今回は「平家物語」で平安末期から源平合戦までの流れを勉強していこう。「平家物語」は史実を元に書かれた軍記物語で、時代の変動の中で生きた人々に寄り添っているぞ。物語としての面白味もありますが、歴史を勉強するのにいいテキストにもなる。

このあたりに詳しいライターのリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

義経をテーマに卒業論文を書いたおばちゃん。興味本意でとことん調べつくす。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。

「平家物語」とはなんだったのか

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まずは「平家物語」についてざっくり解説していきましょう。

「平家物語」の成立と語り手

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」

有名なこの一文から始める「平家物語」は、平安時代の武士・平家一門を中心につづられた軍記物語です。「平家物語」を由来とした琵琶の弾き語り「平曲」が盲目の琵琶法師たちの弾き語り芸能として伝えられました。有名な話に「耳なし芳一」(小泉八雲『怪談』)がありますね。主人公の芳一は「平曲」を語る琵琶法師でした。

古典の教科書に必ず載っている「平家物語」は鎌倉時代に成立したとされていますが、正確な成立時期は分かっていません。また、作者も不明です。

「平家物語」あらすじ

物語は1156年(保元元年)の保元の乱、1160年(平治元年)の平治の乱の後、平清盛が朝廷で巨大な権力を得たところから始まります。太政大臣(現在でいう総理大臣)に就任した清盛は一族を次々と出世させていきました。どんなわがままを言おうと誰も逆らうものはいません。

もちろん、後白河法皇を筆頭に清盛をよく思わない貴族や武士はたくさんいました。1177年(安元三年)鹿ヶ谷の陰謀の失敗を経て、後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)が平家追討を諸国の武士たちに命令します。以仁王の挙兵もまた失敗に終わってしまいますが、これが後に六年に及ぶ治承・寿永の乱へと繋がりました。この内乱が「源平合戦」です。

内乱の最中に清盛は病死し、平家一門は壇ノ浦の戦いで滅亡します。これによって、平家の栄華が終わりを告げたのです。

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祇園精舎はどこのこと?沙羅双樹とは?

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さて、冒頭の美文でお馴染みの「平家物語」。鐘の音や沙羅双樹の花、と優美な想像をかき立てますね。

平家物語の序盤の主な舞台は京都ですから、京都の繁華街・祇園を思い浮かべる人も多いかもしれません。しかし、祇園精舎は日本ではなく、インドにあります。祇園精舎は現在のウッタル・プラデーシュ州シュラーヴァスティー県に建立された寺院でした。これは富豪のスダッタとジューダ太子がお釈迦様に寄進したお寺です。正式には祇樹給孤独園精舎といいました。この堂の鐘の音は「この世のすべては必ず変化してずっと同じ状態でいることはできない」という真理を告げるとされています。

次に「沙羅双樹の花の色」ですが、沙羅双樹はインド高地に自生する常緑高木です。仏教三大聖樹のひとつに数えられ、お釈迦様がこの木の下で入滅(死去)されたときに花の色が抜け落ちて白くなったとされています。つまり、滅びのイメージを持った花ですね。色が抜け落ちるところもまた「万物は必ず変化する」というメッセージを秘めています。

ただの物語ではない

「平曲」は盲目の僧侶・琵琶法師が琵琶の音に合わせて語ります。そして、「祇園精舎の鐘の声」「沙羅双樹の花の色」。このふたつはお釈迦様と密接にかかわっていますね。というのも、「平家物語」は平家の死者を鎮魂する側面があったのです。

当時、怨霊や祟りは国家規模で信じられていました。権力者が非業の死を遂げると必ず荒ぶる霊威として祟る、と。日本三大怨霊と呼ばれる菅原道真公、平将門公、崇徳院は揃って平安出身です。いずれも御霊信仰にあげられますが、この話はまた別の機会にいたしましょう。

平家と源氏の男たち

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ここからは「平家物語」の主要メンバーを紹介していきます。

