戦国時代には様座な異名が付いた大名達が数多くいたようです。一般的に有名な大名といえば甲斐の虎だった武田信玄と越後の龍だった上杉謙信が直ぐに名前が出てくる人達であろう。

そんな信玄と謙信と争い北条家を二代に渡って率いていた相模の獅子こと北条氏康について今回は歴史ライターwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

学生時代は、沢山の歴史本を読み知識を深めた歴史好きのサラリーマン。特に、戦国時代が大好きであり、武士に憧れている。関東近郊で城といえば小田原城。今回は氏康が三代目当主となり小田原城を居城とし、様々な戦で勝利を挙げてきた武功や内政について紹介していく。

 

三代目北条氏誕生

北条初代だった伊勢宗瑞の孫として誕生し父の氏綱が北条氏と名乗ります。

臆病な性格だった

1515年に二代目北条氏綱と正室の養珠院殿の間に生まれ幼名を、伊豆千代丸と名乗っていきました。養珠院殿に関しては血筋がはっきりしておらず、不明な点が多く氏康が十三歳の時には亡くなっています。

幼少期には、鉄砲の音で怖がってしまうほどの臆病な性格だったため家臣達から笑われていました。これを恥だったと思った氏康は短刀で腹を切ろうとします。これを見た家臣の清水が、古来の勇将は音に敏感で勘が鋭いといい自害しようという思いから立派な将になる決意をしました。

元服から初陣へ

1529年に氏綱が左京大夫任官になった頃に元服したとされ、翌年1530年には初陣を飾ります。この頃に勢いがあった扇谷上杉家の当主だった上杉朝興と多摩川付近で対峙していくことになりました。

江戸城での戦いで氏綱に敗北していた朝興は、当時小沢城主だった氏康を攻め込み北条に一泡吹かせるつもりでいます。氏康の評判は臆病な性格での噂が広まっていたことで、簡単に攻略できると思っていた朝興。そして1530年6月頃に、朝興が大軍を率いて小沢城へ向かってきました。

少数の兵力で大軍朝興を破る

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氏康が大将にならざるを得ない状況となり、兵力差で負けているため籠城するかと思われましたが小沢城から討って出ることにしました。氏康を頼りない大将だと思っていた家臣達もこの動きを見て士気が向上していきます。

しかし、ベテラン朝興と初陣の氏康では戦場での経験値に差があり緒戦は散々足る結果で敗走し小沢城へ撤退しました。氏綱のような戦の経験が無いのでは勝てないと判断した氏康は、豪族だった中島隼人佐と乳母子の志水小太郎に道案内を頼み夜襲を仕掛けることにします。

勝利した扇谷上杉軍は、油断しており北条軍の少数兵が休憩している兵に攻撃をしていき軍が総崩れした朝興は急いで川越城まで引き返していきました。初陣ながら勝利を収めることができた氏康はここから数々戦功を挙げていきます。

氏綱から家督を継いでいく

初陣に勝利したことで、氏康の評価が高まり始めていきました。次第に戦場で自分の手腕を発揮していき認められていく存在となり、氏綱の後継者に相応しくなっていきます。

甲斐と駿河と相模で情勢が乱国する

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甲斐国には武田信虎が勢力を広めていましたが、国人衆による反発がありそこに駿河の今川氏と同盟を結んでいき甲斐国の国境付近で小さな小競り合いが続いていました。中でも有力国人衆とされていたのが、小山田氏で信虎とも氏綱とも敵対している状態となるも信虎と和睦し武田に服従するようになります。

北条氏と今川氏で同盟を結んだり、武田氏と和睦したりするも一時的なところがあり直ぐに抗争が起きていたため和睦など無意味となっていました。そして今川氏輝が当主となると武田との和睦が解消され甲斐と駿河国の国境で一進一退を繰り返していきます。

そこに同盟として援軍を率いて氏綱と氏康が、甲斐国の山中まで進行していき二万四千の大軍で小山田信有と勝沼信友の小山田・武田連合軍を壊滅させ勝利を収めました。この戦の直後に扇谷上杉氏が北条領土に攻め込む素振りを見せたことで氏綱は軍を引き返し撤退します。

