今回はエドワード8世を取り上げるぞ。イギリスのエリザベス女王の伯父君ですが、当時はご法度の離婚したアメリカ人女性と結婚するために退位したことで有名ですね。

その辺のところを昔からウィンザー家に興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。ヨーロッパの王室にも興味津々、例によって昔読んだ本を引っ張り出し、ネット情報で補足しつつエドワード8世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、エドワード8世はジョージ5世の長男

Jorge v, esposa e filho eduardo.jpg
By 不明 - Royal Forums, パブリック・ドメイン, Link

エドワード8世は、1894年6月23日に当時のヨーク公ジョージ王子(後のジョージ5世)と、メアリ・オブ・テック妃の長男として誕生。すぐに年子で弟のアルバートことジョージ6世が生まれ、妹のメアリ(後のハーウッド伯爵夫人)、後のグロスター公ヘンリー、ケント公ジョージ、夭折したジョンの6人きょうだいです。

1-2、ヴィクトリア女王の直系の曾孫

エドワード8世は、ヴィクトリア女王の曾孫でエドワード7世の孫でジョージ5世の長男、生まれながらにして将来の国王の地位が約束されていました。

当時74歳だった曾祖母のヴィクトリア女王は、将来国王になる運命の曽孫の誕生を日記に「強いまなざしをもった玉のような子」「なんという喜び、なんというお恵みでしょう」と書いたそう

エドワード8世の洗礼名は、エドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドルー・パトリック・デイヴィッド。アルバートはもちろんヴィクトリア女王の希望で曾祖父のアルバート公からで、祖父のエドワード7世、そして早世したジョージ5世の兄で伯父のクラレンス公アルバート・ヴィクターにもちなんでいて、クリスチャンは母方の曾祖父のデンマーク国王クリスチャン9世から、またジョージ、アンドルー、パトリック、デイヴィッドは、いずれもイングランドとスコットランドとアイルランドとウェールズの守護聖人にちなんだものだったということ。しかし家族や友人からはデイヴィッドと呼ばれることに。大変な意味のある名前なんですね。

ここでは便宜上、エドワード8世で通しますね。

1-3、エドワード8世の子供時代

エドワード8世の幼少期は、当時のイギリスの上流階級らしく両親ではなく乳母からしつけを。しかし、弟のアルバート(ジョージ6世)とともに、乳母の一人からは、両親が不在のときには食事が与えられないとか体をつねられるなどの虐待を受け、エドワードが異常なまでに泣き叫んだため、両親がその乳母を追い出したことも。

そして13歳頃まで家庭教師の厳格な教育を受け、1907年からはオズボーン海軍兵学校に入学し海軍軍人となるべく教育。しかし軍人としての過酷なトレーニングやスパルタ教育、寮生活には馴染めず、オズボーンで2年間を過ごした後、ダートマスの海軍兵学校に移ったが、やはり同級生からいじめを受けるなど経験。

エドワード8世自身も、自分には海軍士官の素質は無いことを自覚していたそう。

1-4、父の即位で王太子として叙位式

image by PIXTA / 12955292

1910年、祖父エドワード7世が死去、父ジョージ5世が即位すると、16歳で王太子プリンス・オブ・ウェールズに。エドワード8世は、将来の国王への準備のため兵学校卒業を前に正式な海軍軍人コースから外され、オックスフォード大学のモードリン・カレッジに入学したが、正式な課程を経ず学位取得もなく修了。

1910年5月6日にロスシー公並びにコーンウォール公、同年6月23日にプリンス・オブ・ウェールズ並びにチェスター伯の称号を得て、翌1911年7月13日にウェールズのカーナーヴォン城で叙位式。その際、ウェールズ語で答辞を述べ、これは後のプリンス・オブ・ウェールズであるチャールズ王太子の答辞の前例に。

