今回はエドワード7世を取り上げるぞ。長命だった母ヴィクトリア女王の陰に隠れた存在です。

その辺のところを昔からウィンザー家に興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。ヨーロッパの王室に興味津々、例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、エドワード7世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、エドワード7世は、ヴィクトリア女王の長男

image by PIXTA / 33139042

1841年11月9日、ヴィクトリア女王とアルバート公の長男としてバッキンガム宮殿で誕生。12月4日にプリンス・オブ・ウェールズの称号を得て、1842年1月25日に洗礼を受け、父の名と祖父でヴィクトリア女王の父ケント公エドワードの名をとってアルバート・エドワードと命名、愛称は「バーティ」。
年子の姉にヴィクトリア(愛称ヴィッキー)、以下、弟妹としてアリス、アルフレッド、ヘレナ、ルイーズ、アーサー、レオポルド、ベアトリスが次々と生まれて、きょうだいは9人。

後にきょうだいはそれぞれヨーロッパの王室と結婚、孫、甥、姪と親族が増え、ヴィクトリア女王はヨーロッパの祖母、エドワード7世はヨーロッパの伯父と呼ばれたということ。

 

1-2、子供時代は賢い姉の存在が大きかった

Franz Xaver Winterhalter Family of Queen Victoria.jpg
By フランツ・ヴィンターハルター - Royal Collection RCIN 405413, 投稿者自身による作品, user:Rlbberlin, パブリック・ドメイン, Link

両親のヴィクトリア女王とアルバート公はいとこ同士で同い年、若くして結婚して子沢山、エドワード7世は愛ある家庭で育ちました。

しかし、両親の期待を一身に受けた賢すぎる年子の姉ヴィッキーの存在が大きく、姉に較べてエドワード7世は幼少時から不詳の息子と両親をがっかりさせたそう。
姉のヴィッキーは父のアルバートから優れた知性を受け継ぎ、幼少期から、フランス語、ドイツ語、ラテン語を教えられ、5歳になるまでに語学は完全にマスター、母ヴィクトリア女王譲りの画才もあり、厳格なために子供たちに敬遠され気味だった父アルバート公の大のお気に入りの娘で、もし男だったら偉大な君主となったかもといわれたほどで、18歳でプロイセンのフリードリッヒ皇太子と結婚。

1-3、ヴィクトリア女王は愚かな息子と酷評

エドワード7世が社交的なところは認めていたようですが、あまりにも勉強ができないせいで、母ヴィクトリア女王は「バーティーに勉強をあまり詰め込み過ぎないように」と家庭教師にクギをさしたほど。
ヴィクトリア女王は日記を書いていたし(一部しか現存せず)、長女ヴィッキーや親族との手紙のやり取りも頻繁で、膨大な資料が残っているのですが、ヴィッキーに当てた手紙でも、エドワード7世については怠け癖だけでなく、唇や鼻など風貌も気に食わなかったようです。

1-5、エドワード7世、子供の頃からヨーロッパ各地を歴訪

この時代になると、蒸気機関車や蒸気船などの交通が発達したせいか、お金持ちは旅行しまくり、冠婚葬祭など王族同士の交流も盛んに。

そしてイギリス貴族らの間に子弟をヨーロッパ旅行させて見聞を広めるのが流行。

エドワード7世も、8歳のとき姉と両親と共にフランスを公式訪問した際、ナポレオン3世皇帝(ナポレオン1世の甥)が馬車に乗せてくれたときに、「あなたの子供ならよかったのに」と言ったという話がありますが、1852年にはベルギーの大叔父レオポルド1世を訪ねたり、1855年にはフランスを訪問、1859年1月から5月にかけてイタリアに留学など、若くして旅に出て修業を。

1-6、エドワード7世、大学で問題を起こす

エドワード7世は1859年10月にオックスフォード大学に入学、これはイギリス歴代国王で初めての大学入学。在学中の1860年7月から11月までイギリス領カナダ、アメリカ合衆国各地を歴訪。1861年夏に陸軍に入隊したが、10月にはケンブリッジ大学へ転校。