\次のページで「戦乱の世」を解説!/

戦乱の世

一旦は武田氏に勝利したことで、氏康の名も知れ渡り成長していく氏康。この頃の関東領は諸将らが自国を支配していたため争いが絶えず起きていました。一方で氏輝の突然死により同盟が解消されています。

朝興は領土を拡大していきたかったが、宗家山内上杉氏と内紛を起こしていてとても他国攻め込める状況ではありませんでした。そんな中で朝興が死去し上杉朝定が家督を継ぎます。その隙を付いて氏綱は川越城を攻略し扇谷上杉軍は敗走。

下総を支配下にしていく

河越城を北条方の城にし勢いづいていた氏綱。隣国の千葉氏・真理谷氏・里見氏に加えた足利一門だった足利義明が、勢力を拡大するために和睦と裏切りを繰り返していました。氏綱としては関東一大勢力の扇谷上杉氏との戦いに専念するため義明と和睦しましたが、和睦を解消し対立するなどして情勢が安定していません。

更に真理谷氏の内紛によって義明から逃れるために真理谷信隆が氏綱を頼っていくと、氏綱が扇谷上杉領だった武蔵国を攻め立てことで対立が表面化してきます。義明は里見氏と真理谷信応ら一万の軍勢で国府台城へ入り氏綱も氏康ら二万の兵で江戸城へ入っていきました。

義明の主張により野戦することになり相模台で激突した両軍でしたが、始めは義明勢が優勢でしたが数で勝る北条軍が次第に押し返していきます。また義明の子義純で討たれたと聞くと自ら前線へと突撃していき弓矢に当たり討死した義明でした。これによって下総まで勢力を伸ばすことになった氏綱。

北条家第三代目

勢力拡大を図ることができたものの氏綱が病により体調を崩し始めていました。その間に足利晴氏との婚姻関係を結び関東八カ国の大将軍と称えられ身分も公家の足利氏と同等になります。しかし体調を崩した三年後の1541年に氏綱が亡くなり、家督を継ぐことになった氏康。

氏綱は亡くなる前に訓戒五か条を残していて義を重んじ家臣や領民を大切にしていき驕らないようにしていくようにと氏康に伝えました。こうして当主となった氏康は北条一門の武名を高めていきます。

今川氏との戦いで関東領土を一気に支配下にしていく

氏綱が亡くなると両上杉氏が和睦を結んだことにより、氏康にとって脅威的な存在となります。また同盟が解消されていた今川義元が、両上杉氏を連携していき氏康に対して挙兵していきました。

第二次河東の乱

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1530年から1535年の間に今川氏・武田氏・北条氏の三つ巴の戦いで、今川氏は扇谷上杉氏と共に氏綱を挟撃していくも氏綱に対して大敗をしていた今川氏は勢力を縮小させていました。氏綱が死去したことで再び、占拠されていた河東を奪還するべく動き出した義元は扇谷上杉氏と山内上杉氏と同盟を結んでいきます。

一方で水面下で義元は氏康と和睦交渉を行っていて、信玄を仲介に立てた交渉と独自で交渉を試みるも氏康は難色を示しいずれも失敗に終わりました。和睦出来ないと判断した義元は、両上杉氏と連携して挟撃する作戦を持ち掛け両上杉氏も同意します。武田氏も義元と同盟していたことで、駿河方面攻めに加わり両上杉氏は関東へ攻め込む形となり前回とは逆で挟撃される形となった氏康は窮地に立たされてしまいました。

連合軍に押されていく氏康

両方の攻撃に備えなければならなかった氏康は、自ら指揮をするべく駿河国狐橋で戦うも義元率いる軍勢に押し負けてしまいました。勢い付いた義元は、吉原城を攻撃するため進軍していくと氏康は吉原城を放棄し長久保城まで義元に包囲されてしまいます。

同時期に擁立していた晴氏からも見捨てられることになったことに加え、河越城を晴氏と山内上杉氏の上杉憲政と朝定が八万の大軍で包囲されてしまいました。圧倒的不利な状況から覆すことが出来ないと思った氏康は武田家当主だった武田信玄に仲介を依頼していきます。

