今日は大阪夏の陣について勉強していきます。豊臣秀吉の死後、天下統一を果たしたのは徳川家康ですが、豊臣秀吉が死去しても豊臣家が滅びたわけではない。

では徳川家康の天下統一後、豊臣家はどうなったのでしょうか?…その謎が解けるのが大阪夏の陣であり、豊臣家の行く末が分かるでしょう。今回は大阪夏の陣について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大阪夏の陣をわかりやすくまとめた。

徳川家と豊臣家の共存

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政治の実権を握った徳川家康

大阪夏の陣は1615年に起こりましたが、前年の1614年には大阪冬の陣が起こっており、これら2つをまとめて大阪の陣、もしくは大阪の役と呼びます。今回のテーマは大坂夏の陣ですが、冬の陣まで遡って大阪の陣全体が理解できるように分かりやすく解説していきますね。

豊臣秀吉の死後、豊臣政権では五大老の1人だった徳川家康が力を持つようになりました。そして1600年、徳川家康が石田三成を破って天下統一の第一歩となったのがかの有名な関ヶ原の戦いであり、戦後の処理を行うなどして徳川家康は政治の実権を握ります。

この時、豊臣家の領地は以前の1/4まで減らされてしまいますが、豊臣秀吉の功績によって豊臣家の権力が強かったことに変わりありません。さて、1603年に征夷大将軍に就任した徳川家康はこれをきっかけに本格的な政権作りを開始、これが江戸幕府であり、こうして徳川家と豊臣家の2大権力が共存する状態になりました。

未だ強い権力を持つ豊臣家

天下統一を実現したい徳川家康にとって、豊臣家は邪魔な存在でした。豊臣体制ではまだ幼い豊臣秀瀬が後継者となりましたが、徳川家康はあくまでその後見的立場です。しかし、徳川家康もまた江戸幕府の初代将軍に就任したことで豊臣家に近い権力を手にしており、その地位を不動のものとするには同等権力を持つ豊臣家がどうしても邪魔でした。

そこで徳川家康は豊臣家を服従させ、それを拒否された時には滅ぼしてしまおうと考えます。最も、あくまでそれは徳川家康の秘めた考えの1つでしかありませんでしたが、その考えが決意に変わった瞬間が1611年の二条城での徳川家康と豊臣秀頼の会見で、立派に成長した豊臣秀頼の姿に徳川家康は危機感を持ったのでしょう。

そんな中、1614年に大きな事件が起こります。豊臣秀吉の17回忌にあたるその日、京都方広寺で大仏の開眼供養が実施される予定になっていました。しかし、そこの梵鐘の銘文として書かれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字に徳川家康が激怒、これは豊臣家の「豊臣」が並んでいるのに対して、徳川家康の「家康」の文字が引き裂かれていたためです。

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大阪冬の陣の勃発

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豊臣家と戦う口実を作った徳川家康

1614年の方広寺鐘銘事件……「国家安康」の文字に対して、徳川家康は「家康」の文字を引き裂いた呪いだと激怒します。それが本当に呪いを意味するものだったのかは定かではないですが、この際それはどちらであろうと関係なく、ただ1つ言えるのはそれが徳川家康にとって豊臣家と戦う理由になったことです。

戦うためには兵力を集める必要があり、兵力を集めるためにはそれなりの理由が必要でしょう。その意味では、方広寺鐘銘事件は徳川家康にとって豊臣家と戦う口実ができたことになり、徳川家康は兵力を集めて豊臣家の大阪城に向かって進軍、豊臣家も諸大名などを集めて戦いに備えます。

こうして同年……つまり1614年に徳川軍と豊臣軍による衝突が起こり、これが大阪冬の陣と呼ばれる戦いです。豊臣軍の兵力約10万に対して徳川軍の兵力は約20万~50万ともされており、数で圧倒した徳川軍が明らかに有利な状況でした。ただ、豊臣軍も健闘を見せます。

大阪冬の陣・講和という形での決着

大阪冬の陣は文字どおり大坂城の攻防戦がメインとなっており、そのための戦いが各地で起こりました。作戦として籠城戦を選択した豊臣軍は大坂城の周辺に多くのを築き、また徳川軍はその砦を落とそうと攻め込みます。そして、これらの各砦の戦いは徳川軍が勝利しました。

いずれの砦においても敗北した豊臣軍は大坂城まで撤退、それを追い込む徳川軍は大坂城を完全に包囲して、大坂城の南に構築した出城・真田丸にて真田丸の戦いが始まります。いよいよ豊臣軍を追い詰めた徳川軍でしたが、ここで見事な戦略を立てた豊臣軍は徳川軍を追い払うことに成功しました。

それでも諦めない徳川軍は大坂城への包囲と攻撃を続けますが、戦いの季節が冬であること、兵糧が不足したことなどから豊臣軍に対してついには和平を提案したのです。こうして講和(取り決めを結んで戦争を止めて平和を回復すること)に向けた話し合いが進み、大阪冬の陣は豊臣家も徳川家も残る形で決着がついたのでした。

