今回は則天武后の経歴について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。
ライター/kei
10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は中国史上唯一の女帝・則天武后をわかりやすくまとめた。
則天武后とは
By 不明 – Image taken from An 18th century album of portraits of 86 emperors of China, with Chinese historical notes. Originally published/produced in China, 18th century. (British Library, Shelfmark Or. 2231), パブリック・ドメイン, Link
則天武后は通称です。正しくは武照という名の女性で、中国の唐(西暦618年~907年)の時代、唐の第三代皇帝高宗(西暦628年~683年)の皇后でした。しかし則天武后は皇后に収まらず、皇帝にまで上り詰めた中国史唯一の女性でもあります。女傑・則天武后の人となりはどのようなものだったのでしょうか。
裕福な家庭に生まれる
武照の父・武士彠(ぶしかく)は太原(現在の山西省)の出身で、当地の有力商人でした。武士彠は隋末の混乱の最中、唐の始祖となる太祖・李淵に資金援助を行い、李淵が唐を建国した後にその功績により太原郡公を拝命。西暦624年、武照は武士彠の次女として生まれました。
生まれつきの美貌と英才教育
生まれつきの見た目が良く、媚娘と命名された武照は親に可愛がられたようです。史書では、少女期の媚娘は
漆黒の髪
切れ長で大きな目
雪のような肌
桃色の唇
薔薇色の頬
大きな胸
見る者を魅了する笑顔
を備えていたと書き残しています。ちょっとしたポエムであり、褒め過ぎなような気もしますね。
ともかくも裕福な家庭に育った媚娘は英才教育を受け、生まれつきの美貌に加えて才女となるわけです。才色兼備の女性・武照は、14歳にして唐の太宗・李世民の後宮(皇帝の后たちが住まう宮殿)に女官として入内。そこから彼女の宮廷生活が始まるわけですが、太宗からの寵愛を受けたわけではありませんでした。
男勝りな女性
image by iStockphoto
さっきのような女性が居たら、男なら誰でも惹かれると思うのですが、太宗と上手くいかなかったのは何だったのでしょうか。それは、女性らしからぬ男勝りな性格でした。
太宗が所有する名馬の中に、男が誰も乗れない荒馬が居たのですが、ある時に太宗はどのようにしたら乗れるだろうかと武照に尋ねたことがあります。その時の答えは、
鉄鞭で打ち据え、
それで駄目なら鉄の轡を首に突き刺し、
それで駄目なら短剣で喉を掻き切る。
というもの。
それを聞いた太宗は、武照の志は「壮(男らしくて血気盛ん)」なり、とのみ答えたようです。
人によっては、内心冷や汗をかいてしまうかもしれませんね。
出家して道士になる
太宗との間は20歳の年の差があり、また剛毅な太宗の好みは内助の功を尽くしてくれるお淑やかな女性だったようです。性格の不一致があった武照との間では、子を授かることはありませんでした。そのまま太宗が崩御してしまうに及んで、道士として出家することになります。
草食系息子の后になる
世捨て人になり、このまま生涯を終えることになったのでしょうか。しかし、悪運にも恵まれていたのでしょう。運命は単純ではありませんでした。
太宗が崩御した後、西暦649年、高宗・李治が第三代皇帝として即位。皇太子の時代に武照と会うことがあった高宗は、父帝と違い温和な人物だったようで、父帝とは違い、才色兼備な武照が気になっていたようです。
一方、当時の後宮には皇后王妃と寵姫・簫妃がいて高宗の寵愛争いをしていました。その争い敗れそうになった王妃が手引きして還俗させることにより、武照は出家の身から舞い戻って高宗の后の一人になります。
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