しかしエドワード7世は不良学生仲間が多く、その頃付き合っていた女優のネリー・クリフデンが、エドワード7世との仲を暴露してスキャンダルに。

そこで11月に体調不良だった父アルバートが無理をしてケンブリッジを訪問、エドワード7世に説教を。この無理がたたってアルバートの体調が悪化、12月に42歳で死去。ヴィクトリア女王は愛するアルバート公の死の原因となった「愚かな息子」エドワード7世を許さず、公務からも遠ざけたということ。

\次のページで「2-1、エドワード7世、デンマーク王女と結婚」を解説!/

2-1、エドワード7世、デンマーク王女と結婚

Princess Alexandra of Denmark, later Princess of Wales.jpg
By Robert Jefferson Bingham (1825-1870) - Royal Collection RCIN 2108509, パブリック・ドメイン, Link

エドワード7世の両親ヴィクトリア女王とアルバート公は、勉学や素行で期待外れの連続の王太子エドワード7世に、せめてしっかりしたお嫁さんを迎えて身を固めさせようとしました。

そして美人好みの息子のために、ヨーロッパ中のふさわしい家柄で美貌のお姫様を探しまくったということ。そこで候補に挙がったのが、デンマーク国王クリスチャン9世の王女アレクサンドラ。

しかしアルバート公もヴィクトリア女王の母もドイツ出身、長女ヴィッキーはプロイセン皇太子と結婚していたし、当時のイギリスはドイツ寄りだったので、デンマーク王家と婚姻関係を結ぶのはちょっと問題があったのですが、お見合いでエドワード7世が気に入り、ヴィクトリア女王ら家族もアレクサンドラ王女を気に入ったので、そこを押して1863年3月、エドワード7世は22歳のときに19歳のアレクサンドラと結婚。

このカップルは、長男アルバート・ヴィクター、次男のジョージをはじめ、3男3女(1人夭折)の子供に恵まれましたが、エドワード7世の素行は改まらず、愛人を作りまくったということ。

これはすごい、滅茶苦茶美人なお嫁さんだぞ。それでも浮気してたのかよ。

アレクサンドラ王妃とは
アレクサンドラ王妃は美貌で優しくヴィクトリア女王のお気に入り、時間を守らない欠点や、難聴というハンデもありましたが、チャリティー活動なども熱心で、あのエレファントマンで有名なジョゼフ・メリックともきちんと目線を合わせて会話したなどの逸話もあり、華やかで社交的で王室の中心に。
エドワード7世の不倫、冷めきった夫婦仲に耐えつつも、息子たちには「お父さまの様に愚かな人間になってはだめ」と言い聞かせていたということ

アレクサンドラ王妃は、妹のロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后となったダウマー(愛称ミニー、マリア皇后)とは仲が良く、毎年パリでお揃いのドレスでパーティーに出たり、デンマークでお互いの家族をつれて集まって休暇を楽しんだりしていたそう。

アレクサンドラ王妃の次男ジョージ(後のジョージ5世)とマリア皇后の長男ニコライ(後のニコライ2世)は、双子のようにそっくりなのは有名。

2-2、エドワード7世、スキャンダルに巻き込まれるが奇跡的回復

1870年、モーダント准男爵と夫人との離婚訴訟で、エドワード7世はモーダント准男爵の妻の友人として、裁判で証言する事態になって、世間から皇太子としての資質を疑われる羽目に。この頃はヴィクトリア女王がアルバート公の崩御後に引きこもっていたこと、フランスが共和制に移行したなどの影響もあり、王室人気は危機的状況に。

当時のグラッドストン首相は外相にあてた手紙の中で「女王は姿が見えず、皇太子は尊敬されていない」と憂慮したほど。
しかしエドワード7世は、1871年11月から12月に腸チフスで命の危機に瀕し、もうだめかと思われたところを父アルバート公の誕生日を境に奇跡的に回復、国民に意外なアピールとなって王室人気を回復。エドワード7世も、回復後は別人のように性格が穏やかに。

