歴史的な合戦を主軸にした文芸ジャンル「軍記物語」は、時に虚構をまじえながらも史料としての役割も果たしている。

今回はこの「軍記物語」がいったいどういうものなのか、ライターのリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。軍記物語の中でも特に『平家物語』について研究した。

古典で出てくる「軍記物語」っていったい何?

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文芸の一大ジャンル「軍記物語」

「軍記物語」は事実をありのまま書いた「叙事文」と違い、登場人物たちの逸話を読み物として読者を楽しませる「物語」です。合戦を主軸にして、社会情勢の動乱とそれに関わる人々を絡め、時に虚構と思われる個所を含めつつ完成されました。動乱の渦中、あるいは動乱を生き延びた作者の体験や、当時の見聞を元に説話風に書かれたことから、物語としての性格が浮き彫りになりました。

どこまでが史実で、どこまでが脚色かは他の資料と比べて整合性を確認しなければならない手間がある反面、年代記としての性格を有しながらも物語としての面白さを持ち合わせています。史料としての価値、文芸としての価値の両方を併せ持った軍記物語は、今日まで大切に保存され、私たち現代人の目に触れることとなりました。

「軍記物語」と「軍記物」の違い

「軍記物語」を調べるとよく似た言葉、ジャンルで「軍記物」がヒットします。どう違うのかと辞書を引いてみると、

「軍記物語は主に平安末から室町時代に書かれた日本古典文学ジャンルのひとつ」

「軍記物は江戸時代に出た小説の一種」

と一応の住み分けがなされていました。しかし、軍記物の項目には「軍記物語に同じ」とも記載されています。時代区分による違いはあっても、枠組みとしてはほとんど同じものなのです。

それでも特色はあるもので、軍記物は主に戦国武将や大名の逸話を中心に書かれています。というのも、江戸時代に書かれた軍記物の多くは大名家の血筋や武勲、それによる幕府の待遇の正当性を主張する各大名家の狙いがあったからです。そのため、ほとんどの大名家が先祖の活躍を記した軍記物を所有している一方、改ざんされた家系図を元にしていたり、子孫による誇張された物語だったことも珍しくなく、軍記物は史料としてはあまり重視されていません。

しかし、江戸時代には軍記物を辻で講釈する大道芸が流行しました。この芸自体、あるいは芸を行う講談師を「軍記読み」と呼びます。大変な盛況ぶりで、青空の下で行われていた興行もやがては専用の小屋が立てられるなどして、当時の文化を彩りました。

軍記物語の嚆矢『将門記』の登場

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謎は多いが史料としての価値がある

軍記物語として一番最初に書かれたのは平将門を主役とした『将門記』でした。大変古いもので、鎌倉時代に成立したとされていますが、正確な成立年、および作者は不明とされています。これらについてはいろんな説はありますが、どれも確定ではなく、また『将門記』の原本も残っていません。数点の写本が現存していますが、いずれの写本も簡単にお目にかかることはできないでしょう。

写本の冒頭には欠けた部分があり、また作者不明といった謎の残る『将門記』は、正確とは言い切れないかもしれません。しかし、平将門の乱の始めから終わりまでが詳細に書かれていることから、史料として高い評価を得ています。

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平将門の乱を記録する『将門記』

『将門記』は平安時代中期の平将門の乱を主軸にした軍記物語です。前述の通り作者、成立年ともに不明とされています。そして、『将門記』のメインストーリーとなる平将門の乱は、関東の豪族だった平将門の一族の内紛から始まり、やがて関東諸国へ大きく広がる内乱でした。

ざっくり解説しますと、最初の一族の内紛とは、平将門の亡き父の所領を横取りした伯父たちとの私闘です。私闘は両者押しつ押されつの末、なんとか平将門が勝利をもぎ取ります。

幾度の争いを越え、周囲から頼られることとなった平将門。後に武蔵守と不和となった興世王を受け入れ、さらに常陸国(茨城県)のお尋ね者だった藤原玄明を匿い、とうとう本当に朝廷と対立することとなるのです。

新しい国を作って王になるも

平将門は軍を率いて常陸国国府を制圧すると、さらに下野国、上野国国府を襲撃して独自の国を立ち上げます。国府というのは、簡単に言うと今の県庁みたいなもので、朝廷から派遣された国司や役人たちが勤めているところでした。なので、「国府を襲撃する=朝廷に対する謀反」であり、もう言い訳はできません。周辺諸国を次々と従えると関東を我がものとしたのです。そして、平将門は自身を新皇として王座につきました。