1-5、エドワード8世、第一次世界大戦に志願

A022344.jpg
パブリック・ドメイン, Link

第一次世界大戦が勃発し、軍に志願できる最低限の年齢に達していたエドワードは軍への入隊を熱望。1914年6月に陸軍入隊後に一兵士として最前線に派遣するよう直訴したが、陸軍大臣ホレイショ・キッチナーが、王位継承権第1位にあるプリンス・オブ・ウェールズが捕虜になったら大変と、拒否。

なのでエドワードは最前線を可能な限り慰問に訪れたため1916年にミリタリー・クロスを授与されて、後に退役軍人の間で大きな人気を得たそう。1918年には空軍で初めての飛行を行い、後にパイロットのライセンスを取得。

2-1、エドワード8世、気さくな態度が大衆受け

第一次大戦後、エドワード8世は海外植民地の世論対策として自国領や植民地、世界各国を歴訪し、訪問先では絶大な歓迎を受けたので、ロイド・ジョージ首相から「私たちの最も素晴らしい大使」と評されたということ。

また、失業問題や労働者の住宅問題に関心を寄せたり、一般大衆や一兵卒たちのなかに飛び込んで気さくな態度で交流できる人で、当時開始されたばかりのラジオ放送に出演したことも。他にも、オックスフォード大学在学中、バンジョーを弾きながら「赤旗の歌」(王制を否定する共産主義の歌)を歌ってみたり、ロンドンの高級レストランでオーストラリア国防軍の兵隊達が店員から食事を拒否されている場面に出会ったとき、兵隊全員を自分のテーブルに招いたなど、メディア受けするエピソード満載で「比類なき君主制度のPRマン」などと評され、国内外を問わず大変な人気者に。

しかし、オーストラリア訪問時、先住民アボリジニについて「私がこれまでに見た生物での中でも、最も醜悪な容姿をしている。彼らは人間の中でも最も猿に近い」などという人種差別そのものの発言で物議を醸したりも。

\次のページで「2-2、エドワード8世、多趣味でプレイボーイ」を解説!/

2-2、エドワード8世、多趣味でプレイボーイ

エドワード8世は、キツネ狩り、乗馬、バグパイプの演奏、ゴルフ、ガーデニング刺繍などの非常な多趣味で、ヨーロッパ屈指のプレイボーイとしても有名、14年間愛人関係にあったフリーダ・ダドリー・ウォード下院議員夫人をはじめとして、貴族令嬢から芸能人まで幅広い交際相手がいたそう。

黒人歌手のフローレンス・ミルズが「あなたにあげられるもの、それは愛だけ」とプリンス・オブ・ウェールズとの関係を歌ったことで一躍人気歌手の仲間入りとか、赤裸々な情事を綴ったテルマ・ファーネスとその妹による暴露本がベストセラーになど、「プリンス・チャーミング」、「世界で一番魅力的な独身男性」と評され、現代に通じるマスメディアの寵児だったんですね。

母性に欠けていた母親のメアリー・オブ・テック王妃の愛情に恵まれなかったせいで、年上の女性や人妻が好みだったということ

2-3、ウォリス・シンプソン夫人との出会い

シンプソン夫妻を王太子エドワード8世に紹介したのは、当時の愛人ファーネス子爵夫人テルマ(アメリカ生まれ)。1931年1月に、テルマ夫人の別荘のパーティーで出会い、シンプソン夫人は王太子に一目惚れ、テルマが「留守の間相手していてね」と言い置いてニューヨークに出かけた1933年の冬頃、エドワード8世と不倫関係に。自由奔放で話題豊富で母性的なシンプソン夫人はエドワード8世にとって非常に魅力的で、結婚を真剣に検討するように。

シンプソン夫人は離婚歴があり交際当時は人妻、しかも英国国教会では離婚は禁じられていたにもかかわらず、エドワード8世はシンプソン夫人を離婚させて王妃に迎えようと画策。

イギリス国王は英国国教会の首長でもあるので、離婚女性との結婚が宗教的に許されることではなく、もちろんイギリス国民のほとんどが反発、父ジョージ5世との間でも争いが絶えず、カンタベリー大主教との話し合いでも結論が見いだせず、ジョージ5世は、「自分の死後、1年以内にエドワードは破滅するだろう」と言い残した話は有名