講和成立後の不穏な動き

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\次のページで「講和後の交渉決裂」を解説!/

講和後の交渉決裂

大阪冬の陣は、和平という一見平和に思える解決の仕方をしたものの、本当にお互いが共存を認めたわけではありません。交渉が成立した後も互いに戦争の準備を行っており、例えば大砲の製造の依頼なども行っていました。また、講和交渉での取り決めも互いに無視しており、豊臣家と徳川家の両者には不穏な空気が流れていたのです。

そんな中、豊臣家では牢人達の処遇に関する問題が発生します。大阪冬の陣では大坂城に多くの牢人がいましたが、牢人は仕官にもなれないため大阪を出ても生活できず、そのため大坂城に住み続けていました。豊臣秀頼は大坂城で戦った牢人を見捨てられず、金銀の支給や新たな牢人の受け入れも認めていたのです。

一方、大阪で騒ぎを起こす牢人達を認めるつもりがない徳川家康、そこで徳川家康は豊臣秀頼に対して牢人の解雇・大坂城からの退去を要求します。これに反対する豊臣家、この交渉決裂が原因によって両者は再び衝突、今度こそ決着をつけるべく1615年に大阪夏の陣が起こりました。

堀の埋め立てで防御機能を失った大坂城

豊臣家と徳川家が和平条約を結ぶ際、次の条件が出されました。「豊臣の牢人衆たちは不問にする」「豊臣秀頼の本領を安堵とする」「豊臣秀頼の身の安全を保証する」「淀殿の人質としての江戸在住は不要とする」「大阪城を開城すれば望む国を与える」「大阪城惣構・二の丸・三の丸の破却と堀の埋立てをする」の6つです。

大阪夏の陣の勃発はこのうちの牢人の件の衝突が原因ですが、6つ目の条件となる大阪城の堀の埋め立ては大阪夏の陣に大きな影響を与えることになりました。堀の埋め立ては和平が結ばれた後に早速工事が始まり、冬の間に早くもその工事は完了します。

堀を埋め立てたことで大阪城は大きく変化、防御機能を失ったことから豊臣軍は大阪冬の陣のような戦略はとれなくなってしまったのです。このため、大阪夏の陣では豊臣軍は城外で戦うしか術がなく、兵の数で不利な豊臣軍が徳川軍に勝利するのは難しくなるのでした。

大阪夏の陣の勃発

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追い詰められた豊臣軍

1615年、大阪冬の陣の再戦とも言える大阪夏の陣が勃発します。豊臣軍は武将・大野治房が大和群山城を落とすとその付近の村に放火、徳川軍の基地までも焼き討ちしました。さらに、一揆勢を味方にして紀伊半島方面へと突き進むものの、徳川軍の浅野長晟の軍勢に返り討ちにされて敗退します。

さらに道明寺周辺で起こった道明寺の戦いでも豊臣軍は敗北、寄せ集めの兵だったことから充分な連携が行われず、また濃霧の影響で戦いが不利になったともされており、ここでもまた豊臣軍の主力の武将が戦死しました。城外でしか戦えない豊臣軍は、こうして徳川軍に追い詰められていきます。

窮地に立たされた豊臣軍が勝利するには、もはや敵の大将である徳川家康を討つしかありません。そこで大阪冬の陣の英雄、真田幸村が徳川軍の本陣……つまり、徳川家康に向かって突撃していきます。この時、徳川家康は切腹を覚悟したほど追い詰められたとされており、徳川軍の体制を崩すことに成功しました。

大阪夏の陣・豊臣軍の滅亡

真田幸村は何度も徳川軍の本陣に突撃を繰り返すものの、味方が崩れてしまったことから豊臣軍は再び窮地に陥ります。もはや反撃するのは難しく、勝利を諦めた豊臣軍の戦意は喪失、中には逃亡や裏切りを行う者まで出てしまい、軍の統率は完全に取れなくなってしまいました。

善戦していた真田幸村もついに疲労、満身創痍の果てに討ち取られてしまいます。これで豊臣軍の勝機はなくなり、豊臣秀頼の妻は夫……つまり豊臣秀頼の助命を懇願しますがそれも受け入れられず、豊臣秀頼は側室・淀殿と共に自害、こうして豊臣家は完全に滅亡しました。

2大権力として共存していた豊臣家と徳川家、豊臣家が滅びたことから徳川家康はこれで天下統一を果たしたことになります。ちなみに豊臣秀頼には豊臣国松というまだ小さな息子がいましたが、大阪夏の陣の後に捉えられた末に処刑されました。ここから、徳川家による江戸幕府の時代が続いていくのです。

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大阪の陣のまとめ

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大阪の陣が起こるまでの流れ

さて、大阪の陣をまとめてみましょう。大阪夏の陣は1615年に起こった徳川軍と豊臣軍の戦いで、1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は豊臣家と共存の道を歩んでいたものの、自らが政治の主導権を握るようになると、豊臣家を服従・もしくは滅ぼそうと企みます