1890年には、再び賭け事のバカラを巡ってのスキャンダルに巻き込まれて訴訟問題になり、非難を浴びたということ。

2-3、エドワード7世、ピース・メーカーとして活動

エドワード7世の姉ヴィッキーはプロイセンのヴィルヘルム皇太子と結婚、弟のエジンバラ公はロシアのアレクサンドル2世の娘マリア大公女と結婚、アレクサンドラ妃の父はデンマーク国王クリスチャン9世で、妹はロシア皇帝アレクサンドル3世と結婚、弟のゲオルギウスはギリシア国王、ベルギー国王は大叔父のレオポルド1世であるなど、ヨーロッパ中に親戚がいたせいか、エドワード7世は外遊をよくし、ロシア皇室と親密になるなど、アルバート公が亡くなって以後、引きこもりがちになった母ヴィクトリア女王に代わり、意欲的に活動したということ。

しかし1864年にアレクサンドラ妃の母国デンマークと、プロイセン、オーストリアの間に第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発したとき、エドワード7世はデンマークを助けようと同戦争を仲裁、国際会議としてロンドン会議開催を後援したが、同会議は失敗、結局デンマークはシュレースヴィヒとホルシュタインを失うことに。

このことでエドワード7世とアレクサンドラ妃は反プロイセンとなり、アレクサンドラ妃はますますドイツ嫌いに。
その後、エドワード7世は、アレクサンドラ妃の妹とロシア皇太子の結婚式に参列してロシア皇帝との友好を深めたり、ギリシャやトルコ、エジプトなど他国との関係改善に大きな役割を果たし、当時盛んだった万国博覧会にもイギリスが積極的に参加するよう進言、パリ万国博覧会やウィーン万国博覧会などに列席。

2-4、エドワード7世の息子たち

Jorge v e irmão alberto.jpg
By 不明 - http://forum.alexanderpalace.org, パブリック・ドメイン, Link

スタンリー・ワイントラウブ著「ヴィクトリア女王」によれば、1876年、エドワード7世の長男アルバート・ヴィクターと次男のジョージは、家庭教師について教育を受けていましたが、大学へ行く年頃になったとき、ヴィクトリア女王とエドワード7世が、息子たちをウエリントン・カレッジにいかせたいと言うと、家庭教師はその水準には達していないと断言。

アルバート・ヴィクターはのみ込みが遅い、ジョージは物覚えがのろい」、それではアルバート・ヴィクターだけでも大学へ、ジョージは海軍へとヴィクトリア女王が提案したところ、「とんでもない、側でジョージが激励しないとアルバート・ヴィクターは机に向かわない、ジョージと離れ離れになったらアルバート・ヴィクターの教育は一層困難になる」ということで、しょうがないので2人そろって海軍に送り込んだということでした。

彼らは後に船で世界周遊の旅へ、そして明治維新なったばかりの日本も訪問、明治天皇と会見、旅行記も書いています。ヴィクトリア女王はエドワード7世が愚かだと嘆いたけれど、直孫のアルバート・ヴィクター王子までも不出来だとわかってかなり嘆いたみたいです。

2-5、アルバート・ヴィクター王子の結婚問題と死去

エドワード7世に良いお嫁さんをもらって身を固めさせようとしたのと同じく、ヴィクトリア女王は孫のアルバート・ヴィクター王子にも良いお嫁さんをもらおうと、数多くいる孫娘たちのだれかを嫁にと考えていました。
そこで一番お気に入りの孫娘、次女アリスの娘でヘッセン公女のアリックスをアルバート・ヴィクターと結婚させたがっていたのですが、アルバート・ヴィクター王子は頭が悪いだけでなく、一説には梅毒にかかっている、両性愛者である、はては「切り裂きジャックの犯人説」まである評判の悪い人で、大勢の従妹たちがほぼ全員嫌がったということです。
もちろん、アリックス公女も「命令なら従うが、絶対に嫌だ」と断った後、アリックス公女を熱愛するロシア皇太子ニコライと結婚。