2-4、エドワード8世として即位

1936年1月のジョージ5世の死後、独身のまま42歳でエドワード8世として王位を継承し、即位式には同棲中のシンプソン夫人が立会人として付き添いを。

しかし、王室ではシンプソン夫人を「ただの友人」扱いだったため、エドワード8世はシンプソン夫人に対して「愛は募るばかり。別れていることがこんなに地獄だとは」など、恋心を綴ったラブレターを送ったり、これ見よがしにシンプソン夫人と王室所有のヨットで海外旅行に出かけたり、シンプソン夫人とペアルックのセーターで公の場に登場したりと、熱愛アピール。そのうえにボールドウィン首相らが出席しているパーティーで、シンプソン夫人の夫に対して「さっさと離婚しろ」と恫喝したうえに暴行するという騒ぎまで。
シンプソン夫人も10月27日に離婚手続きをして、王妃になれるよう準備をしていたのですが、エドワード8世のほかにも駐英ドイツ大使ヨアヒム・フォン・リッベントロップら複数の男性と関係が取りざたされていたそう。また、エドワード8世はアドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニらファシストに親近感を持つ言動で保守党内での抗争の火種に。またエドワード8世は、重要書類にワインのしみを付けるなど、真面目な態度で政務を行わなかったような話も。

2-5、エドワード8世、退位

1937年エドワード8世は「愛する女性の支え無しでは国王としての義務が果たせない」とラジオ演説して戴冠式を待たずに退位。そして弟のヨーク公がジョージ6世として即位。
エドワード8世は、相続したバルモラル宮などの王室財産をジョージ6世に買い戻させたことで莫大な財産を獲得。最初はオーストリアへ渡ってウィーン郊外のエンツェスフェルト城で隠遁生活。その後はフランスに移り、1937年3月8日にウィンザー公爵の称号を得て、シンプソン夫人と約半年ぶりに再会して正式に結婚。

以後、王室とはしばらく疎遠となり、母メアリ・オブ・テック王太后と弟ジョージ6世、エリザベス王妃とは完全な絶縁状態。当初、エドワード8世としては、フランスで1、2年間「亡命生活」を過ごした後、すぐにイギリスに帰るつもりだったそうですが、メアリー王太后とエリザベス王妃を味方につけたジョージ6世が「許可を得ずに帰国するようなことがあれば、王室からの手当を打ち切る」と強硬な態度に出て、実現に至らず。

3-1、退位後、ドイツのヒットラーに利用されかける

King Edward VIII and Mrs Simpson on holiday in Yugoslavia, 1936.jpg
By National Media Museum from UK - King Edward VIII and Mrs Simpson on holiday in Yugoslavia, 1936. Uploaded by Sporti, No restrictions, Link

1937年10月、エドワード8世夫妻はイギリス政府の忠告に反し、アドルフ・ヒトラーの招待でドイツを訪問。ドイツでは国賓扱いでメディアでも大々的に取り上げ、ドイツ国民の歓迎を受けたそう。
この頃は、イギリスではネヴィル・チェンバレン政権によるドイツに対する宥和政策が進められていたのですが、エドワード8世夫妻による度を越したドイツへの肩入れはイギリス王室や政府、メディアからも強い反発を。

しかしドイツでの好待遇に気を良くしたエドワード8世は、ドイツのオーストリア併合やチェコスロバキア併合の実施など、ドイツによる覇権拡大政策をめぐりヨーロッパにおける情勢が緊迫を増して英独関係が悪化し続けた後も、度々ドイツを訪問。

3-2、エドワード8世、バハマの総督に

1939年9月1日にドイツがポーランドへの侵攻を開始し、9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告した直後、エドワード8世夫妻はフランスからイギリスへ帰国、フランスのマジノにおける陸軍の軍事作戦に従軍する少将に。

