今日は寺田屋事件について勉強していきます。江戸時代の幕末、人々はそれぞれ自分なりの思想を持っており、日本の未来について誰もが同じ考えをしているわけではなかった。

そして同じ思想を持っている者達は同志として密談し、一方で異なる思想を持っている者達はその密談を弾圧した。その有名な事件こそ寺田屋事件であり、今回は寺田屋事件について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から寺田屋事件をわかりやすくまとめた。

間違えやすい寺田屋、池田屋、近江屋の3つの事件

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寺田屋事件と池田屋事件と近江屋事件

寺田屋事件を覚える上で、2つの注意点があります。1つは寺田屋事件は二回に渡って起こっている点で、これについては後の項目で分かりやすく解説していくのでしっかりと覚えましょう。厄介なのはもう1つの注意点で、それは似た名前の事件が近い時期に起こっているという点です。

寺田屋事件は1862年と1866年に起こっていますが、その間となる1864年には池田屋事件、そして寺田屋事件の後となる1867年には近江屋事件が起こっています。いずれも起こった時期が1860年代であること、さらに「事件」の名称がついていることから紛らわしく、そこでまずはこれら3つの事件を区別できるようにしておきましょう。

寺田屋事件を覚えるには、池田屋事件、近江屋事件、寺田屋事件、まずこれら3つの事件の大まかな内容を理解して確実に区別できるようにしておき、その上で今回のテーマである寺田屋事件を詳しく覚えていくのが良いですね。では、ひとまず池田屋事件から見ていきましょう。

寺田屋事件との区別・池田屋事件について

まず池田屋事件ですが、これは1864年に旅館・池田屋で密談していた攘夷派を新選組が襲撃した事件です。尊王攘夷を思想としていた長州藩は八月十八日の政変によって失脚、京都から追放されてしまいました。ただ、一部の攘夷派は依然京都に潜伏、その怒りから一橋慶喜・松平容保らの暗殺などを密かに計画していたのです。

一方、そんな危険な計画が立てられている情報を得た新選組は京都市内を警備、その末に旅館・池田屋で密談している攘夷派を発見しました。そこで新選組は旅館・池田屋を襲撃、密談していた攘夷派の志士達は殺害、もしくは捕縛され、池田屋事件は新選組の存在感を世に示すきっかけとなったのです。

つまり、「池田屋事件=京都で密談していた長州藩の攘夷派を新選組が襲撃した事件」であり、この事件のポイントは「新選組」ですね。なぜなら、近江屋事件においても今回のテーマである寺田屋事件においても新選組は関わっていないからで、逆に言えば3つの事件の中で新選組が関わってくるのは池田屋事件しかありません

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近江屋事件と寺田屋事件

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寺田屋事件との区別・近江屋事件について

次に近江屋事件ですが、これは1867年に起こった坂本竜馬の暗殺事件です。坂本竜馬は犬猿の仲と言われていた薩摩藩と長州藩の同盟締結に尽力しましたが、それが倒幕の考えを生んだとして幕府などから命を狙われるようになっていました。

このため過去にも襲撃されており、後に詳しく説明しますが坂本竜馬が襲撃されたのが2度目の寺田屋事件です。この時は負傷するのみで助かりましたが、醤油商を行っていた近江屋へと身を移した坂本竜馬は1867年に暗殺されてしまいます。実行犯には様々な説がありますが、京都見廻組による犯行説が有力です。

つまり、「近江屋事件=坂本竜馬の暗殺事件」であり、2度目の寺田屋事件である坂本竜馬襲撃は文字どおり襲撃止まりで暗殺は成功しておらず、坂本竜馬が実際に暗殺されることになったのが1867の近江屋事件になります。ですから「坂本竜馬の死=近江屋事件」を覚えれば良いでしょう。

寺田屋事件の簡単なまとめ

では、寺田屋事件もまず簡単にまとめてみましょう。1回目の寺田屋事件は1862年に起こったもので、薩摩藩の過激な攘夷派を藩の最高指導者である島津久光が始末した事件です。「攘夷派の征伐」という点で池田屋事件と似ていますが、上記で解説したとおり池田屋事件を起こしたのは新選組になります。

一方、寺田屋事件を起こしたのは薩摩藩の指導者・島津久光であり、新選組は一切関係ありません。ですから「新選組が攘夷派を征伐した=池田屋事件」「島津久光が攘夷派を征伐した=寺田屋事件」と区別すると分かりやすいと思います。

2回目の寺田屋事件は1866年に起こったもので、これは伏見奉公所の役人が坂本竜馬を襲撃した事件です。「坂本竜馬を攻撃する」という点でこれも近江屋事件と似ていますが、「寺田屋事件=襲撃」「近江屋事件=暗殺」という大きな違いがあるため、ここで区別できるでしょう。