アレクサンドラ妃は、夫の姪でもあるアリックス公女を子供のときから知っていたけれど社交的でない性格が王妃に向かないと嫌っていたので、この結婚には反対、その話を聞いていた妹のニコライ2世の母后マリア皇太后も自分の息子との結婚に反対で、アリックス公女を嫌っていたということ。
アリックスとマリア皇太后との仲は最悪で、アリックスがロシア宮廷で孤立する原因に。親戚同士の結婚もなかなか難しいですね。

ということで、アルバート・ヴィクター王子の相手に親戚のテック公爵の娘メアリに白羽の矢が。ヴィクトリア女王は自分の従妹であるメアリの母は嫌っていたけれど、メアリは気に入り、アルバート・ヴィクター王子とも仲良くしているので結婚させることに。しかしアルバート・ヴィクター王子は結婚前にいいところを見せようとしたらしく、風邪気味を無理してヴィクトリア女王の行事に付き合い風邪をこじらせて肺炎で急死

突然婚約者に死なれたメアリはあまりに気の毒と国民からも同情が集まり、エドワード7世夫妻もメアリを引き続き娘待遇、そして弟のジョージに打診し、兄の元婚約者と結婚させたということ。
後のジョージ5世とメアリ王妃のカップルは愛人もなくとても円満で、4男1女をもうけました。

\次のページで「3-1、エドワード7世、59歳で即位」を解説!/

3-1、エドワード7世、59歳で即位

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By W. & D. Downey - Weltrundschau zu Reclams Universum 1902, パブリック・ドメイン, Link

1901年、ヴィクトリア女王が80歳で死去、59歳で国王となったエドワード7世は、エドワード7世を名乗ることを宣言。

母ヴィクトリア女王は、アルバート・エドワードと名乗ってほしかったようですが、二つの名を持った国王は前例がないこと、またアルバートを名乗ることは、すでにメルバーン卿がノルマンディー公ウィリアム以来使われたことがないと反対していたそう。
エドワード7世は、「アルバートと言えば、アルバート・ザ・グッドとして、誰もが父を思い出すようにしたかった」とアルバートを名乗らない理由を説明。また母ヴィクトリア女王の遺言によって、王朝名をハノーファー朝から父アルバートの家名サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝に変更。

また、ヴィクトリア女王が晩年、どこへ行くにも連れて行ったというインド人侍従ムンシーらをインドへ送還し、ヴィクトリア女王が好み、最期を迎えたワイト島のオズボーン・ハウスも売っぱらってしまったそう(その後、オズボーン海軍士官学校に)。

3-2、日英同盟が締結

1895年の日清戦争後、列強諸国による中国分割が開始され、満洲や北中国を勢力範囲とねらうロシアと揚子江流域の権益を保持したいイギリスとの対立。

1900年義和団の乱が勃発し、列強の連合軍によって鎮圧、ロシアは満洲を軍事占領したので、イギリスのソールズベリー内閣は、ロシアの満洲・朝鮮半島進出を警戒していた日本と同盟交渉を。

1901年1月に即位したエドワードも日本との同盟に前向きで、12月27日に訪英中の日本の元首相伊藤博文侯爵を休暇中に関わらず引見。伊藤はイギリス政界から「親ロシア派と警戒されていたにもかかわらずすぐにエドワード7世と打ち解けたということ。そして伊藤の帰国後、1902年1月30日に日英同盟が正式に調印

3-3、日露戦争では

1904年に日露戦争勃発、エドワード7世は、アレクサンドラ妃の甥であるニコライ2世のロシアと、日英同盟を締結した日本の同盟国という立場から、日露講和のための仲介役を買って出たけれど、ニコライ2世が拒絶。

しかしニコライ2世に待望の皇太子が誕生したときは、喜んで洗礼時の代父を引き受けたそう。また、バルチック艦隊が日本海へ向かう途中、ドッガーバンクでイギリス漁船を日本の水雷艇と間違って砲撃、多くのイギリス人漁民が救助されずに水死した事件が発生したときは、ニコライ2世の謝罪の手紙に対して怒りの返信を。