しかし、エドワード8世夫妻はそのままイギリスに留まることを拒否してフランスに戻るも、1940年5月のドイツのフランス国内への進軍に伴い、南フランス、ビアリッツ、6月にスペインに滞在した後、7月にポルトガルのリスボンへ。

リスボン滞在中の1940年7月に、ヒトラーが述べたことに対してエドワード8世が、ロイド・ジョージ等とともに和平に応じるようイギリス政府に呼びかけたことが、対独強硬派のチャーチル首相の危機感を呼び、スパイの報告もあって、イギリス政府は8月18日にエドワード8世を戦争に影響のないヨーロッパの戦場から遠く離れた、イギリスの植民地バハマ総督と駐在イギリス軍の総司令官に任命。

3-3、バハマ総督時代

総督は実際には名誉職で閑職も同然だったので、シンプソン夫人は「ここは(ナポレオンが流刑にされた)セントヘレナ島」という始末。エドワード8世夫妻は農業生産の拡大、子供たちを対象とした診療所の開設など、貧困対策に尽力するチャリティー活動を熱心に行ったということ。しかし、エドワード8世夫妻は人種差別志向があり、現地の黒人を差別するような残念な言動も多かったそう。

エドワード8世とナチスドイツとの関係
プラハにいたイギリスのスパイから外務次官宛の1940年6月付の報告によれば、「エドワード8世が、水面下でドイツ政府と交渉を行った結果、エドワード8世はドイツ政府の間で、エドワード8世を首班とした反政府組織の設立にドイツが協力すること、ドイツが勝利した暁にはエドワード8世をイギリス国王へ返り咲かせる(そしてシンプソン夫人を王妃に)という密約を結んでいた」ことが明らかに。
このような報告があったことは、2010年代まで公表されなかったそう。
そのうえエドワード8世が、連合国の情報をドイツにリークしていたという疑惑まで。

様々な情報からも、ドイツ政府が水面下でエドワード8世と接触していたことと、それに気づいたイギリス政府が接触を切ったことが明らかに。

\次のページで「4-1、第二次世界大戦後はパリ近郊で生活」を解説!/

4-1、第二次世界大戦後はパリ近郊で生活

エドワード8世夫妻は、第二次世界大戦後はフランスに戻り、パリ近郊でフランス政府から所得税を免除されパリ市から提供された住宅に住んで、悠々自適の生活に。

一方で、夫妻でホワイトハウスのアイゼンハワー大統領を訪問したり、エドワード・R・マロー司会のインタビュー番組「Person to Person」に出演するなど、積極的な活動も。

4-2、イギリス王室との関係

大戦後もエドワード8世夫妻とイギリス王室との関係は冷たいものでした。
1952年の弟ジョージ6世の死去の際は、エドワード8世が単身で葬儀に参列、姪であるエリザベス女王の戴冠式も欠席。

しかし1965年、姪のエリザベス2世と甥のケント公爵夫人のマリナ、妹のプリンセス・ロイヤルの3名の名義で初めて公式に夫妻で招待。事実上シンプソン夫人は「ウィンザー公夫人」として認められることに。同年に執り行われたエドワード8世の妹のプリンセス・ロイヤルの葬儀、1967年の母メアリ・オブ・テック王太后の生誕100周年記念式典、1968年のケント公爵夫人マリナの葬儀には夫妻で出席。

4-3、エドワード8世夫妻の最晩年

image by PIXTA / 46189095

エドワード8世は最晩年には、アメリカのニクソン大統領と親密になったり、イギリスBBCドキュメンタリーのインタビューに答えるなども。

1971年10月には、公邸でヨーロッパ訪問中の昭和天皇と半世紀ぶりに会見。

そしてエリザベス女王が1972年にフランスを公式訪問した際、エドワード8世邸を訪問、末期の食道癌で重体のエドワード8世をお見舞された10日後に77歳で死去。

4-4、シンプソン夫人、葬儀でイギリスへ

1972年、夫エドワード8世が亡くなったとき、葬儀のためにシンプソン夫人は初めてバッキンガム宮殿へ。しかし彼女は、一般に「ウィンザー公爵夫人」とは呼ばれていたものの、「HRH」妃殿下の称号のない人なので、こういう場では待遇に困る存在でした。エリザベス皇太后クィーンマザーは、「どうお呼びすればいいのでしょう」と戸惑っていたそう。またシンプソン夫人は、すでに痴呆状態でエドワード8世が亡くなったことも理解できずに、「ディヴィッド、どこにいるの?」と繰り返すばかりだったという話も。