河東と長久保城を渡すことを条件に義元と和睦を成立させ、挟撃されている片方を収束させ川越城で取り囲まれている北条綱成の救援に向かっていきました。

奇襲作戦

河越城を守る綱成は三千の兵で籠城していく形になりましたが、援軍等が無ければ壊滅してしまうことは誰の目から見ても明らかな状態でした。氏康は義元との和睦交渉を終え、急ぎ川越城を救援するべく急行していきます。

しっかりと備蓄をしていたおかげで綱成は約半年間に渡り籠城し、連合軍の攻撃を防いでいました。氏康は川越へ向かう間に太田氏を内応させ移動場所を確保していき攻めの機会をうかがっていきます。また約半年間に渡った長い戦いだったため足利・両上杉軍は、戦意が低下し兵の注意力が散漫していました。そこで奇襲を立案した氏康は、綱成の弟だった福島勝広を使者として敵軍に潜り込みながらへ入城し綱成に奇襲作戦が伝えられます。

\次のページで「敵を欺く氏康」を解説!/

敵を欺く氏康

窮地の状況を逆手に取り、偽の降伏状を連合軍に送り続けていました。両上杉方には綱成を助命してくれるなら公家方に降ろうと申し入れをしています。しかし上杉方はこの内容に応じず、氏康に攻撃を仕掛けてくるも戦わず軍を府中まで引き返しました。

この様子を見た連合軍は、北条方の戦意が低いと判断し北条方を甘く見始めます。1546年5月19日に氏康は八千兵を四部隊に分けていき重臣だった多目元忠に一部隊を引きさせ残る三部隊を氏康が率いて敵陣へ向かっていきました。忠元部隊は戦闘が終了するまで動かないように指示し、氏康の三部隊は鎧兜を脱ぎ音を消し身軽にした状態で深夜零時頃に休憩している両上杉軍に攻撃を仕掛けていきます。

兵力差を物ともせずに戦っていく

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夜中に奇襲攻撃をされたことで混乱に陥ってしまっている両上杉軍は、迫りくる敵に恐れを為し多数の兵が逃げていく状況でした。上杉朝定と重臣の難波田憲重は討ち取られてしまい更に混乱していく連合軍。氏康をここぞとばかりに兵を切り伏せていき前線深くまで追い込んでいましたが、後詰めを担当していた元忠の法螺貝により氏康に危険を知らせます。

戦況を見ていた綱成は城から飛び出していき、晴氏の陣へと突撃していき勢いのある北条方の猛攻を防ぎきれず古河まで逃げ帰っていきました。また上杉憲政は何とか戦場を離脱するも家臣らを多数討ち取られてしまいます。

連合軍の死者の数は一万三千から一万六千の間とされていますが、氏康の死者数はごくわずかで氏康軍と連合軍の決着がつきました。

関東の主導権争い

公家の足利氏と扇谷上杉氏及び山内上杉氏を叩き、関東の主導権争いを確保した氏康でしたが1548年に関東で地震が発生し領国を支えていた民達が一斉に逃亡してしまいます。氏康の民政手腕と関東の権力争いを見ていきましょう。

地震により国が困窮

河越野戦後の領地経営が手間取っている間に、関東一帯で大規模の地震が発生します。被災してしまった民達は田畑を捨てて安全圏まで逃げていく事態となり、米などの食料が確保できない状態に陥りました。この状況を受け氏康は、1550年に公事赦免令を発令し当時の一般的な税率だった五公五民を変更し四公六民へと税率を変えていくと共に不満が溜まらないように目安箱を設置していきます。

徳政措置があったことで、再び領国に民が戻ってきた相模国。混乱していた国も平穏な状態に戻し、次なるは領土拡大をするために弱体化している山内上杉氏の憲政が居城としている平井城を攻めると1552年に攻略し北条幻庵が城主となりました。敗北した憲政は越後の上杉謙信の元に身を寄せていきます。