尚、このときのイギリス世論の後押しもあり、バルチック艦隊は当時イギリス領だったスエズ運河を日英同盟を盾に通してもらえず南アフリカ航路に遠回りせざるを得ず、士気がガタ落ちで日本海海戦での敗戦につながったといわれています。

そしてエドワード7世は、当初の予想を裏切って日露戦争に勝利した同盟国日本を祝福し、戦後はロシアとの関係修復のために、英露協商を締結し、英仏協商、露仏協商、日英同盟と合わせて英仏日露の四カ国関係の安定を。

3-4、エドワード7世、68歳で崩御

エドワード7世は1910年、気管支炎で崩御。最後の言葉は「私は絶対に病には屈さない。最後まで仕事を続けるぞ」だったということ。
尚、夫婦仲は冷え切っていたが、アレクサンドラ王妃は、エドワード7世の寝室に最期のお別れとして率先して友人たち、それに愛人のアリス・ケッペルも招きましたが、臨終のすぐあとに「その女、出て行け」と言った、いや言わなかったといまだに謎が。

4-1、エドワード7世の逸話

ファッションリーダーで競馬好き、艶福家、外交上手の裏には色々な逸話も。

4-2、幕末の日本駐在イギリス外交官だったミットフォードが親友

日本の明治維新の際、長州や薩摩のバックにいて物心両面で援助していた日本駐在のイギリス外交官の中に、アルジャーノン・バートラム・ミットフォードがいました。ミットフォードは幕末に外交官として日本に赴任し、アーネスト・サトウらと共に活動、1年程度で日本語もペラペラになり、明治政府が華族制度などを作るときの相談に乗ったりし、帰国後には「古い日本の物語」を出版。

このミットフォードは、エドワード7世の親友、1872年には財務省工務局の副長官を務めたり、ジェントリ―階級の出身で貴族とのつながりもあり、後に親戚の爵位を継いでリズデール卿に。
1906年、日露戦争後に明治天皇へガーター勲章授与のためにエドワード7世の弟コンノート公が来日時、リズデール卿として随行、伊藤博文ら維新以来の元志士たちとも再会し、名前が違ったのでびっくりされたなどと回想録を書いています。

4-3、息子たちをはじめ来日経験者が多い

明治初頭には、エドワード7世の長男アルバート・ヴィクター王子とジョージ王子(後のジョージ5世)が海軍の船に乗って来日し、竜の刺青を入れているほか、明治2年にはエドワード7世のもう一人の弟であるエジンバラ公も来日、アレクサンドラ妃の甥にあたるロシアのニコライ2世も皇太子時代に来日、エドワード7世の姉ヴィッキーの次男プロイセンのハインリヒ王子も来日経験ありと、エドワード7世の身内には来日経験のある人が多数存在。

彼らは現在のように飛行機で来て2泊3日の滞在ではなく、船で長崎に来航して九州から神戸、京都、東京と、じっくり1か月ほど日本に滞在だったこと、親友にミットフォードのようなかなりの知日家がいたことは特筆すべきことかも

\次のページで「4-4、オリンピックのマラソンの距離を決めた」を解説!/

4-4、オリンピックのマラソンの距離を決めた

これはエドワード7世というよりもアレクサンドラ王妃の逸話ですが、マラソンの距離が42.195kmになったのは、1908年のロンドンオリンピックの際、アレクサンドラ王妃が、スタート地点は宮殿の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前にと注文をつけたことが由来。

当初はウィンザー城からシェファードブッシュ競技場の42km弱(26マイル)をルートとしていたものの、スタート地点がウィンザー城の子供部屋から見える場所という注文で、半端な数字の距離(385ヤード)が延長されたというのは有名。

4-5、プリンスオブウェールズと名の付くものはエドワード7世由来

エドワード7世は王太子時代が長かったため、カナダのプリンスオブウェールズ島など、プリンスオブウェールズと名の付く地名、プリンスオブウェールズというチェックの柄などは、ほとんどエドワード7世が由来であるということ。
また、エドワード7世は、ディレクターズ・スーツ、三つ揃いを礼装にしたりなど、ファッションリーダーとしても有名