1986年4月24日、シンプソン夫人はパリ郊外の邸で89歳で死去。エリザベス女王の計らいで、葬儀はイギリスで王族として執り行われ、ウィンザー城近郊の王立墓地のエドワード8世の側に葬られたそう。また遺言により、遺産はすべてパリのパスツール研究所に寄付されたということ。

5-1、エドワード8世の逸話

幼少期に乳母から虐待を受けたトラウマがあり、神経性胃炎と双極性障害を患っていたということ。大人になってからも、何か自分に気に入らないことがあると、すぐに大声で泣き叫ぶなど、年齢に不相応な幼い面も。

5-2、当時のファッションリーダーだった

エドワード8世は、その当時としては珍しい襟の大きなワイドスプレッドカラーのシャツを着用したので、ウィンザー・カラーシャツと呼ばれるようになったり、普段着だったセーターをゴルフウェアとして着用したり、ウィンザー・ノットというネクタイの結び方も(これは本人が自著で関連を否定)、また、第二次世界大戦後、男性は帽子をかぶらなくなったのは、「エドワード8世が帽子をかぶらなくなったから」流行が廃れて、男性方は帽子をかぶらなくなったとすら言われています。おしゃれで当時のファッションリーダーだったのですね。

戦後は、度々パーティーを主催したり、パリとニューヨークを行き来する生活を過ごすなど、いわゆるジェット・セッター的な生活で、シンプソン夫人も贅沢なブランド物のドレスをこれ見よがしに着こなし、豪華な宝石を身につけて社交界で張り合っていたのも有名。

ジェット・セッターとは
自家用ジェット機で世界中を遊びまわる大金持ち、その子弟のことで、今風に言えば超セレブのこと。
エドワード8世夫妻はこういう人たちの先駆け的存在で、他にはジャクリーン・オナシス夫人であるとか、マーガレット王女、モナコの王族などのヨーロッパの王室関係の人たち、ギリシアの船舶王、ロック・スターとか映画俳優、または親がそういう大金持ちの子弟であるなど、とにかくけた外れの大金持ちで暇を持て余しているグループです。

彼らは彼らで冬のリゾート地や夏のリゾート地のトレンドがあり、毎年のように流行最先端の場所へ行き最上級のホテルに宿泊していないと、落ちぶれたとレッテルを張られるそう。故ダイアナ妃もこういう仲間のメンバーで、ヨーク公セーラ妃などもこういう仲間に入り込んで借金を作ったよう。

5-3、大正時代に来日

1922年、エドワード8世は、プリンス・オブ・ウェールズ時代に、裕仁親王(:昭和天皇)の訪欧の返礼として日本を訪問。

新宿御苑で観桜会、浜離宮の鴨場で鴨猟、また吹上御苑から日比谷公園へ向かう途中、イギリス王族としては初めて靖国神社で祝詞に続いて玉串を捧げたということ。大阪電気軌道(現:近鉄奈良線)の奈良駅〜上本町駅間の電車に乗車し、京都などを回って皇族や軍人などと面談、鹿児島では島津家の邸宅(現:仙巌園)を訪ね、鎧兜を着用して祝賀会に出席したり、パーティーでは随行員らとともに着物姿と法被姿を披露。

\次のページで「5-4、本当は冷え切っていた?」を解説!/

5-4、本当は冷え切っていた?