もちろん、平将門の謀反と独立国の樹立を朝廷が静観しているはずもありません。即座に平将門追討の命令が出、藤原秀郷(俵籐太)と、平将門が殺した伯父の子・平貞盛によってあっけなく打ち取られてしまいます。打ち倒された平将門の首級は都へと持ち帰られ、晒首にされました。独立国を築いてからわずか二ヶ月のことです。

死後の噂までも記述される

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『将門記』は平将門の死で終わりではありません。その後、藤原秀郷など戦に挑んだ武士たちの叙勲から、当時ささやかれた噂話までが書き記されていました。残されている噂の中には、都で晒首にされた平将門の首が大笑いして関東へ向けて飛び去り、東京都千代田区にある平将門の首塚などの場所に落ちたという伝説や、平将門は実はまだ生きていて藤原秀郷たちを追っているなどさまざまで、民衆の間で交わされた噂は尽きません。

さらには平将門が地獄から伝えたという「冥界消息記」までついてきます。内容は、地獄で非情な責め苦を受ける平将門は生前の写経によって一時的にでも救われているというものです。これは神仏の加護について追及したもので、『将門記』には他にも仏教説話が多く散りばめられています。

実はてんやわんやだった朝廷

ここでセットで覚えておきたいのが「関東の平将門の乱」とほぼ同時進行で行われていた「瀬戸内海の藤原純友の乱」です。

当時、瀬戸内海で横行していた海賊たちを討伐していた藤原純友。しかし、相応の報酬を得るどころか他の貴族たちに掠め取られた不満から海賊の頭目へと転身してしまうのです。奇しくも、平将門が新皇と称して独立国を起こしたという報告が朝廷にもたらされたのと同時期でした。東と西の武力勢力に挟まれる形となった朝廷はまず藤原純友の懐柔に取り掛かります。

結局、藤原純友討伐に乗り出した朝廷によって彼が討ち取られたのは、平将門が倒れた一年後のことでした。

時代の転換期を描いた『平家物語』

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大動乱のひとつを切り抜いた物語

『平家物語』もまた鎌倉時代に成立したとされる軍記物語ですが、こちらも正確な成立年、作者は不明です。

しかしながら、実は平安時代末期の動乱は『平家物語』だけでは語りつくせません。『平家物語』の主軸となる源平合戦(治承・寿永の乱)のきっかけを作ることになる保元の乱と平治の乱、さらに源平合戦の後に起こった承久の乱が続くのです。こちらもそれぞれ『保元物語』『平治物語』『承久記』として残され、『平家物語』と合わせて「四部合戦状」と呼ばれます。

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琵琶法師たちに語り継がれた「平曲」

読むだけが軍記物語ではありません。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」から始まる書き出しはあまりにも有名ですよね。血生臭い合戦を書いたもののはずなのに、なんだか音の響きや言葉の選び方がきれいだと思いませんか?なぜなら、『平家物語』は盲目の僧・琵琶法師たちによって弾き語りをされていたからなのです。

琵琶法師たちはその名の通り琵琶を用い、『平家物語』に節をつけた歌にして町中で語って歩いていました。これもひとつの大道芸のようなものですね。盲目の彼らひとりひとりがバラバラに動いていたのではなく、源氏の長者である村上源氏の庇護と管理の下で活動していました。

しかし、「平曲」はただの娯楽ではありません。仏教文学のひとつであり、盲目の「僧侶」に語らせることによって、亡き平家への鎮魂の意味合いもあったのです。

源平合戦の結末を追う

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さて、今回もざっくり源平合戦について解説していきますね。

保元の乱、平治の乱によってライバルの源氏を徹底的に叩きのめした平清盛。彼は太政大臣の位につくと、好き放題に政治を動かしていました。「平家にあらずば、人にあらず」とまで清盛の義兄・平忠時が豪語するほどの独裁政権下ではもちろん不満を持たないものはいません。後白河法皇の息子・以仁王が平家追討の宣旨を発すると、源義仲(木曽義仲)が木曽で、源頼朝が関東で挙兵をはじめました。一進一退の末に両者は平家に打ち勝ち、源義仲へ都へ攻め上がり、片や、源頼朝は関東での地盤固めを進めます。