4-6、ヴィクトリア女王に睨まれ震え上がったことも

エドワード7世は子供の頃から両親に出来が悪いと評価され、50歳になっても母の命令で公務に関わらせてもらえず。ヴィクトリア女王は無能な息子が自分より長生きしないことを祈ったほどでした。
エドワード7世は、52歳のときですら、ある晩餐会に遅刻、そっと自分の席へ向かおうとしたが、正面の主賓席の女王から鋭い一瞥をされて震えあがり、自分の席まで行けない、しかしドアから出るわけにもいかず、柱の陰で立ち尽くしたそう。
これは漫画になっているほど有名。

4-7、俗称ロイヤル・ミストレスという愛人

皇太子時代、エドワード7世は学生の時にすでに女優と浮名を流して、亡くなる直前の父アルバート公に説教されても、美貌のアレクサンドラ妃と結婚しても、全然懲りずに、売春婦を除いて101人の女性と関係を持ったということ。恋愛問題をめぐってウィンストン・チャーチルの父、ランドルフ・チャーチル卿に決闘を申し込んだことさえあるそう。

数多い愛人の中でも、特にエドワード7世の「ロイヤル・ミストレス」と言われた女性は3人
ひとり目は1880年に別れたリリー・ラングトリー、そして2人目は1889年から1897年まで続いたウォリック伯爵夫人デイジー・グレンヴィルで、エドワード7世はデイジーを相談相手の妻のように扱い、「デイジー・ワイフ」と呼んでいたということ。
デイジーがその後社会主義運動にのめり込み、政治面でもエドワード7世に影響を及ぼしたため、エドワード7世は1894年に貴族院で「貧民街改善案」を訴えるまでに。

また、3人目にして1898年から1910年の崩御までは、有名なアリス・ケッペル夫人(現チャールズ王太子夫人カミラの曾祖母)、スコットランドの準男爵家の令嬢で、第7代アルビマール伯爵ウィリアムの3男ジョージ夫人。エドワード7世とは27歳の年齢差で、エドワード7世の側で、励ましたり、慰めたり、看病したりと世話を焼いたため、エドワード7世は片時も手放さなかったそう。

4-8、競馬に夢中

image by PIXTA / 54045697

エドワード7世は、競走馬の馬主としてサンドリンガムに牧場を作ってサラブレッドを生産、飼育し、色々なレースで勝利したそう。ヴィクトリア女王もアレクサンドラ妃も、無類のわんこ好きだったということなので、現在のエリザベス2世女王の馬とわんこ好きは立派な遺伝。

ヴィクトリア女王に酷評されたわりに外交で成果を

エドワード7世は、母ヴィクトリア女王と父アルバート公の大きな期待に添える資質はなく、ハノーバー朝の王族のように愛人を作ったりスキャンダルに巻き込まれたり。

とはいえ、9年間の短い国王としての在位中、ロシアからスペインまで、政略結婚や恋愛結婚でヨーロッパ中に張り巡らされた親族たちとの関係もあり、また社交的な面を生かしてピース・メーカーと呼ばれるほど外交上手として有能さを発揮、もう少し長生きしたら第一次世界大戦は避けられたかも言われるほどなので、最後まで母ヴィクトリア女王には頭が上がらなかったのも、無意味な対立、衝突を避けたかったのかもしれないですね。

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イギリスヨーロッパの歴史世界史歴史

チャールズ王太子に抜かれた王太子歴60年の「エドワード7世」意外な外交上手について歴女がわかりやすく解説

今回はエドワード7世を取り上げるぞ。長命だった母ヴィクトリア女王の陰に隠れた存在です。

その辺のところを昔からウィンザー家に興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。ヨーロッパの王室に興味津々、例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、エドワード7世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、エドワード7世は、ヴィクトリア女王の長男

image by PIXTA / 33139042

1841年11月9日、ヴィクトリア女王とアルバート公の長男としてバッキンガム宮殿で誕生。12月4日にプリンス・オブ・ウェールズの称号を得て、1842年1月25日に洗礼を受け、父の名と祖父でヴィクトリア女王の父ケント公エドワードの名をとってアルバート・エドワードと命名、愛称は「バーティ」。
年子の姉にヴィクトリア(愛称ヴィッキー)、以下、弟妹としてアリス、アルフレッド、ヘレナ、ルイーズ、アーサー、レオポルド、ベアトリスが次々と生まれて、きょうだいは9人。