エドワード8世は、シンプソン夫人との結婚や退位について、「もし時計の針を元に戻せても、私は同じ道を選んだでしょう」とインタビューで話し、亡くなるまで仲睦まじさをアピールしたものの、実際はふたりの仲はすっかり冷え切っていたということ。

5-5、パグ愛好家

エドワード8世夫妻は、犬のパグの愛好家として知られていて、パリ近郊の邸には常に数匹のパグとクッションなどの雑貨もパグの模様のものでいっぱいだったそう。

5-6、遺産の寄付でエイズ研究が飛躍的に進歩

以前に見たイギリス制作のドキュメンタリー番組では、エドワード8世の側近のコメントとして、「ご夫妻のしたことのなかで最も優れた偉業」が、死後、莫大な遺産をパスツール研究所への寄付したことだということ。なぜなら、その寄付金のおかげで当時最も恐れられていたAIDSの研究が飛躍的に進んだからで、それにしても皮肉な言葉ではあります。

王冠を捨てた恋で大衆受けはしても国王の資質に疑問が

エドワード8世はヴィクトリア女王の直系の孫としてイギリス国王になる運命の元に生まれ、父を継承して立派な国王となるべく教育されてきたはず。

そういう立場の人間は否応なしにそれ相応の態度をとり、またふさわしい相手との結婚を考えるものなのですが、どこをどう間違ったのか、離婚歴のあるアメリカ人女性と恋に落ちて42歳の分別盛りで即位してすぐに退位。

しかもおとぎ話のようにシンプソン夫人と結婚して幸せに暮らしましたではなく、ドイツでの待遇がいいからといって、ヒットラー寄りとなり、もし第二次世界大戦でイギリスがドイツに負けていれば傀儡政権として復位するつもりもあったなど、その後の芳ばしい話も色々あるようです。ファッションリーダーで大衆に人気があり、国王になるべく生まれていても、地位にふさわしい資質がなかった人物だったのではないでしょうか。

" /> 王冠を賭けた恋で有名なエリザベス女王の伯父君「エドワード8世」を歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
イギリスヨーロッパの歴史世界史歴史

王冠を賭けた恋で有名なエリザベス女王の伯父君「エドワード8世」を歴女がわかりやすく解説

今回はエドワード8世を取り上げるぞ。イギリスのエリザベス女王の伯父君ですが、当時はご法度の離婚したアメリカ人女性と結婚するために退位したことで有名ですね。

その辺のところを昔からウィンザー家に興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。ヨーロッパの王室にも興味津々、例によって昔読んだ本を引っ張り出し、ネット情報で補足しつつエドワード8世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、エドワード8世はジョージ5世の長男

Jorge v, esposa e filho eduardo.jpg
By 不明Royal Forums, パブリック・ドメイン, Link

エドワード8世は、1894年6月23日に当時のヨーク公ジョージ王子(後のジョージ5世)と、メアリ・オブ・テック妃の長男として誕生。すぐに年子で弟のアルバートことジョージ6世が生まれ、妹のメアリ(後のハーウッド伯爵夫人)、後のグロスター公ヘンリー、ケント公ジョージ、夭折したジョンの6人きょうだいです。

1-2、ヴィクトリア女王の直系の曾孫

エドワード8世は、ヴィクトリア女王の曾孫でエドワード7世の孫でジョージ5世の長男、生まれながらにして将来の国王の地位が約束されていました。

当時74歳だった曾祖母のヴィクトリア女王は、将来国王になる運命の曽孫の誕生を日記に「強いまなざしをもった玉のような子」「なんという喜び、なんというお恵みでしょう」と書いたそう

エドワード8世の洗礼名は、エドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドルー・パトリック・デイヴィッド。アルバートはもちろんヴィクトリア女王の希望で曾祖父のアルバート公からで、祖父のエドワード7世、そして早世したジョージ5世の兄で伯父のクラレンス公アルバート・ヴィクターにもちなんでいて、クリスチャンは母方の曾祖父のデンマーク国王クリスチャン9世から、またジョージ、アンドルー、パトリック、デイヴィッドは、いずれもイングランドとスコットランドとアイルランドとウェールズの守護聖人にちなんだものだったということ。しかし家族や友人からはデイヴィッドと呼ばれることに。大変な意味のある名前なんですね。

