平将門の乱を記録する『将門記』
『将門記』は平安時代中期の平将門の乱を主軸にした軍記物語です。前述の通り作者、成立年ともに不明とされています。そして、『将門記』のメインストーリーとなる平将門の乱は、関東の豪族だった平将門の一族の内紛から始まり、やがて関東諸国へ大きく広がる内乱でした。
ざっくり解説しますと、最初の一族の内紛とは、平将門の亡き父の所領を横取りした伯父たちとの私闘です。私闘は両者押しつ押されつの末、なんとか平将門が勝利をもぎ取ります。
幾度の争いを越え、周囲から頼られることとなった平将門。後に武蔵守と不和となった興世王を受け入れ、さらに常陸国(茨城県)のお尋ね者だった藤原玄明を匿い、とうとう本当に朝廷と対立することとなるのです。
新しい国を作って王になるも
平将門は軍を率いて常陸国国府を制圧すると、さらに下野国、上野国国府を襲撃して独自の国を立ち上げます。国府というのは、簡単に言うと今の県庁みたいなもので、朝廷から派遣された国司や役人たちが勤めているところでした。なので、「国府を襲撃する=朝廷に対する謀反」であり、もう言い訳はできません。周辺諸国を次々と従えると関東を我がものとしたのです。そして、平将門は自身を新皇として王座につきました。
もちろん、平将門の謀反と独立国の樹立を朝廷が静観しているはずもありません。即座に平将門追討の命令が出、藤原秀郷(俵籐太)と、平将門が殺した伯父の子・平貞盛によってあっけなく打ち取られてしまいます。打ち倒された平将門の首級は都へと持ち帰られ、晒首にされました。独立国を築いてからわずか二ヶ月のことです。
死後の噂までも記述される
『将門記』は平将門の死で終わりではありません。その後、藤原秀郷など戦に挑んだ武士たちの叙勲から、当時ささやかれた噂話までが書き記されていました。残されている噂の中には、都で晒首にされた平将門の首が大笑いして関東へ向けて飛び去り、東京都千代田区にある平将門の首塚などの場所に落ちたという伝説や、平将門は実はまだ生きていて藤原秀郷たちを追っているなどさまざまで、民衆の間で交わされた噂は尽きません。
さらには平将門が地獄から伝えたという「冥界消息記」までついてきます。内容は、地獄で非情な責め苦を受ける平将門は生前の写経によって一時的にでも救われているというものです。これは神仏の加護について追及したもので、『将門記』には他にも仏教説話が多く散りばめられています。
実はてんやわんやだった朝廷
ここでセットで覚えておきたいのが「関東の平将門の乱」とほぼ同時進行で行われていた「瀬戸内海の藤原純友の乱」です。
当時、瀬戸内海で横行していた海賊たちを討伐していた藤原純友。しかし、相応の報酬を得るどころか他の貴族たちに掠め取られた不満から海賊の頭目へと転身してしまうのです。奇しくも、平将門が新皇と称して独立国を起こしたという報告が朝廷にもたらされたのと同時期でした。東と西の武力勢力に挟まれる形となった朝廷はまず藤原純友の懐柔に取り掛かります。
結局、藤原純友討伐に乗り出した朝廷によって彼が討ち取られたのは、平将門が倒れた一年後のことでした。
時代の転換期を描いた『平家物語』
By 不詳 – 「扇の的」平家物語絵巻, パブリック・ドメイン, Link
大動乱のひとつを切り抜いた物語
『平家物語』もまた鎌倉時代に成立したとされる軍記物語ですが、こちらも正確な成立年、作者は不明です。
しかしながら、実は平安時代末期の動乱は『平家物語』だけでは語りつくせません。『平家物語』の主軸となる源平合戦(治承・寿永の乱)のきっかけを作ることになる保元の乱と平治の乱、さらに源平合戦の後に起こった承久の乱が続くのです。こちらもそれぞれ『保元物語』『平治物語』『承久記』として残され、『平家物語』と合わせて「四部合戦状」と呼ばれます。
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