(1863年)緒方洪庵が亡くなった後も、命日には元塾生が集まってくるほか、福沢諭吉らが恩師の記念日に同窓の親睦会を開いたということで、長与専斎や佐野常民など同門の人物はほとんど参加していたなど、在籍期間が同じでなくても適塾出身者としての交流が密だったようです。
適塾ではオランダ語と医学を教授、当時は蘭医になるための入塾がほとんどでしたが、洪庵先生の教育方針で、塾生は医学に限らず適材適所に知識を生かせばいいということだったということ。とにかくこの頃は、オランダ語が理解できる=オランダ語の本の翻訳ができる(ヨーロッパの色々な知識を持っている)人材というのが、ペリー来航以来重要になってきたことで、この後の大村益次郎が世に出るキーポイントに。
1-3、益次郎、帰郷して父の跡を継ぐ
緒方洪庵の適塾の塾頭となれば、各藩から300石で召し抱えに来るものなのですが、益次郎のときは時期が悪く声がかからなかったらしいです。これは決して益次郎が悪いわけではないということ。
嘉永3年(1850年)、父に帰って来いと言われて帰郷し、父の後を継いで村医に。翌年、隣村の農家高樹半兵衛の娘琴子と結婚。子供はなし。
1-4、開業医としての評判は
当時は大学も医学部もない時代なので、はやい話が看板を出しただけ、下男に薬箱を持たせて歩いただけで誰でも医師になれた時代。
益次郎は、もちろん町医者とはいえ祖父の代からの医師だし、あちこちの塾で蘭学と医学の知識を学びましたが、昔も今も開業医と言うのは患者さんとの信頼関係が基本。しかし色々な挿話を見るだけでも、アスペルガー症候群、高機能自閉症の疑い濃厚な人なので、簡単な時候の挨拶からして無理、「今日は暑いですね」「夏はこれくらいが当たり前です」と、会話がぷつんと途切れるわ、風邪をひいた患者さんが、葛根湯(意外と効くらしいが)をくれといっても、「葛根湯は効かないから出しません」の一点張りだったということ。
こんなお医者さんでは村での評判ガタ落ちで、とうとう患者さんが来なくなってしまい、心配した父がやってきて諭してもダメ、シーボルトの弟子に学び、適塾の塾頭という当時の蘭学では最先端の医学知識を持っていたのに、患者さんへの対応力ゼロ、また後に塾を開いたときにも、弟子に医師としては失格と太鼓判が。
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