ここでは便宜上、エドワード8世で通しますね。

1-3、エドワード8世の子供時代

エドワード8世の幼少期は、当時のイギリスの上流階級らしく両親ではなく乳母からしつけを。しかし、弟のアルバート(ジョージ6世)とともに、乳母の一人からは、両親が不在のときには食事が与えられないとか体をつねられるなどの虐待を受け、エドワードが異常なまでに泣き叫んだため、両親がその乳母を追い出したことも。

そして13歳頃まで家庭教師の厳格な教育を受け、1907年からはオズボーン海軍兵学校に入学し海軍軍人となるべく教育。しかし軍人としての過酷なトレーニングやスパルタ教育、寮生活には馴染めず、オズボーンで2年間を過ごした後、ダートマスの海軍兵学校に移ったが、やはり同級生からいじめを受けるなど経験。

エドワード8世自身も、自分には海軍士官の素質は無いことを自覚していたそう。

1-4、父の即位で王太子として叙位式

image by PIXTA / 12955292

1910年、祖父エドワード7世が死去、父ジョージ5世が即位すると、16歳で王太子プリンス・オブ・ウェールズに。エドワード8世は、将来の国王への準備のため兵学校卒業を前に正式な海軍軍人コースから外され、オックスフォード大学のモードリン・カレッジに入学したが、正式な課程を経ず学位取得もなく修了。

1910年5月6日にロスシー公並びにコーンウォール公、同年6月23日にプリンス・オブ・ウェールズ並びにチェスター伯の称号を得て、翌1911年7月13日にウェールズのカーナーヴォン城で叙位式。その際、ウェールズ語で答辞を述べ、これは後のプリンス・オブ・ウェールズであるチャールズ王太子の答辞の前例に。

1-5、エドワード8世、第一次世界大戦に志願

A022344.jpg
パブリック・ドメイン, Link

第一次世界大戦が勃発し、軍に志願できる最低限の年齢に達していたエドワードは軍への入隊を熱望。1914年6月に陸軍入隊後に一兵士として最前線に派遣するよう直訴したが、陸軍大臣ホレイショ・キッチナーが、王位継承権第1位にあるプリンス・オブ・ウェールズが捕虜になったら大変と、拒否。

なのでエドワードは最前線を可能な限り慰問に訪れたため1916年にミリタリー・クロスを授与されて、後に退役軍人の間で大きな人気を得たそう。1918年には空軍で初めての飛行を行い、後にパイロットのライセンスを取得。

2-1、エドワード8世、気さくな態度が大衆受け

第一次大戦後、エドワード8世は海外植民地の世論対策として自国領や植民地、世界各国を歴訪し、訪問先では絶大な歓迎を受けたので、ロイド・ジョージ首相から「私たちの最も素晴らしい大使」と評されたということ。

また、失業問題や労働者の住宅問題に関心を寄せたり、一般大衆や一兵卒たちのなかに飛び込んで気さくな態度で交流できる人で、当時開始されたばかりのラジオ放送に出演したことも。他にも、オックスフォード大学在学中、バンジョーを弾きながら「赤旗の歌」(王制を否定する共産主義の歌)を歌ってみたり、ロンドンの高級レストランでオーストラリア国防軍の兵隊達が店員から食事を拒否されている場面に出会ったとき、兵隊全員を自分のテーブルに招いたなど、メディア受けするエピソード満載で「比類なき君主制度のPRマン」などと評され、国内外を問わず大変な人気者に。

しかし、オーストラリア訪問時、先住民アボリジニについて「私がこれまでに見た生物での中でも、最も醜悪な容姿をしている。彼らは人間の中でも最も猿に近い」などという人種差別そのものの発言で物議を醸したりも。

\次のページで「2-2、エドワード8世、多趣味でプレイボーイ」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: