佞臣・張兄弟
高齢な武照は、体力的に次第に政治の実務に携わることが難しくなっていました。代わりに側近として仕えて権力を行使したのが張易之・張昌宗の兄弟です。美男子であり教養豊かということで武后の娘である太平公主の推薦で仕えることになったのですが、韋一族に中宗がそうしようとしたように、功なく朝廷の高官となって賄賂政治を進めたため、周囲の反感を買っていました。
武一族の粛清
そんな張兄弟を除こうとしたのが、廃皇帝である中宗の嫡男・李重潤や武一族の武延基です。しかしこの企みは事前に張兄弟に漏れ、武照に密告されることにより一味は逆に逮捕・処刑されました。李一族のみならず武一族であっても粛清を進めたのです。既に判断力が衰えていたのかもしれません。
クーデターにより退位
西暦705年1月、82歳の高齢を迎えた武照は重病の床にありました。この時、狄仁傑により推挙され朝廷に仕えていた重臣・張柬之は兵を率いてクーデターを実行。張兄弟を斬り、廃位された中宗を押し立てて武照に譲位を迫ります。説得された武照は「則天大聖皇帝」の尊称をもって退位することを宣言。唐が復活することになりました。
周が続かなかった理由
生前、高齢な武后は自分の跡を継ぐ皇太子を誰にすべきか悩みます。自らの出身一族である武氏にすべきか、それとも李氏にすべきか。甥の武三思らが皇太子の地位を狙って政治運動を進める中、ある時、宰相・狄仁傑はこう諫めます。
昔、太宗は風雨や矢玉をものともせず、自ら大変な苦難を乗り越えて天下を平定し、これを子孫に伝えました。また高宗は二人の皇子(李顕・李旦)を陛下にお託しになったのです。それにも関わらず、皇位を他の血族に移し変えようとなされるのは、天意ではありません。
かつ、叔母と甥の間柄と母子の間柄とは、どちらが親しみ深いと考えられますか。陛下が甥を天子としましても、その叔母を祭祀に祭った者がいるとは聞いたことがございません。
武照は、自らが皇后に立后された時と同じ理屈、すなわち皇帝の家庭内事情である、と反論します。
しかし狄仁傑は、国家の大事は国全てに関わることであり、まして宰相である自分一人納得出来ないようでは駄目だ、と説明。
この言葉に納得した武照は、廃位して流罪とした子の李顕を都に呼び戻して皇太子とし、唐復活の流れを作ったのです。
祭祀の連続性
狄仁傑の諫めは、国の祭祀・国家の大事は過去の国のあり方から連続しているもので、皇后廃立などと違い、家庭事情などにより左右されるものではない、というものです。この頃、唐の朝廷の内部や一般民衆からも、外戚と皇族を同格とすると国が乱れる元となる、という直訴をする者も居ました。
史書は、唐の徳が残っていたと説明しています。しかし、則天武后が周王朝の幕を引き、唐を復活させるに至ったこの経緯は、現在の日本の皇位継承の議論においても参考にすべき点があるのではないでしょうか。