今回は、豊臣秀吉によって建城され堅城とも呼ばれていた大阪城を紹介していきます。

最後は、秀吉の後継者だった豊臣秀頼と共に落城していったところまで歴史らライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

学生時代は、沢山の歴史本を読み知識を深めた歴史好きのサラリーマン。特に、戦国時代が大好きであり、武士に憧れている。今回は西日本の拠点と目された大坂城を建城から落城する姿や戦争時に利用された経緯を紹介する。

石山本願寺の跡地に作られる

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織田信長が本能寺で討ち取られ、信長の跡目を継ぐ形で豊臣秀吉が台頭してきます。その時に西への要衝となっていた石山本願寺跡地に新たな城を計画しました。

大坂城を建城した理由

1583年から建城を開始していくことになる大坂城でしたが、建築場所には元々石山本願寺が建てられていました。石山本願寺は信長との戦いで本願寺顕如と争っていたところでもあります。

石山本願寺が建てられていた場所は、北の団地下に淀川本流が流れていて天然の要塞化しており淀川を上っていくと海に直結することや京都への交通場所でした。顕如が信長に降伏した時に、ここに城を建てる計画していましたが、本能寺の変で討たれ跡目を継いだ秀吉がそのまま建城することになります。

大坂城の築城

1585年から施工され築城奉行を任されたのは、秀吉参謀の黒田如水でした。当時から築城の明主と呼ばれていた如水は秀吉に指示に従い絢爛豪華であるとともに秀吉の力を示す城建築していきます。残されている平面図を見ると天守閣は北東の隅に描かれていて天守は天守台いっぱいには建てられておらず余地を残して天守曲輪を持っていたと考えられていました。

天守閣は連結式望楼型5重6階地下2階と考えられていて外観は、黒漆塗で瓦には金箔が施されてかなり目立った城でもあったようです。ルイスフロスが書いた日本史では最上階に金箔の茶室も作られていたようで、しかも運搬が可能とな移動式茶室にもなっていたようで1592年には大坂城が完成する前に名護屋城へと移した記録も残されていました。

そして秀吉が亡くなった年の1598年に大坂城が完成します。

秀頼方と家康方の対立で戦場化する大坂城

ようやく築城することができた大坂城でしたが、一番の権力者であった秀吉が亡くなったことで五大老だった家康がこの時代の主導権を握っていきます。

\次のページで「関ヶ原の戦いで豊臣領土を配分」を解説!/

関ヶ原の戦いで豊臣領土を配分

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石田三成と家康の対立が表面化し、全国を巻き込んだ戦へと発展をしていきます。この戦の表向きは秀吉の遺言無視による家康討伐でしたが、実際には豊臣軍との争いではなく奉行派と武断派の関係悪化によって起きました。

秀頼自身は幼かったこともありますが、主に淀殿が秀頼を動かしていたため豊臣とは関係のないといい関ヶ原には一部を除いて兵を参戦させていません。関ヶ原で開戦されるもわずか一日で決着が着いてしまい西軍に加担していた将らは減石若しくは改易されてしまいます。

勝利した家康は豊臣の領地であった場所を勝手に、東軍で戦功を挙げた者や寝返った者達に分け与えたと同時に金銀産出場所は自分の領土とし二百二十万石あった領土が六十五万石まで減石させられ一大名となった秀頼でした。領地は失いはしましたが、堅城の大坂城は秀頼の居城として残ります。

家康による豊臣潰し

関ヶ原によって領地を約四百万石まで増やし確固たる地位を築き征夷大将軍まで授かっていた家康。時の権力者ではありましたが東軍に加担した豊臣恩顧の将は多く、いつ徳川に牙を向けられるか分からない状態でした。

そこで大量の金銀を持っていた秀頼に、城や寺院の改修をさせお金を使い果たさせるように仕向けています。更に方広寺を改修していた際に梵鐘の銘文を南弾寺の僧に選定させるも書かれた銘文に国家安康と彫られていて意図的に諱を侵したとして家康に対する不信であると理由で豊臣家を滅ぼそうとしました。

十万の兵を収容した大坂城

方広寺事件をきっかけに、秀頼は豊臣恩顧の将へ文を差し出すも徳川家忠への忠誠文を書き留めてしまっているので応じることができない大名が多数でした。また豊臣家に尽力してくれていた加藤清正が1613年にて急死し前田利長も病で亡くなり頼れる大名がいません。

それでも兵を集めるために資金元である金を使い浪人兵を集めた結果、約十万の兵が集まり中には長宗我部盛親や真田信繁らなどの元大名が大坂城に集いました。集まった浪人達は一枚岩ではなく領土を取り戻したい者や徳川家への復讐を考えている者らが集まりとても統率が図れる状態ではなかったようです。