しかしこの時、平清盛はすでに亡き人となっていました。勢いのついた源義仲はそのまま都から平家を追い出すことに成功します。が、しかし、ここで源義仲の軍は都で略奪を行って都人に嫌われ、さらにはその次の戦いで平家に敗れてしまったために後白河法皇から義仲追討の院宣が源頼朝に下りました。ここで源頼朝に派遣されて源義仲を討ったのが源義経です。源頼朝は弟の源義経に平家追討の軍を任せ、鎌倉からは出てきません。源義経はどんどん平家を西へ西へと追いやり、とうとう壇ノ浦の戦いにて平家を滅亡させたのです。

けっこうややこしい南北朝の『太平記』

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50年に渡る『太平記』の記録

『太平記』もまた作者、成立年不明とされていますが、こちらはこの人が書いたんだろうなぁ、という推測は一応あります。あくまで一応であって確定ではないので、いつかどなたかの研究によって明らかになる日までは作者不明のままですが。

さて、『平家物語』を含めた四部合戦状が足かけ65年なら、太平記は全40巻で50年間の記録を残しています。舞台は南北朝時代から始まり、室町幕府二代目将軍足利義詮の死まで。室町幕府の最盛期は三代目将軍足利義満なので、その一歩手前というところです。主軸になるのは50年間ずっと争い続けた「南北朝の内乱」。そもそも南北朝時代自体がとんでもない時代だったので、この単語はあまり耳にしませんね。

後醍醐天皇の失策と足利尊氏の登場

この時代のなにがとんでもないかと言うと、鎌倉幕府が倒れたという世の中の大きな動きの中、まず当時の天皇家が 二つの血統に分かれていたんです。鎌倉幕府の提案によってこの二つの血統で交互に皇位を継ぐ約束になっていたのですが、鎌倉幕府の滅亡によってご破算となります。

そして、当代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は自らが舵を取る「健武の新政」を開始します。普通、天皇が自ら政治を行うことを「親政」と言うのですが、今回は「新しい政治」ということで「新政」になっていますのでご注意を。この政治の何が破綻していたかというと、鎌倉幕府からずっと武士の世であったために、その反動から平安時代と同じ貴族優先の社会に戻そうとしたんですね。

これに鎌倉幕府を倒した武士たちは激怒します。自分たちががんばって幕府を倒したと言うのに報償もなく、むしろ領地を没収された人までいるのですから、ワンモア幕府!となるわけですよ。そこで選ばれたのが足利尊氏でした。彼は討幕の功があり、しかも、源頼朝と同じ河内源氏の出身です。

しかし、せっかく政権を取り戻した後醍醐天皇がおいそれと足利尊氏が幕府を開くことを認めてくれるはずがありません。そこで足利尊氏はないがしろにされたもう一つの血統に声をかけるわけです。そうして光明天皇の即位と引き換えに、足利尊氏は征夷大将軍に任命されて1338年に室町幕府を開きます。

南北朝時代のはじまり

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もちろん、後醍醐天皇は光明天皇の即位を認めるはずがありません。しかし、光明天皇の背後には足利尊氏をはじめとした武士たちがついているわけで。後醍醐天皇は都から奈良の吉野へと逃れ、天皇を続けます。これが京都の足利尊氏と光明天皇を北とし、吉野の後醍醐天皇を南とした南北朝時代のはじまりですね。この状態は1392年まで続きます。

さて、室町幕府が誕生したわけですが、武士が全員幕府に従ったわけではありません。各地に領地を持つ武士はこのころからすでに守護大名と呼ばれ、自分たちの利益になるようそれぞれ南北にわかれます。ところが、守護大名たちは最初からずっと同じ勢力に味方していたわけではありませんでした。南に味方していたけれど、北の方が条件がいいから明日からそっちにつく!みたいなことがたくさん起こります。この巡るましい展開を描いたのが『太平記』です。

語り継がれた戦争の記録と物語

平安中期の平将門の乱が『将門記』、平安末期の源平合戦が『平家物語』、室町時代と同時にスタートする南北朝時代の大騒動が『太平記』です。

この三作品は歴史を記録すると同時に、当時に生きていた人々の物語でした。ありのままの叙事文と違い、時代に翻弄される人間模様を読み取ることができます。読み物としての一面を持つ貴重な史料のひとつですね。