太政大臣としての清盛

まずは平清盛。「平家物語」の大ボスにして前半の主人公です。1118年(永久六年)、伊勢平氏棟梁・平忠盛(たいらのただもり)の長男として生まれます。当時の朝廷は天皇を中心に貴族が担っている時代でした。

清盛は保元の乱で後白河天皇の信頼を得て殿上人となり、平治の乱において政敵を排除することで急速に政治的地位を高め、最終的に太政大臣へと上り詰めます。その後は独裁体制を敷き、「平家一門でなければ人間でない」と清盛の義兄・平忠時が豪語するほどの勢いでした。恐怖政治を象徴するように、清盛は赤い服を着せた少年三百人を都に放ちます。もし清盛の悪口を言い合っているのを彼らに聞かれたら最後、ただちに逮捕されてしまいました。

清盛は自分の息子や親戚に次々に官位を与えて出世させていくので、公卿(大臣)三十人のうち十六人が平家一門という状態になります。さらに地方長官や各省の幹部も平家一門で固められていますから、もう怖いものなしですね。

平家の後継者とその最期

やりたい放題の清盛ですが、長男の重盛(しげもり)は少し毛色が違いました。内大臣に就任していた重盛は武士としても不足なく、清盛の後継者として最有力候補です。また、穏やかで情に厚い人物として『愚管抄』などに記録されています。「平家物語」においても、平家一門の良識派として描かれ、父清盛の横暴を諌めたこともありました。

しかし、重盛は清盛と後白河法皇の対立の際に板挟みになり、平家の未来を嘆きながら四十三歳の若さで亡くなります

重盛の死後、後継者として白羽の矢が立ったのは三男・宗盛(むねもり)でした。次男・基盛は若死してすでにいません。重盛と宗盛は異母兄弟であり、十歳も年が離れていました。また宗盛は重盛とよく比較され、愚鈍で高慢な人物とされています。宗盛は事実上、平家最後の棟梁ですね。

貴族化していった平家

「平家物語」第九巻に記された「敦盛最期」では清盛の甥にあたる平敦盛(たいらのあつもり)が、優美な大将の軍装を着たお歯黒薄化粧の美少年と描写されています。彼を討ち取ろうとした熊谷直実(くまがいなおざね)でさえ「どれほどの貴人か」と驚いていました。このお歯黒と薄化粧は、もともと当時の貴族の身だしなみで、平家がまねを始めたものです。

本来の平家一門は武家であり、武士として刀や弓、乗馬など武力の訓練を怠らないはずでした。武士の財源は任された領地からの収入です。そのため、任地を守るための武力でもあります。

ところが、朝廷に入るにあたって貴族との付き合いは不可欠でした。徐々に平家の心が領地から離れ、貴族化していったことが後の平家の敗因に繋がると言われています

平家と対立した源氏

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「源氏」と言えば、河内国(現在の大阪東部周辺)を拠点にしていた清和源氏の一流を差します。河内国を拠点にしていたことから河内源氏と呼ばれました。祖先には、初代河内源氏棟梁・源頼信の兄に源頼光(摂津源氏)などがおり、古くから有力な武士を排出している家系です。「平家物語」に登場する源頼朝、源義経はこの河内源氏の末裔でした。

しかし、保元の乱を経て源氏は冷遇の憂き目に合い、さらに平治の乱で平家に敗北したことにより頼朝の父・義朝(よしとも)が処刑されてしまいます。頼朝もまた処刑される予定でしたが、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)によって助命され、伊豆に流刑となりました。

一方、生まれたばかりの義経は母の常盤御前(ときわごぜん)や兄弟と共に捕まってしまいます。ところが、清盛は絶世の美女と謳われた常盤御前に心動かされ、義経は寺に入ることを条件に生き延びることができました。

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源平合戦のきっかけから最後まで

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同じ武士階級の平家と源氏。両家がどのように対立していったのか経緯を見てみましょう。

