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一世の女傑「則天武后」を歴史オタクが5分でわかりやすく解説!その経歴をまとめてみる

皇后となるための謀略

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王妃の目論見通り簫妃への寵愛が武后に向いたのですが、嫉妬した王妃は掌返し。今度は簫妃と手を組んで武后の評判を下げる影口を後宮の女官たちに広めようとします。
精神的な虐めには精神的にやり返すのが筋ですが、武后は荒馬の首に短剣を刺すような恐るべき謀略を実行。生まれたばかりの武后の娘を、武后が不在の折、王妃は無防備にも一人であやしに来たのですが、王妃が部屋を出た直後、娘をその手で絞め殺す所業に出たのです。
指紋鑑定も防犯カメラも無い当時、真っ先に疑われたのは王妃でした。

家族会議

悪魔の証明。やっていないことを説明することは困難です。
状況証拠だけの中、娘を殺されたと怒り心頭の高宗は、太宗時代から重臣で有力貴族であった長孫無忌(ちょうそんむき)らを呼んで御前会議を開催。王妃の皇后廃立をはかります。皇后である王妃には皇子がおらず、武后には皇子がいたことも理由です。
長孫無忌らは、軽々しく皇后廃立を決めるべきではないと猛然と反対。しかし重臣の一人である徐勣(じょせき)がおもむろに「陛下の家庭内の問題であり、ご随意に」と述べたことがきっかけとなって他の官僚らは皇后廃立に傾きます。王妃のみならず簫妃も、一族もろとも庶民の身分に落とされ、後宮から追い出されることになりました。

後宮の粛清

後宮の敵への追及は苛烈を極めます。庶民に落とされたと言っても元は夫婦の仲であった元妻たちの身を案じた心優しい高宗。彼女らの幽閉先に見舞いに行ったのですが、食事も碌に与えられない現状を哀れに思ったのでしょう。「既に処置を考えてある」と言い残して去ったようです。
これを聞いた武后。すぐさま手の者をやり、王妃と簫妃を百叩きにした上で、両手両足を切断。いわゆるダルマの状態で酒壺の中に投げ入れて「骨まで酔いなさい」と毒づいたと、史書は書き残しています。倍返ししたら、気付いたら命まで奪っていた、ということでしょうか。なんとも恐ろしい女性です。

唐の武皇后

唐の高宗の皇后となった武后。夫の補佐をします。

子沢山

西暦655年、王妃に代わり皇后に昇格。高宗との間に、4人の男子(李弘李賢李顕李旦)・2人の女子(安定公主、太平公主)を儲けます。皇后となった翌年に早速、他の年長の皇子を差し置いて、自分の長男である李弘を4歳にして皇太子に立てて、皇后としての地位を強化。抜け目ありません。
この時代の唐は、西暦660年の日本との白村江の戦いに勝ち、新羅を助けて百済・高句麗を滅ぼして版図は過去最大。しかし対外的な華々しさとは裏腹に、唐の宮廷は血生臭さを増してい

長子・李弘の死

先に殺された簫妃には娘が2人いました。当時の結婚適齢期である30歳を越えても武后の妨害でどこにも嫁ぐことの出来ません。姉たちの境遇を不憫に思った心優しい皇太子李弘は、父帝である高宗に相談して重臣の誰かに嫁げるように取り図らいます。
しかしこれを伝え聞いた武后。どこまでも陰険です。李弘の邪魔をして、重臣ではなく身分の低い軍人へ嫁がせてしまいます。李弘もこの直後になぜか急死を遂げたのでした。何ともタイミングが悪い急死ですね。

次子・李賢の追放

李弘の次に皇太子になったのは次男の李賢でした。しかしこの李賢も難が降りかかります。
武后が重宝していた祈祷師が殺害される事件があったのですが、武后の一派である検察官吏が皇太子である李賢を怪しいと思い屋敷を調べたところ、数百の鎧を発見。自身のお気に入りの祈祷師を殺されたと思った武后は、謀反の疑いを加えた上で皇太子の地位を剥奪。地方に流罪とします。
それで無事に余生を過ごせたのでしょうか。いえ、全く無事に済んでおらず、高宗が崩御した翌年に自殺を命じられたのでした。

三子・李顕の廃位

西暦683年、高宗が崩御。太子の李顕中宗として即位するも、李顕は温和な高宗に輪をかけて温和。つまりは気弱であり、政治の実権は武后にありました。かかあ天下ですね。
しかし気弱ながらも母親に逆らえない現状に不満を持つ中宗は、嫁である皇后・韋后とその実家韋一族を頼ろうとします。韋后の父親である韋玄貞を皇帝の近侍である重臣の侍中として取り立てて、外戚同士で政治的にバランスを取ろうとしたようですね。
しかし、韋玄貞にはこれといった大きな功績はありません。外戚を一足飛びに高官に任命させることに反対する官僚たちを前に、中宗は柄にも無く、つい激高したのでしょう。「朕がその気になれば唐の国を韋玄貞に与えることが出来る。」とまで言ってしまいます。

これを伝え聞いた武后。文武百官を緊急招集して中宗の廃位を宣言。両脇を抱えて皇帝の座から無理やり引きずり下ろし、皇帝から王に格下げとします。その後は、弟の李旦睿宗を皇位につけ、武則天は称制して垂簾政治を行うことに。この間、中宗の在位期間はわずか54日でした。気弱にしても、大の男が老女に引き摺り下ろされる様は、何とも情けないものです。

唐の皇族・重臣らの反乱

皇帝を蔑ろにするこの武后の動きに反感を持つ者が現れます。唐の皇族や重臣たちが以下のように挙兵しますが、武運に恵まれず、全て短期間で鎮圧されてしまいました。

西暦684年 徐敬業の反乱(徐勣の孫)
西暦688年 李貞(太宗李世民の八男)とその子李沖

舞台が整ったと見た武后は西暦690年、遂に睿宗を廃して武氏に改姓させて王に格下げし、自らが皇帝に即位して周王朝を創始。洛陽に都を置きます。

周の皇帝・武照

皇帝に即位した武后。唐の行政機構を引き継ぎつつ、特色のある政策を進めます。

優秀な官吏の登用

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隋から始まった科挙は唐にも継承されていましたが、武照は、科挙に合格した優秀な人材を側近として積極的に登用ししました。これは、唐の功臣貴族たち・武川鎮軍閥を牽制する政治派閥を作るため、とも言われています。中でも狄仁傑は武照と論戦してやり込めるほどの識者であり、多くの有能な人材を推挙。国老とまで呼ばれる名宰相でした。

新しい名前が大好き

何でも新しくするのが好きなのか、名前などを新しくしました。

・頻繁な改元  
  在位15年のうち、13回の改元(元号)を実行
・皇帝や皇后の尊称を変える
  皇帝・高宗を「天帝」、皇后を「天后」と改称
・都の名前を変える
  洛陽を神都と改称

密告奨励

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即位前から進めていたことですが、自身に対する反乱を未然に防ぎ、また、反抗する気を起こさせなくするために、秘密警察である酷吏を登用。さらに密告を奨励しています。
この密告、嘘や間違いであってもお咎め無しなので偽証や冤罪が噴出。一方で、容疑者への取り調べは過酷を極めたため、嘘の自白をさせられたりと散々な目に遭う人が増加。酷吏への恨みが募っていったのですが、武照は恨みが募る度に酷吏を処刑しています。自分へ恨みが向く前に、上手く使い捨てていたわけですね。

周王朝の幕引き

皇帝となった時の武照は既に66歳。当時では高齢でした。武照の周は長続きせず、彼女一代で終わることになります。

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