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室町時代日本史歴史鎌倉時代

「軍記物語」って何?歴史オタクが選ぶ覚えておきたい「軍記物語」3選もご紹介

平将門の乱を記録する『将門記』

『将門記』は平安時代中期の平将門の乱を主軸にした軍記物語です。前述の通り作者、成立年ともに不明とされています。そして、『将門記』のメインストーリーとなる平将門の乱は、関東の豪族だった平将門の一族の内紛から始まり、やがて関東諸国へ大きく広がる内乱でした。

ざっくり解説しますと、最初の一族の内紛とは、平将門の亡き父の所領を横取りした伯父たちとの私闘です。私闘は両者押しつ押されつの末、なんとか平将門が勝利をもぎ取ります。

幾度の争いを越え、周囲から頼られることとなった平将門。後に武蔵守と不和となった興世王を受け入れ、さらに常陸国(茨城県)のお尋ね者だった藤原玄明を匿い、とうとう本当に朝廷と対立することとなるのです。

新しい国を作って王になるも

平将門は軍を率いて常陸国国府を制圧すると、さらに下野国、上野国国府を襲撃して独自の国を立ち上げます。国府というのは、簡単に言うと今の県庁みたいなもので、朝廷から派遣された国司や役人たちが勤めているところでした。なので、「国府を襲撃する=朝廷に対する謀反」であり、もう言い訳はできません。周辺諸国を次々と従えると関東を我がものとしたのです。そして、平将門は自身を新皇として王座につきました。

もちろん、平将門の謀反と独立国の樹立を朝廷が静観しているはずもありません。即座に平将門追討の命令が出、藤原秀郷(俵籐太)と、平将門が殺した伯父の子・平貞盛によってあっけなく打ち取られてしまいます。打ち倒された平将門の首級は都へと持ち帰られ、晒首にされました。独立国を築いてからわずか二ヶ月のことです。

死後の噂までも記述される

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『将門記』は平将門の死で終わりではありません。その後、藤原秀郷など戦に挑んだ武士たちの叙勲から、当時ささやかれた噂話までが書き記されていました。残されている噂の中には、都で晒首にされた平将門の首が大笑いして関東へ向けて飛び去り、東京都千代田区にある平将門の首塚などの場所に落ちたという伝説や、平将門は実はまだ生きていて藤原秀郷たちを追っているなどさまざまで、民衆の間で交わされた噂は尽きません。

さらには平将門が地獄から伝えたという「冥界消息記」までついてきます。内容は、地獄で非情な責め苦を受ける平将門は生前の写経によって一時的にでも救われているというものです。これは神仏の加護について追及したもので、『将門記』には他にも仏教説話が多く散りばめられています。

実はてんやわんやだった朝廷

ここでセットで覚えておきたいのが「関東の平将門の乱」とほぼ同時進行で行われていた「瀬戸内海の藤原純友の乱」です。

当時、瀬戸内海で横行していた海賊たちを討伐していた藤原純友。しかし、相応の報酬を得るどころか他の貴族たちに掠め取られた不満から海賊の頭目へと転身してしまうのです。奇しくも、平将門が新皇と称して独立国を起こしたという報告が朝廷にもたらされたのと同時期でした。東と西の武力勢力に挟まれる形となった朝廷はまず藤原純友の懐柔に取り掛かります。

結局、藤原純友討伐に乗り出した朝廷によって彼が討ち取られたのは、平将門が倒れた一年後のことでした。

時代の転換期を描いた『平家物語』

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By 不詳 – 「扇の的」平家物語絵巻, パブリック・ドメイン, Link

大動乱のひとつを切り抜いた物語

『平家物語』もまた鎌倉時代に成立したとされる軍記物語ですが、こちらも正確な成立年、作者は不明です。

しかしながら、実は平安時代末期の動乱は『平家物語』だけでは語りつくせません。『平家物語』の主軸となる源平合戦(治承・寿永の乱)のきっかけを作ることになる保元の乱と平治の乱、さらに源平合戦の後に起こった承久の乱が続くのです。こちらもそれぞれ『保元物語』『平治物語』『承久記』として残され、『平家物語』と合わせて「四部合戦状」と呼ばれます。

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