対立の始まり、保元の乱

ことの起こりは1156年(保元元年)の保元の乱。争いのメインは崇徳上皇と後白河天皇でした。上皇方に藤原頼長(ふじわらのよりなが)、平忠正(たいらのただまさ)、源為義(みなもとのためとも)。天皇側には藤原忠道(ふじわらのただみち)、平清盛、源義朝がつきます。藤原、平、源と両側に同じ苗字の人ばかりいますね。実は、同じ一族なんです。

藤原頼長と忠道は兄弟で、摂関家の家督争いでもありました。平忠正と清盛は叔父と甥。両者の間には早くから不和があったとされています。そして、源為義と義朝は親子でした。結果として、保元の乱は天皇方の勝利に終わり、負けた上皇方の頼長は死亡、忠正、為義は六条河原で処刑されてしまいます。

恨み深まる、平治の乱

源為義・義朝の親子関係は微妙なものでしたが、義朝が父を殺してまで後白河天皇に尽くしたのに対し、天皇は清盛を重用しました。冷遇された義朝は当然不満を持ちますよね。そこに朝廷内の争いが加わり、1160年(平治元年)平治の乱が勃発しました。平治の乱には当時十三歳だった頼朝も参加しています。義朝、頼朝、そして義経がどうなったかは前述の通りです。

伊豆に流された頼朝はそこで北条氏の娘・政子と婚姻を結び、北条家を味方につけます。そうして鎌倉で着々と勢力をつけていきました。

源平合戦の前段階

源氏の勢力を削ぐ一方、清盛は藤原家に成り代わるように権勢をふるっていました。これにまいったのが清盛を厚遇していたはずの後白河法皇(譲位し、出家したため法皇と称します)です。

「平家物語」第一巻「鹿谷」では、法皇の他に平家に不満を持つ藤原成親、西光(さいこう)、俊寛(しゅんかん)が集まり平家打倒の密談をしていました。密談の最中、藤原成親が瓶子(へいし、とっくりのこと)を倒したのを「平氏(瓶子)が倒れた」と言い、法皇は笑うと「その洒落の続きを聞かせておくれ」と続けて平氏と瓶子をかけた茶番が繰り広げられます。この密談を「鹿ヶ谷の陰謀」と呼びますが、すぐに清盛の耳に入ることとなり藤原成親、西光、俊寛は処罰を受けることになりました

この後に、後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)が平家追討の令旨を発しました。この挙兵は平等院の戦いで敗北しますが、平家追討を心待ちにしていた源氏の一族が各地で立ち上がります。これが六年に及ぶ治承・寿永の乱、つまり源平合戦の始まりでした

源頼朝の挙兵

源頼朝の挙兵は「平家物語」第五巻から始まります。 最初こそ頼朝は勝利を収めますが、続く1180年の石橋山の戦いで敗走してしまいました。逃げる途中に平家方の武士・梶原景時に助けられ、安房国(千葉県)で源氏の仲間を集めます。そして、同年、富士川で再び平家に挑みました。富士川の戦いについて「平家物語」に興味深い記述があります。

「坂東武者の親子は互いの屍を乗り越えてでも戦うほど非情だ、と関東出身の武者に言われ平家軍は恐怖に震えていました。合戦の前夜、地元の避難民たちが山の中で炊事する火を見て源氏の大軍と誤認し、さらに水鳥の羽音を夜襲と確信してしまいます。臆病風に吹かれていた平家軍は大混乱のうちに戦場から逃走しました。」

この時、平家軍を率いていたのは清盛の孫で、重盛の嫡男・平維盛(たいらのこれもり)でした。臆病風に吹かれて敵前逃亡するなど、武士にはありえません。これは平家が貴族化し、本職から遠のいてしまっていたためでしょう。