1862年 1回目の寺田屋事件の詳細

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倒幕の意思がなかった島津久光

寺田屋事件、池田屋事件、近江屋事件との区別ができたため、ここからは寺田屋事件を詳しく解説していきます。1862年のこと、島津久光は1000名にも及ぶ薩摩藩の兵士を引き連れて京都に赴きました。尊王攘夷を思想とする者にとってこの島津久光のこの行動は希望であり、倒幕実現が近いことを予感します。

しかし当の島津久光にその意思は全くなく、むしろ幕府と朝廷が協力する公武合体を思想としていたのです。これは、島津久光の兄・島津斉彬が生前に公武合体を目指しており、島津久光は兄の遺志を継ぐ気持ちがあったためでしょう。このため、島津久光は薩摩藩内の尊王攘夷派とむしろ対立することになっていきます。

尊王攘夷とは「天皇中心の政治」「外国人を追い払う」をあわせた思想ですが、朝廷はそんな尊王攘夷派の抑えるように島津久光に命令しました。これを知った尊王攘夷派の一部が激怒、なぜなら自分達は尊王攘夷……つまり天皇中心の政治を思想としているのに、朝廷はそんな自分達をのように扱ったからです。

1回目の寺田屋事件の発生

天皇中心の政治を思想としている自分達に対して朝廷はまるで自分達を敵のように扱っている……これに激怒したのが尊王攘夷派の薩摩藩士・有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介らです。彼らは関白(成人の天皇を補佐する官職)の九条尚忠らを殺害する計画を立て、そのため寺田屋に集まりました。

その頃、島津久光はその計画を知り、直ちに止めさせるため大久保利通らを使って説得を試みます。しかし説得は失敗、そこで島津久光は剣術に長けた者達を厳選して鎮撫使に選び、京都に派遣して計画を阻止しようとしました。寺田屋に到着した鎮撫使達は有馬新七らと議論しますが、話し合いでは解決せず戦闘が起こります。

結果武力によって有馬新七らの計画を阻止、これが最初の寺田屋事件です。ちなみに寺田屋事件は2度起こりますが、2度目の寺田屋事件と区別しやすいよう、この事件は寺田屋騒動とも呼ばれています。見事関白暗殺計画を阻止した島津久光に対して、朝廷は大きく評価して信頼が厚くなったのでした。

1866年 2回目の寺田屋事件の詳細

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2回目の寺田屋事件の発生

続いて、1866年に起こった2回目の寺田屋事件についての解説です。1回目の寺田屋事件が寺田屋騒動と呼ばれているのに対して、2回目の寺田屋事件は寺田屋遭難とも呼ばれています。坂本竜馬は薩摩藩と長州藩の同盟締結を実現しましたが、それは1866年の1月23日のことでした。

そして2回目の寺田屋事件は薩長同盟が結ばれたその日……つまり1866年の1月23日に起こります。京都にて薩長同盟が結ばれたその日、坂本竜馬は長府藩の三吉慎蔵と伏見にある寺田屋に宿泊していました。そして、そんな坂本竜馬を捕縛・暗殺しようと伏見奉行の林肥後守忠交が行動を起こします。

深夜2時、坂本竜馬らの宿泊する寺田屋を包囲して襲撃を決行したのです。これに気づいたお龍が坂本竜馬らにすぐさま状況を伝え、坂本竜馬らは応戦しつつ屋根伝いに脱出すると路地へ逃走、材木屋に身を隠します。この時、坂本竜馬と一緒に行動していた三吉慎蔵は切腹を覚悟しますが、坂本竜馬はこれを止めたようです。

生き延びた坂本竜馬

こうして襲撃から逃れた坂本竜馬らは薩摩屋敷に助けを求めて保護されます。お龍は負傷した坂本竜馬の手当てもしており、何を隠そう彼女は後に坂本竜馬の妻となるのでした。さて、難を逃れた坂本竜馬は西郷隆盛の協力を得て京都の薩摩屋敷へと身を移します。

その後、坂本竜馬はお龍と結婚しており、実は日本で初めて新婚旅行に行ったのはこの坂本竜馬とお龍が初めてとされているのです。ただ、それが本当に新婚旅行だったのかは明確ではなく、旅の目的は坂本竜馬の負った傷を温泉で癒すためとも言われており、そもそも西郷隆盛らが同行していたともされています。

ちなみに、寺田屋事件の寺田屋とは京都の伏見にあった宿屋ですが、同じ場所で2回も起こったのは偶然ではありません。当時ここは多くの薩摩藩士が利用しており、そのため寺田屋は狙われる機会の多い場所でもあったのです。現在も寺田屋は存在していますがそれは再建されたもので、当時の寺田屋事件は鳥羽・伏見の戦いにて焼けてしまいました。

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寺田屋事件の疑問点を解消

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1回目の寺田屋事件 尊王攘夷派とは?