後にきょうだいはそれぞれヨーロッパの王室と結婚、孫、甥、姪と親族が増え、ヴィクトリア女王はヨーロッパの祖母、エドワード7世はヨーロッパの伯父と呼ばれたということ。

 

1-2、子供時代は賢い姉の存在が大きかった

Franz Xaver Winterhalter Family of Queen Victoria.jpg
By フランツ・ヴィンターハルターRoyal Collection RCIN 405413, 投稿者自身による作品, user:Rlbberlin, パブリック・ドメイン, Link

両親のヴィクトリア女王とアルバート公はいとこ同士で同い年、若くして結婚して子沢山、エドワード7世は愛ある家庭で育ちました。

しかし、両親の期待を一身に受けた賢すぎる年子の姉ヴィッキーの存在が大きく、姉に較べてエドワード7世は幼少時から不詳の息子と両親をがっかりさせたそう。
姉のヴィッキーは父のアルバートから優れた知性を受け継ぎ、幼少期から、フランス語、ドイツ語、ラテン語を教えられ、5歳になるまでに語学は完全にマスター、母ヴィクトリア女王譲りの画才もあり、厳格なために子供たちに敬遠され気味だった父アルバート公の大のお気に入りの娘で、もし男だったら偉大な君主となったかもといわれたほどで、18歳でプロイセンのフリードリッヒ皇太子と結婚。

1-3、ヴィクトリア女王は愚かな息子と酷評

エドワード7世が社交的なところは認めていたようですが、あまりにも勉強ができないせいで、母ヴィクトリア女王は「バーティーに勉強をあまり詰め込み過ぎないように」と家庭教師にクギをさしたほど。
ヴィクトリア女王は日記を書いていたし(一部しか現存せず)、長女ヴィッキーや親族との手紙のやり取りも頻繁で、膨大な資料が残っているのですが、ヴィッキーに当てた手紙でも、エドワード7世については怠け癖だけでなく、唇や鼻など風貌も気に食わなかったようです。

1-5、エドワード7世、子供の頃からヨーロッパ各地を歴訪

この時代になると、蒸気機関車や蒸気船などの交通が発達したせいか、お金持ちは旅行しまくり、冠婚葬祭など王族同士の交流も盛んに。

そしてイギリス貴族らの間に子弟をヨーロッパ旅行させて見聞を広めるのが流行。

エドワード7世も、8歳のとき姉と両親と共にフランスを公式訪問した際、ナポレオン3世皇帝(ナポレオン1世の甥)が馬車に乗せてくれたときに、「あなたの子供ならよかったのに」と言ったという話がありますが、1852年にはベルギーの大叔父レオポルド1世を訪ねたり、1855年にはフランスを訪問、1859年1月から5月にかけてイタリアに留学など、若くして旅に出て修業を。

1-6、エドワード7世、大学で問題を起こす

エドワード7世は1859年10月にオックスフォード大学に入学、これはイギリス歴代国王で初めての大学入学。在学中の1860年7月から11月までイギリス領カナダ、アメリカ合衆国各地を歴訪。1861年夏に陸軍に入隊したが、10月にはケンブリッジ大学へ転校。

しかしエドワード7世は不良学生仲間が多く、その頃付き合っていた女優のネリー・クリフデンが、エドワード7世との仲を暴露してスキャンダルに。

そこで11月に体調不良だった父アルバートが無理をしてケンブリッジを訪問、エドワード7世に説教を。この無理がたたってアルバートの体調が悪化、12月に42歳で死去。ヴィクトリア女王は愛するアルバート公の死の原因となった「愚かな息子」エドワード7世を許さず、公務からも遠ざけたということ。

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