かくして、富士川の戦いは頼朝の不戦勝となりましたが、頼朝は逃げる平家を追撃せず鎌倉に引き返します。平家が手を出せないうちに、頼朝は関東の内部統制を計ったのです

清盛、憤怒のうちに病死

富士川での敗戦に清盛は大激怒します。かつて命を救った頼朝に恩を仇で返されたのです。さらに悪いことに、当時清盛が無理矢理都を移した福原京でしたが、施設不備のために再び平安京へと戻ることになります。その間にも各地で反平家勢力との戦いは続いていました。

とりわけ、信濃を拠点にしていた源義仲(木曽義仲)は謀反を計画し、各地の源氏に呼びかけると各地で一斉に兵が上がることになりました。

平宗盛がこの鎮圧に向かおうとした日の夜のことです。清盛が急に発病し、出兵が中止となりました。清盛の熱は注いだ水が沸騰するほどの高熱だったとされ、数日のうちに亡くなります。妻に遺言を求められた際に清盛は「私の葬式はしなくていいから、頼朝の首を私の墓前に供えなさい」と深い恨みを述べました。

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平家一門、都落ちすること

「頼朝の首を」と清盛は遺言を残しましたが、平家を都から追い出したのは源義仲でした。倶利伽羅峠(富山県と石川県の県境にある峠)の戦いで源義仲は平家軍を壊滅させ、総大将・平維盛を退却させます。勢いそのままに都から平家を追い出し、義仲は都の人々から「旭将軍」と呼ばれ歓迎されました。

ところが、義仲の軍が都で多くの狼藉を働いたために人気はすぐさま失墜。そこへきて義仲の軍は勢いを盛り返した平家に水島(現在の倉敷市玉島)の戦いで敗れてしまいます。義仲軍の蛮行や敗北に、後白河法皇はとうとう義仲追討の院宣を頼朝に下しました。

頼朝と義仲はいとこにあたりますが、義仲の父・義賢は、頼朝の兄・義平によって殺害されているため、両者の仲は険悪です。頼朝は弟の源義経を都に派遣すると、宇治川(京都府宇治市)の戦いで義仲を破り、頼朝は平家討伐のリーダーになりました

清盛を失った平家のその後

ここからは勢いを取り戻した平家と義経率いる頼朝軍との戦いになります。平家は福原に陣営を置きますが、三草山の戦い、生田の戦い、一ノ谷の戦いと連敗を喫しました。棟梁であった平宗盛は、安徳天皇(清盛の孫)とその母・建礼門院(清盛の娘)を連れて福原を脱すると、屋島(現在の高知市)へ逃れます

ここで屋島の戦いが開戦されますが、「平家物語」では「扇の的」が有名ですね。沖に逃れた平家が、小舟の上に扇を付けた竿を立て、この扇を射ることができるか、と源氏を挑発します。これに源氏は武士としてのプライドを賭けて挑まなくてはなりません。弓の名手として那須与一は神に祈り、見事に扇を射ぬきます。

挑発も失敗し、屋島でも敗退した平家はいよいよ追い詰められ、最後の壇ノ浦(山口県下関市)の戦いに挑むことになりました。平家は海戦を得意としていましたが、源氏が熊野水軍を味方につけていたことや、潮の流れの変化などにより逆転されてしまいます。こうして、壇ノ浦に平家一門の滅亡が決定しました。

奢れるものたちの最期

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最後に、壇ノ浦の戦い後の平家を見ていきましょう。

壇ノ浦に浮かぶ平家の旗

壇ノ浦での敗北が決まった平家はもうあとがありません。平家の武将たちは次々と壇ノ浦の海へと入水していきます。清盛の孫であった安徳天皇は祖母の二位尼(にいのあま)に抱かれ、三種の神器とともに壇ノ浦に没しました。八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は回収されますが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)はここで永遠に失われたとされています

しかし、平家の棟梁・平宗盛は、水泳の名手でもあったために死にきれずに息子・清宗共々生け捕りにされ、後に京都にて処刑されました。安徳天皇の母・建礼門院も入水を計りましたが助けられ、出家して一族の供養に勤めることになります。