大坂冬の陣開戦

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浪人達の実質頭役だった信繁は、関東へ進軍している間に味方になりそうな大名を引き入れ徳川軍の内部分裂を図る案と寝返りがないようであれば大坂城で籠城する案の二つを秀頼に提案するも淀殿を始め大野治長らに籠城一択で決定されました。

木津川口などで戦闘が始まるも烏合の衆だった豊臣軍は、あっという間に砦を奪取されてしまい各砦を任されていた将らは大坂城へと逃げ込みます。この戦が始まるより前に大坂城の弱点だった平野口に砦を築き信繁が真田丸と称し大坂城南側で戦闘が始まりました。

信繁だけの活躍ではなく八丁目口の後藤又兵衛や盛親の活躍もあり徳川軍に一万兵以上の被害を出させて退却させたようです。

和睦により一時休戦

大坂城南側で戦闘に勝利しましたが、豊臣軍が劣勢なことに変わりはなく次第に追い込まれていきます。外国から買っていた大砲を用いて大坂城へと攻撃を始めると圧倒的な力を見て家康より和睦文が届き和睦することになりました。

豊臣方で出した条件は秀頼の身の安全と大坂城内の将らの在中を認めてもらい家康側からは大坂城の堀を埋め治長か織田有楽斎からを人質に出すことに決まります。堀が埋められることになり要塞化していた城が丸裸の城となり守りが薄くなりました。

またこれによって勝ち目が無くなったと判断した浪人兵の一部は大坂城から去っています。

大坂夏の陣で落城

堀を埋められるも治長は、条約違反をし堀を掘り起こしていることが家康に知られることになります。これ以外にも無理難題を家康から豊臣方に突き付けるも治長が拒否をし、再び戦が避けられない状況になりました。

堀を失った将らは野戦に討って出るしかなく道明寺・八尾・天王寺で戦うも兵力差に敵わず敗走し主だった将の信繁や又兵衛らが討ち取られ遂に徳川軍が大坂城へと侵入していきます。そして城内の兵はことごとく討死し秀頼は自刃し嫡男国松は処刑され豊臣の血筋が完全に断たれ豊臣家は滅ぼされました。

大坂城に火が放たれ、徳川の雑兵らは偽首取りや女性を襲うなど悲惨な状態となり大坂城が落城します。

\次のページで「徳川の大坂城」を解説!/

徳川の大坂城

大坂の役で落城した大坂は家康の孫にあたる松平忠明が町を復興させるために力を入れるも本格的な大坂城再建はしていませんでした。そして家忠によって再建されることが決まります。

大坂城再建

再建させることが決まったのは1620年で、徳川幕府直轄になり西日本体制を確立するために大坂城再建することにした家忠。総奉行として築城名手の藤堂高虎に命じ石垣を今までの二倍にし堀を二倍深く掘るように指示を出します。

秀吉時代の遺構は全て徳川大坂城の下に埋もれてしまい秀吉の名残は、失われてしまいました。築城工事の堀と石垣は各大名が担当し石高に応じた石垣の長さが決められていて大名ごとに組み分けされ連帯責任が生じていたようです。

そのため丁場ごとで出来高を争い担当した丁場の石垣に大名の家紋を掘った後が見つかりました。

徳川の大坂城

始めに作った城とは異なりその時代に合った城を作り上げることになります。城郭は豊臣期から比べると小さいものになり、天守の高さは約五十八メートルあったことから江戸城を縮小した形で作られたといわれました。

完成したのが1626年とされていますが、三度に渡り落雷し一度目は1660年に火薬庫に落ち修復した後に1665年に天守の鯱に落雷して天守が炎上したためわずか三十九年で焼失し天守が建造されることがなく玄関口の櫓に落雷し焼失します。

そして1843年まで天守がない状態が二百二十六年続き江戸幕府によって近畿一帯で資金集めを行い天守以外の大修復を行いました。

討幕派との争いにより焼失

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徳川支配が長きに渡り続いていましたが、長州や薩摩などでは討幕派の動きが日に日に強くなり始めます。この頃の大坂城は十四代将軍家茂が諸外国との交渉場として利用していて徳川最後の将軍慶喜も家茂同様に利用していました。

王政復古の大号令を大久保利通らが発したことで、江戸幕府はこれを断固拒否をし戊辰戦争へと発展していきます。緒戦として大阪湾と鳥羽・伏見の戦いで幕府が敗れたことを知ると少数の兵を率いて敵前逃亡をした慶喜。

明治政府軍は慶喜が居た大坂城を攻撃し再建した城内の建築物はほぼ消失してしまいました。

明治政府の基地化

江戸幕府が崩壊し新たに明治政府へと時代が変わり大坂城は、広大な土地だったため陸軍の武器や弾薬などを生産する場所となっていました。

天守再建

陸軍の基地となった大坂城では武器や火薬、そして重火器や車両などを生産する工場となりました。そして1928年に大阪市長だった関一が天守再建と大坂城公園の整備事業を提案し大阪市民から募金を行い建設が進められました。