関東管領に匹敵

憲政を追いやるも他国間で争っていた宇都宮氏・佐竹氏らと敵対状況は続いていました。宇都宮氏の家臣だった芳賀高定が宇都宮城奪還の救援したことに加え氏康を通じて佐竹義昭も出兵させ壬生氏を追放すると宇都宮城を取り戻す力添えをしていきます。更に、晴氏を幽閉させ石上氏や藤田氏なども氏照と氏邦を養子として送り込み北条一門に加えました。

これらの行いにより氏康は、関東管領に匹敵する権力を得て関東諸将らに見せつけていきます。一方で関東一円での戦いは収まっている状況でしたが、義元との関係性が緊迫していて信秀宛てに義元への疑心があるため対処して欲しい旨の書状を出していました。

この状況を打開したい氏康は義元が三河へ侵攻している間に、駿河国へ攻め入り領土を奪う予定でしたが武田方の邪魔が入り思うように侵攻出来なかったと関東八州古戦録に書かれています。思うように攻められないと判断した氏康は義元に早川殿を嫁がせ、更に信玄から黄梅院を氏政に迎え入れ三国同盟を築いていきました。

家督を譲るも北条家の実権は掌握

三国同盟後の1559年に家督を氏政に譲り隠居していくも、本城の小田原城に留まり政治と軍事の実権は握っていた状態でした。また大規模な飢饉が発生し再び民が危険にさらされましたが氏政が徳政令を発令していきます。1559年頃には、上野国まで支配下にしていて越後国と隣接する沼田まで領国にしていました。

しかし飢饉状態にあった謙信は、食料を奪取するため北条領土へ侵攻していきます。また同盟を結んでいた義元が桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られ今川氏は弱体化していきました。謙信によって瞬く間に越後に対する要衝が落とされ武蔵国まで攻め入ってきます。

氏康は里見氏の攻略をしていて、謙信侵攻の知らせを聞くと直ぐさま兵を返し松山城へ入りました。しかし氏康から離反する関東の将らが、謙信へと傾いていくことに加えて足利義氏から離反した将らに北条に与するよう書状を出すも上手くきません。

小田原で籠城

上杉軍は越後からも兵を呼び総勢で約十万もの大軍となっていました。籠城を選択した氏康は要衝となる玉縄城と滝山城もあわせて籠城させていましたが公家足利氏の足利御所を謙信に制圧されてしまいます。謙信は海沿いから侵攻していき小田原を始めとする諸城を大軍で1561年3月に攻めていきました。

北条軍も籠城だけでなく野営を構え大槻と曽我山で、激突していくと謙信も小田原城への攻撃を開始していきます。挑発のため城下町に火を放つよう謙信が命じるも氏康は、挑発には乗らずに籠城していると同盟の信玄が援軍として甲斐吉田に到着しました。

氏康の支援として北信濃を攻略していき、川中島に海津城を築城し謙信を牽制します。また越中で一向一揆が発生したことと長期化していたことで飢饉の影響が出始め、佐竹氏らが陣を無断で引き払い状況が好転することが無いと思った謙信は自国へ撤退していきました。

\次のページで「関東の支配権と信玄との同盟破棄」を解説!/

関東の支配権と信玄との同盟破棄

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窮地だった氏康だったが、飢饉の影響と信玄の援軍によって謙信を越後へ引き返させることに成功。離反していた将らも徐々に氏康に下っていくも今川氏の弱体に目を付けた信玄が同盟を破棄し今川領へ侵攻していきます。

豪族が北条に服従していく

隣国諸将らを降伏させていく謙信の攻撃は止まらず、上野・武蔵などは謙信の手中にありました。そんな中で上総国で抵抗を続けていた里見氏と対立していき第二次国府台合戦へと発展していきました。発展した原因は太田康資が氏政に不満があり同族つてで謙信に下り、救出を依頼された里見氏が千葉氏を一万二千の軍勢で侵攻していることを聞き単独で守ることが出来ないと判断し氏康に援軍要請をします。

先鋒として江戸城将の遠山綱景と富永直勝は太田氏の離反に責任を感じる余り敵陣に切り込み過ぎたため討死してしまい北条軍は敗北しました。里見義弘は正月ということもあり気を良くしたことで兵に酒を振る舞い酔いしれていたところに北条軍が奇襲を仕掛けてきます。