最後に、清盛の直系の男子にあたる六代は一時許されて僧になりますが、頼朝の死後に殺されてしまいました。この六代の死によって清盛の子孫が途絶えます

後白河法皇と平家の和解

巻数のついた「平家物語」は六代の死で締めくくられますが、実は、その後に「灌頂(かんじょう)の巻」があるのです。「灌頂」とは仏教用語で、師が弟子を正統な後継者とするための儀式をさしました。このことから琵琶法師の間で「灌頂の巻」は特別な意味を持つことを示しています。

この「灌頂の巻」ですが、それまでの「平家物語」が軍記物語であったにもかかわらず、戦争の描写はありません。出家した建礼門院が、寂光院(現在の京都市左京区大原)で平家一門の供養をしながら質素に暮らしているところに、後白河法皇が訪ねて来るというものです。

後白河法皇と建礼門院は舅と嫁の関係であり、仇敵同士でもありました。しかし、後白河法皇が建礼門院を見舞い、涙を交えながら話し合ったということは、後白河法皇と平家が和解したことを意味します。つまり、平家の国家反逆罪が許されたということですね。

実はドラマテックな「平家物語」

「平家物語」は仏教的な側面を持ちながらも、貴族社会から武家社会への転換期をまざまざと書いた作品です。歴史的意味合いは大きく、明治維新に至るまで政治の中心は武家だという常識を作った瞬間でもありました。

しかし、その内容を読み解くと、その時代に生きた人々の文化や思想を垣間見ることができます。合戦の合間に交わされた人々の愛情は深く、ドラマティックで、読者の頭に残ることでしょう。教科書だけでは読み取れない部分なので、源平合戦の流れがより頭に残りやすくなり、得した気分になりますね。

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平安時代日本史歴史

簡単でわかりやすい「平家物語」!あらすじや源平合戦のきっかけも歴史オタクが詳しく解説

今回は「平家物語」で平安末期から源平合戦までの流れを勉強していこう。「平家物語」は史実を元に書かれた軍記物語で、時代の変動の中で生きた人々に寄り添っているぞ。物語としての面白味もありますが、歴史を勉強するのにいいテキストにもなる。

このあたりに詳しいライターのリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

義経をテーマに卒業論文を書いたおばちゃん。興味本意でとことん調べつくす。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。

「平家物語」とはなんだったのか

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まずは「平家物語」についてざっくり解説していきましょう。

「平家物語」の成立と語り手

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」

有名なこの一文から始める「平家物語」は、平安時代の武士・平家一門を中心につづられた軍記物語です。「平家物語」を由来とした琵琶の弾き語り「平曲」が盲目の琵琶法師たちの弾き語り芸能として伝えられました。有名な話に「耳なし芳一」(小泉八雲『怪談』)がありますね。主人公の芳一は「平曲」を語る琵琶法師でした。

古典の教科書に必ず載っている「平家物語」は鎌倉時代に成立したとされていますが、正確な成立時期は分かっていません。また、作者も不明です。

「平家物語」あらすじ

物語は1156年(保元元年)の保元の乱、1160年(平治元年)の平治の乱の後、平清盛が朝廷で巨大な権力を得たところから始まります。太政大臣(現在でいう総理大臣)に就任した清盛は一族を次々と出世させていきました。どんなわがままを言おうと誰も逆らうものはいません。

もちろん、後白河法皇を筆頭に清盛をよく思わない貴族や武士はたくさんいました。1177年(安元三年)鹿ヶ谷の陰謀の失敗を経て、後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)が平家追討を諸国の武士たちに命令します。以仁王の挙兵もまた失敗に終わってしまいますが、これが後に六年に及ぶ治承・寿永の乱へと繋がりました。この内乱が「源平合戦」です。

内乱の最中に清盛は病死し、平家一門は壇ノ浦の戦いで滅亡します。これによって、平家の栄華が終わりを告げたのです。

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