時代の発展によって技術が拡大に進歩していたことで、1930年に再建が始まり1931年には天守を完成させることができたと思われます。

戦争が始まり標的とされる

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第二次世界大戦が始まる前に中部軍防空情報隊が入ったため一般の人達の立ち入りが禁止されました。また重火器などの生産を行っていたこともあり、爆撃の目標とされることが多かったようです。

また第二次世界大戦が終結する前日の1945年8月14日には、一トン以上の爆弾が投下され大坂城の櫓はことごとく焼失したうえに近隣の駅である京橋駅にも多数の死傷者が出たことで被害は大規模なものだったと新聞社によって書かれました。

終戦した後は、米軍が占拠していた状態だったため、立ち入りができず返還されたのは三年後の1948年です。

改修と学術調査

返還された後に、すぐさま改修を始めるも台風の影響によりまたしても損害が出てしまいました。台風後に本格的に改修することが大阪市で決まり戦後の復興として市民を挙げて取り組まれていきます。

改修するにあたり学術調査もあわせて行わることが決まりボーリング調査をすることになりました。すると地下約十メートル付近に石垣で利用されていた花崗岩が確認されその地点周辺を掘り起こすと高さ四メートル以上の石垣が発見されます。

1960年に中井家にて大坂城本丸図が発見され石垣を照合した結果、見事一致したため豊臣期の石垣であることが判明しました。

新たな石垣

2019年に大阪私立大学の仁木宏教授らのグループによって豊臣期の石垣が発見されました。また以外にも櫓や生活場だった橋の一部なども発見され大坂城の構造が一部ではあるものの令和最初の歴史的大発見になったでしょう。

度重なる焼失によって立て直された大坂城

秀吉にて建築が開始され三十年、家忠が築城して三十九年と短い年月で天守が焼失してしまい約十年掛けて作られた城もあっという間に無くなってしまい城下町に住んでいる民からすると悲壮感が漂っていたと思います。

歴史に若しもというのは存在しませんが、信長に敗れていない石山本願寺が大坂城並みの城を有していたらまた違った歴史が誕生していたような気がしました。

大坂城にも様々な伝説があります。調べて見ると遺構と思われる宝厳寺唐門だけであり豊臣期の遺構は大坂城下の地中に埋もれているので時代とともに発見され大坂城の歴史が少しづつ明かされていくと歴史通からすると嬉しいです。

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安土桃山時代日本史歴史江戸時代

豊臣から徳川へ移り行く時代の「大坂城」を歴史通サラリーマンが5分でわかりやすく解説

今回は、豊臣秀吉によって建城され堅城とも呼ばれていた大阪城を紹介していきます。

最後は、秀吉の後継者だった豊臣秀頼と共に落城していったところまで歴史らライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

学生時代は、沢山の歴史本を読み知識を深めた歴史好きのサラリーマン。特に、戦国時代が大好きであり、武士に憧れている。今回は西日本の拠点と目された大坂城を建城から落城する姿や戦争時に利用された経緯を紹介する。

石山本願寺の跡地に作られる

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織田信長が本能寺で討ち取られ、信長の跡目を継ぐ形で豊臣秀吉が台頭してきます。その時に西への要衝となっていた石山本願寺跡地に新たな城を計画しました。

大坂城を建城した理由

1583年から建城を開始していくことになる大坂城でしたが、建築場所には元々石山本願寺が建てられていました。石山本願寺は信長との戦いで本願寺顕如と争っていたところでもあります。

石山本願寺が建てられていた場所は、北の団地下に淀川本流が流れていて天然の要塞化しており淀川を上っていくと海に直結することや京都への交通場所でした。顕如が信長に降伏した時に、ここに城を建てる計画していましたが、本能寺の変で討たれ跡目を継いだ秀吉がそのまま建城することになります。

大坂城の築城

1585年から施工され築城奉行を任されたのは、秀吉参謀の黒田如水でした。当時から築城の明主と呼ばれていた如水は秀吉に指示に従い絢爛豪華であるとともに秀吉の力を示す城建築していきます。残されている平面図を見ると天守閣は北東の隅に描かれていて天守は天守台いっぱいには建てられておらず余地を残して天守曲輪を持っていたと考えられていました。

天守閣は連結式望楼型5重6階地下2階と考えられていて外観は、黒漆塗で瓦には金箔が施されてかなり目立った城でもあったようです。ルイスフロスが書いた日本史では最上階に金箔の茶室も作られていたようで、しかも運搬が可能とな移動式茶室にもなっていたようで1592年には大坂城が完成する前に名護屋城へと移した記録も残されていました。

そして秀吉が亡くなった年の1598年に大坂城が完成します。

秀頼方と家康方の対立で戦場化する大坂城

ようやく築城することができた大坂城でしたが、一番の権力者であった秀吉が亡くなったことで五大老だった家康がこの時代の主導権を握っていきます。

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