
倒幕の意思がなかった島津久光
寺田屋事件、池田屋事件、近江屋事件との区別ができたため、ここからは寺田屋事件を詳しく解説していきます。1862年のこと、島津久光は1000名にも及ぶ薩摩藩の兵士を引き連れて京都に赴きました。尊王攘夷を思想とする者にとってこの島津久光のこの行動は希望であり、倒幕実現が近いことを予感します。
しかし当の島津久光にその意思は全くなく、むしろ幕府と朝廷が協力する公武合体を思想としていたのです。これは、島津久光の兄・島津斉彬が生前に公武合体を目指しており、島津久光は兄の遺志を継ぐ気持ちがあったためでしょう。このため、島津久光は薩摩藩内の尊王攘夷派とむしろ対立することになっていきます。
尊王攘夷とは「天皇中心の政治」と「外国人を追い払う」をあわせた思想ですが、朝廷はそんな尊王攘夷派の抑えるように島津久光に命令しました。これを知った尊王攘夷派の一部が激怒、なぜなら自分達は尊王攘夷……つまり天皇中心の政治を思想としているのに、朝廷はそんな自分達を敵のように扱ったからです。
1回目の寺田屋事件の発生
天皇中心の政治を思想としている自分達に対して朝廷はまるで自分達を敵のように扱っている……これに激怒したのが尊王攘夷派の薩摩藩士・有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介らです。彼らは関白(成人の天皇を補佐する官職)の九条尚忠らを殺害する計画を立て、そのため寺田屋に集まりました。
その頃、島津久光はその計画を知り、直ちに止めさせるため大久保利通らを使って説得を試みます。しかし説得は失敗、そこで島津久光は剣術に長けた者達を厳選して鎮撫使に選び、京都に派遣して計画を阻止しようとしました。寺田屋に到着した鎮撫使達は有馬新七らと議論しますが、話し合いでは解決せず戦闘が起こります。
結果武力によって有馬新七らの計画を阻止、これが最初の寺田屋事件です。ちなみに寺田屋事件は2度起こりますが、2度目の寺田屋事件と区別しやすいよう、この事件は寺田屋騒動とも呼ばれています。見事関白暗殺計画を阻止した島津久光に対して、朝廷は大きく評価して信頼が厚くなったのでした。
こちらの記事もおすすめ

維新の三傑の一人「大久保利通」を元塾講師が分かりやすくわかりやすく解説!3分で簡単大久保利通の一生
2回目の寺田屋事件の発生
続いて、1866年に起こった2回目の寺田屋事件についての解説です。1回目の寺田屋事件が寺田屋騒動と呼ばれているのに対して、2回目の寺田屋事件は寺田屋遭難とも呼ばれています。坂本竜馬は薩摩藩と長州藩の同盟締結を実現しましたが、それは1866年の1月23日のことでした。
そして2回目の寺田屋事件は薩長同盟が結ばれたその日……つまり1866年の1月23日に起こります。京都にて薩長同盟が結ばれたその日、坂本竜馬は長府藩の三吉慎蔵と伏見にある寺田屋に宿泊していました。そして、そんな坂本竜馬を捕縛・暗殺しようと伏見奉行の林肥後守忠交が行動を起こします。
深夜2時、坂本竜馬らの宿泊する寺田屋を包囲して襲撃を決行したのです。これに気づいたお龍が坂本竜馬らにすぐさま状況を伝え、坂本竜馬らは応戦しつつ屋根伝いに脱出すると路地へ逃走、材木屋に身を隠します。この時、坂本竜馬と一緒に行動していた三吉慎蔵は切腹を覚悟しますが、坂本竜馬はこれを止めたようです。
こちらの記事もおすすめ

敵対する薩摩藩と長州藩が手を結んだのはなぜ?「薩長同盟」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説
生き延びた坂本竜馬
こうして襲撃から逃れた坂本竜馬らは薩摩屋敷に助けを求めて保護されます。お龍は負傷した坂本竜馬の手当てもしており、何を隠そう彼女は後に坂本竜馬の妻となるのでした。さて、難を逃れた坂本竜馬は西郷隆盛の協力を得て京都の薩摩屋敷へと身を移します。
その後、坂本竜馬はお龍と結婚しており、実は日本で初めて新婚旅行に行ったのはこの坂本竜馬とお龍が初めてとされているのです。ただ、それが本当に新婚旅行だったのかは明確ではなく、旅の目的は坂本竜馬の負った傷を温泉で癒すためとも言われており、そもそも西郷隆盛らが同行していたともされています。
ちなみに、寺田屋事件の寺田屋とは京都の伏見にあった宿屋ですが、同じ場所で2回も起こったのは偶然ではありません。当時ここは多くの薩摩藩士が利用しており、そのため寺田屋は狙われる機会の多い場所でもあったのです。現在も寺田屋は存在していますがそれは再建されたもので、当時の寺田屋事件は鳥羽・伏見の戦いにて焼けてしまいました。
こちらの記事もおすすめ

3分で簡単!「西郷隆盛」の波乱万丈の一生を元塾講師がわかりやすく解説
\次のページで「寺田屋事件の疑問点を解消」を解説!/