奇襲攻撃で大混乱し義弘は戦場を脱出するも重臣ら数名が討死したことで里見氏の力が弱まったことと信玄によって箕輪城が陥落したことで成田氏や由良氏など一部の豪族が北条に服従していきました。

同盟破棄

今川家は氏真は当主となるも離反者が相次ぎ勢力を弱めていくと、同盟を結んでいた信玄が駿河国へ侵攻していきました。今川軍は武田軍に敗北していき更に徳川家康からも攻撃を受け掛川城まで撤退すると、娘婿だった氏真を支援する形をとる氏康。また、信玄を不信に思った家康は氏康と同盟を密かに結び信玄を駿河で挟撃する方向になります。

離反せずに残った富士信忠は、大宮城主を命じられると信玄は大宮城を始めに攻撃していきました。氏康の援軍があったことで何とか防ぎきり信玄を一時的に甲斐国まで撤退させて氏康もまた信玄に敵対したことで同盟を破棄します。

しかし北条方も窮地に立たされてしまい武田・上杉・里見らに囲まれる状況。これを打開すべく謙信との同盟交渉を始めていき、今川・北条・上杉の三ヵ国が同盟していくことで長らく続いていた謙信と停戦する形になりました。

三増峠の戦い

1569年8月24日に信玄は兵を率いて甲府を出立し滝山城と小田原城を取り囲んでいきます。総構えの着工前だった小田原城ですが依然謙信が十万の兵で落城することがない堅城だったと知っていた信玄は、無理な城攻めを行わず何度か挑発行為をするも討って出てくる様子が無かった北条軍。

攻略することが無理と判断した信玄は甲斐へ戻るため兵を撤退させていきます。後詰めとして氏照と氏邦が三増峠に先回りで着陣し帰国する信玄対して有利な状況になりました。更に氏政が小田原城から武田軍の後方を突く挟撃作戦で信玄を追い詰める予定となります。

北条軍と武田軍は三増峠で対峙し緒戦は綱成が戦場を優位に進めていましたが、高低差を利用した山県昌景の奇襲により戦況が大きく武田方に靡き武田軍の勝利となりました。後方に氏政が兵を進めていましたが敗戦の知らせを聞き撤退したことで、挟撃作戦も失敗に終わります。

氏康の最後

信玄の帰国を許したことと、里見氏の勢力が回復したことで次第に信玄に押されていきます。またこの辺りから氏康の体調が悪化していき言葉の呂律が回らず子供達の名前を間違えるなど思った以上に深刻な事態となっていました。一時は信玄と対峙するまで回復したとされていますが氏康が発給していた文書の花押が見られなくなります。

そして1571年10月3日に小田原城内で亡くなりました。享年は五十七歳。

民からも家臣からも信頼された将

北条を二代に渡って牽引してきた氏康でしたが、戦の活躍と同様に内政に力を入れていてまず領内の検地を行っています。秀吉も奉行衆らに検地を任せていましたが、それよりも二十年から三十年前に氏康の手によって徹底した検地を行い小田原衆所領役帳を作成し個々の所領場所や所領高を明らかにし民や家臣団の統制も円滑に行うことが出来ました。

特に税制については本文でも紹介していますが、歴代の早雲と氏綱同様に尽力していて税負担を軽減させることで民からの反発を招くことなくすんでいます。また小田原を大都市にするべく様々な職種の者達を呼び寄せ東国最大の都市にしたことと清掃活動を行い清潔な都市であったことが記されていました。

祖父そして父の遺訓もしっかりと守りながら北条家を急成長させていき信玄と謙信と強大な敵を退け三十六度、戦に出陣していますが受けた傷は向こう傷だけだとされ敵に背を向けることなく戦った相模の獅子。氏康の功績とこうした小田原の環境を変えていったことで、関東一円の強大な勢力となっていったのでしょう。

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室町時代戦国時代日本史歴史

甲斐の虎・越後の龍と争い北条家を長らく率いていた「北条氏康」を戦国通サラリーマンが徹底わかりやすく解説

戦国時代には様座な異名が付いた大名達が数多くいたようです。一般的に有名な大名といえば甲斐の虎だった武田信玄と越後の龍だった上杉謙信が直ぐに名前が出てくる人達であろう。