1回目の寺田屋事件は島津久光が尊王攘夷派を始末しましたが、そもそも尊王攘夷派とは何なのでしょうか。1854年に開港して以降、日本には多くの外国人が訪れるようになりました。ただ、当時日本人は外国人のことを快く思っておらず、それは不平等条約となった日米修好通商条約が原因でしょう。

日米修好通商条約には天皇に無許可で幕府が調印してしまい、人々はそんな不平等条約を要求した外国を敵視しました。また、不平等条約締結の調印をこともあろうに天皇に無許可で行った幕府に対しても怒っており、その過程で生まれた思想が尊王攘夷です。

「頼りにならない幕府に代わって天皇が中心となって政治を行うべき、そして外国人は排除するべき」……これが尊王攘夷の思想であり、そのため尊王攘夷派は島津久光の倒幕を期待したわけですね。ただ当時の天皇はそんな考えはなかったため、過激な尊王攘夷派に困って島津久光に抑圧を命令したのです。

2回目の寺田屋事件 坂本竜馬の功績は?

2回目の寺田屋事件は坂本竜馬が襲撃されましたが、坂本竜馬は薩長同盟締結に尽力して恨みを買いました。ここで疑問が2つ、1つは「なぜ薩長同盟が恨みを買うことになったのか?」、もう1つは「薩長同盟締結のために何を行ったのか?」でしょう。

まず薩長同盟締結が恨みを買った理由ですが、これは藩の中でも大きな存在である薩摩藩と長州藩が手を組むことは倒幕を可能にすると考えられたためです。ですから、幕府からすれば薩長同盟の締結は脅威であり、同盟締結に尽力した坂本竜馬を殺害しようとしました。

次に、薩長同盟締結のために坂本竜馬は何を行ったのかですが、簡単に言えばパイプ役です。設立した貿易会社を両藩の間に挟み、薩摩藩の武器を長州藩に渡し、また長州藩の米を薩摩藩に渡して両藩の関係修復に努めました。こうして、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩の同盟締結が実現したのです。

寺田屋事件、池田屋事件、近江屋事件を明確に区別しよう

最初に解説したとおり、寺田屋事件を覚える上で大切なのはやはり池田屋事件や近江屋事件との区別でしょう。寺田屋事件は2回起こっており、1862年の島津久光の尊王攘夷派の始末、1866年の坂本竜馬の襲撃です。

ただ1864年には新選組が攘夷派を襲撃した池田屋事件が起こっており、1867年には坂本竜馬を暗殺した近江屋事件が起こっています。非常に紛らわしいため、これらの事件の明確な区別が何より大切です。

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幕末日本史歴史江戸時代

2回も起きた旅館・寺田屋での事件!「寺田屋事件」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は寺田屋事件について勉強していきます。江戸時代の幕末、人々はそれぞれ自分なりの思想を持っており、日本の未来について誰もが同じ考えをしているわけではなかった。

そして同じ思想を持っている者達は同志として密談し、一方で異なる思想を持っている者達はその密談を弾圧した。その有名な事件こそ寺田屋事件であり、今回は寺田屋事件について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から寺田屋事件をわかりやすくまとめた。

間違えやすい寺田屋、池田屋、近江屋の3つの事件

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寺田屋事件と池田屋事件と近江屋事件

寺田屋事件を覚える上で、2つの注意点があります。1つは寺田屋事件は二回に渡って起こっている点で、これについては後の項目で分かりやすく解説していくのでしっかりと覚えましょう。厄介なのはもう1つの注意点で、それは似た名前の事件が近い時期に起こっているという点です。

寺田屋事件は1862年と1866年に起こっていますが、その間となる1864年には池田屋事件、そして寺田屋事件の後となる1867年には近江屋事件が起こっています。いずれも起こった時期が1860年代であること、さらに「事件」の名称がついていることから紛らわしく、そこでまずはこれら3つの事件を区別できるようにしておきましょう。

寺田屋事件を覚えるには、池田屋事件、近江屋事件、寺田屋事件、まずこれら3つの事件の大まかな内容を理解して確実に区別できるようにしておき、その上で今回のテーマである寺田屋事件を詳しく覚えていくのが良いですね。では、ひとまず池田屋事件から見ていきましょう。

寺田屋事件との区別・池田屋事件について

まず池田屋事件ですが、これは1864年に旅館・池田屋で密談していた攘夷派を新選組が襲撃した事件です。尊王攘夷を思想としていた長州藩は八月十八日の政変によって失脚、京都から追放されてしまいました。ただ、一部の攘夷派は依然京都に潜伏、その怒りから一橋慶喜・松平容保らの暗殺などを密かに計画していたのです。

一方、そんな危険な計画が立てられている情報を得た新選組は京都市内を警備、その末に旅館・池田屋で密談している攘夷派を発見しました。そこで新選組は旅館・池田屋を襲撃、密談していた攘夷派の志士達は殺害、もしくは捕縛され、池田屋事件は新選組の存在感を世に示すきっかけとなったのです。

つまり、「池田屋事件=京都で密談していた長州藩の攘夷派を新選組が襲撃した事件」であり、この事件のポイントは「新選組」ですね。なぜなら、近江屋事件においても今回のテーマである寺田屋事件においても新選組は関わっていないからで、逆に言えば3つの事件の中で新選組が関わってくるのは池田屋事件しかありません

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