1611年、二条城で会見した豊臣秀頼の姿は徳川家康から見てもたくましく立派であり、そのため徳川家康は危機感を抱きました。この時、徳川家康は豊臣家を滅ぼす決意をしたとされていますが、徳川家康に最も欠けていたのは豊臣家と戦うための理由であり、そんな理由ができたのが1614年の方広寺鐘銘事件です。

豊臣秀吉の17回忌にあたるその日、京都方広寺にて大仏の開眼供養が行われる予定でしたが、梵鐘には「国家安康」「君臣豊楽」の文字が彫られていました。徳川家康はこれに激怒、「国家安康」は「家康」の名を引き裂いた呪いが込められていると強く非難したのです。

大阪の陣の流れ

一方で「君臣豊楽」の文字では「豊臣」が並んでおり、怒った徳川家康はこれを口実に兵を集めて、同年……1614年に豊臣家に戦いを仕掛けます。豊臣軍と徳川軍のこの戦いは大阪冬の陣と呼ばれ、圧倒的兵力を持つ徳川軍でしたが豊臣軍を倒すことはできませんでした。

結局、徳川家康は和平を提案、豊臣軍もそれを飲む形で一旦戦いは終わります。とは言え、講和のための条件をお互い守ることはなく、また戦争の準備を進めており、豊臣家と徳川家には不穏な空気が流れていました。そして1615年の夏に両者が再び衝突、これが大阪夏の陣です

大阪冬の陣では見事な籠城戦で健闘した豊臣軍でしたが、大阪城の堀を埋めたためそれもできなくなってしまい城外で戦います。この戦いで徳川軍は勝利、豊臣軍は敗北したため豊臣家は滅亡、これで徳川家康は天下統一を果たしたことになりました。

大阪夏の陣は大阪冬の陣の後に起こっている

大阪夏の陣はそれだけ覚えるのではなく、大阪冬の陣もあわせて覚えてください。大阪夏の陣は大阪冬の陣の再戦であり、つまり大阪冬の陣を覚えなければしっかりと理解できません。
 
また、それぞれの戦いで間違えやすいのが戦いが起こった順番で、春夏秋冬の流れから大阪夏の陣が先に起こったと勘違いしてしまいやすいのです。しかし先に起こったのは大阪冬の陣で、大阪夏の陣は翌1615年に起こっています。
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日本史歴史江戸時代

豊臣家と徳川家の対決「大阪夏の陣」元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は大阪夏の陣について勉強していきます。豊臣秀吉の死後、天下統一を果たしたのは徳川家康ですが、豊臣秀吉が死去しても豊臣家が滅びたわけではない。

では徳川家康の天下統一後、豊臣家はどうなったのでしょうか?…その謎が解けるのが大阪夏の陣であり、豊臣家の行く末が分かるでしょう。今回は大阪夏の陣について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大阪夏の陣をわかりやすくまとめた。

徳川家と豊臣家の共存

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政治の実権を握った徳川家康

大阪夏の陣は1615年に起こりましたが、前年の1614年には大阪冬の陣が起こっており、これら2つをまとめて大阪の陣、もしくは大阪の役と呼びます。今回のテーマは大坂夏の陣ですが、冬の陣まで遡って大阪の陣全体が理解できるように分かりやすく解説していきますね。

豊臣秀吉の死後、豊臣政権では五大老の1人だった徳川家康が力を持つようになりました。そして1600年、徳川家康が石田三成を破って天下統一の第一歩となったのがかの有名な関ヶ原の戦いであり、戦後の処理を行うなどして徳川家康は政治の実権を握ります。

この時、豊臣家の領地は以前の1/4まで減らされてしまいますが、豊臣秀吉の功績によって豊臣家の権力が強かったことに変わりありません。さて、1603年に征夷大将軍に就任した徳川家康はこれをきっかけに本格的な政権作りを開始、これが江戸幕府であり、こうして徳川家と豊臣家の2大権力が共存する状態になりました。

未だ強い権力を持つ豊臣家

天下統一を実現したい徳川家康にとって、豊臣家は邪魔な存在でした。豊臣体制ではまだ幼い豊臣秀瀬が後継者となりましたが、徳川家康はあくまでその後見的立場です。しかし、徳川家康もまた江戸幕府の初代将軍に就任したことで豊臣家に近い権力を手にしており、その地位を不動のものとするには同等権力を持つ豊臣家がどうしても邪魔でした。

そこで徳川家康は豊臣家を服従させ、それを拒否された時には滅ぼしてしまおうと考えます。最も、あくまでそれは徳川家康の秘めた考えの1つでしかありませんでしたが、その考えが決意に変わった瞬間が1611年の二条城での徳川家康と豊臣秀頼の会見で、立派に成長した豊臣秀頼の姿に徳川家康は危機感を持ったのでしょう。

そんな中、1614年に大きな事件が起こります。豊臣秀吉の17回忌にあたるその日、京都方広寺で大仏の開眼供養が実施される予定になっていました。しかし、そこの梵鐘の銘文として書かれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字に徳川家康が激怒、これは豊臣家の「豊臣」が並んでいるのに対して、徳川家康の「家康」の文字が引き裂かれていたためです。

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