そんな信玄と謙信と争い北条家を二代に渡って率いていた相模の獅子こと北条氏康について今回は歴史ライターwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

学生時代は、沢山の歴史本を読み知識を深めた歴史好きのサラリーマン。特に、戦国時代が大好きであり、武士に憧れている。関東近郊で城といえば小田原城。今回は氏康が三代目当主となり小田原城を居城とし、様々な戦で勝利を挙げてきた武功や内政について紹介していく。

 

三代目北条氏誕生

北条初代だった伊勢宗瑞の孫として誕生し父の氏綱が北条氏と名乗ります。

臆病な性格だった

1515年に二代目北条氏綱と正室の養珠院殿の間に生まれ幼名を、伊豆千代丸と名乗っていきました。養珠院殿に関しては血筋がはっきりしておらず、不明な点が多く氏康が十三歳の時には亡くなっています。

幼少期には、鉄砲の音で怖がってしまうほどの臆病な性格だったため家臣達から笑われていました。これを恥だったと思った氏康は短刀で腹を切ろうとします。これを見た家臣の清水が、古来の勇将は音に敏感で勘が鋭いといい自害しようという思いから立派な将になる決意をしました。

元服から初陣へ

1529年に氏綱が左京大夫任官になった頃に元服したとされ、翌年1530年には初陣を飾ります。この頃に勢いがあった扇谷上杉家の当主だった上杉朝興と多摩川付近で対峙していくことになりました。

江戸城での戦いで氏綱に敗北していた朝興は、当時小沢城主だった氏康を攻め込み北条に一泡吹かせるつもりでいます。氏康の評判は臆病な性格での噂が広まっていたことで、簡単に攻略できると思っていた朝興。そして1530年6月頃に、朝興が大軍を率いて小沢城へ向かってきました。

少数の兵力で大軍朝興を破る

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氏康が大将にならざるを得ない状況となり、兵力差で負けているため籠城するかと思われましたが小沢城から討って出ることにしました。氏康を頼りない大将だと思っていた家臣達もこの動きを見て士気が向上していきます。

しかし、ベテラン朝興と初陣の氏康では戦場での経験値に差があり緒戦は散々足る結果で敗走し小沢城へ撤退しました。氏綱のような戦の経験が無いのでは勝てないと判断した氏康は、豪族だった中島隼人佐と乳母子の志水小太郎に道案内を頼み夜襲を仕掛けることにします。

勝利した扇谷上杉軍は、油断しており北条軍の少数兵が休憩している兵に攻撃をしていき軍が総崩れした朝興は急いで川越城まで引き返していきました。初陣ながら勝利を収めることができた氏康はここから数々戦功を挙げていきます。

氏綱から家督を継いでいく

初陣に勝利したことで、氏康の評価が高まり始めていきました。次第に戦場で自分の手腕を発揮していき認められていく存在となり、氏綱の後継者に相応しくなっていきます。

甲斐と駿河と相模で情勢が乱国する

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甲斐国には武田信虎が勢力を広めていましたが、国人衆による反発がありそこに駿河の今川氏と同盟を結んでいき甲斐国の国境付近で小さな小競り合いが続いていました。中でも有力国人衆とされていたのが、小山田氏で信虎とも氏綱とも敵対している状態となるも信虎と和睦し武田に服従するようになります。

北条氏と今川氏で同盟を結んだり、武田氏と和睦したりするも一時的なところがあり直ぐに抗争が起きていたため和睦など無意味となっていました。そして今川氏輝が当主となると武田との和睦が解消され甲斐と駿河国の国境で一進一退を繰り返していきます。

そこに同盟として援軍を率いて氏綱と氏康が、甲斐国の山中まで進行していき二万四千の大軍で小山田信有と勝沼信友の小山田・武田連合軍を壊滅させ勝利を収めました。この戦の直後に扇谷上杉氏が北条領土に攻め込む素振りを見せたことで氏綱は軍を引き返し撤退します。

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