
1回目の寺田屋事件 尊王攘夷派とは?
1回目の寺田屋事件は島津久光が尊王攘夷派を始末しましたが、そもそも尊王攘夷派とは何なのでしょうか。1854年に開港して以降、日本には多くの外国人が訪れるようになりました。ただ、当時日本人は外国人のことを快く思っておらず、それは不平等条約となった日米修好通商条約が原因でしょう。
日米修好通商条約には天皇に無許可で幕府が調印してしまい、人々はそんな不平等条約を要求した外国を敵視しました。また、不平等条約締結の調印をこともあろうに天皇に無許可で行った幕府に対しても怒っており、その過程で生まれた思想が尊王攘夷です。
「頼りにならない幕府に代わって天皇が中心となって政治を行うべき、そして外国人は排除するべき」……これが尊王攘夷の思想であり、そのため尊王攘夷派は島津久光の倒幕を期待したわけですね。ただ当時の天皇はそんな考えはなかったため、過激な尊王攘夷派に困って島津久光に抑圧を命令したのです。
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2回目の寺田屋事件 坂本竜馬の功績は?
2回目の寺田屋事件は坂本竜馬が襲撃されましたが、坂本竜馬は薩長同盟締結に尽力して恨みを買いました。ここで疑問が2つ、1つは「なぜ薩長同盟が恨みを買うことになったのか?」、もう1つは「薩長同盟締結のために何を行ったのか?」でしょう。
まず薩長同盟締結が恨みを買った理由ですが、これは藩の中でも大きな存在である薩摩藩と長州藩が手を組むことは倒幕を可能にすると考えられたためです。ですから、幕府からすれば薩長同盟の締結は脅威であり、同盟締結に尽力した坂本竜馬を殺害しようとしました。
次に、薩長同盟締結のために坂本竜馬は何を行ったのかですが、簡単に言えばパイプ役です。設立した貿易会社を両藩の間に挟み、薩摩藩の武器を長州藩に渡し、また長州藩の米を薩摩藩に渡して両藩の関係修復に努めました。こうして、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩の同盟締結が実現したのです。
寺田屋事件、池田屋事件、近江屋事件を明確に区別しよう
最初に解説したとおり、寺田屋事件を覚える上で大切なのはやはり池田屋事件や近江屋事件との区別でしょう。寺田屋事件は2回起こっており、1862年の島津久光の尊王攘夷派の始末、1866年の坂本竜馬の襲撃です。
ただ1864年には新選組が攘夷派を襲撃した池田屋事件が起こっており、1867年には坂本竜馬を暗殺した近江屋事件が起こっています。非常に紛らわしいため、これらの事件の明確な区別が何より大切です。