その辺のところを昔からウィンザー家に興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、エドワード8世はジョージ5世の長男
- 1-2、ヴィクトリア女王の直系の曾孫
- 1-3、エドワード8世の子供時代
- 1-4、父の即位で王太子として叙位式
- 1-5、エドワード8世、第一次世界大戦に志願
- 2-1、エドワード8世、気さくな態度が大衆受け
- 2-2、エドワード8世、多趣味でプレイボーイ
- 2-3、ウォリス・シンプソン夫人との出会い
- 2-4、エドワード8世として即位
- 2-5、エドワード8世、退位
- 3-1、退位後、ドイツのヒットラーに利用されかける
- 3-2、エドワード8世、バハマの総督に
- 3-3、バハマ総督時代
- 4-1、第二次世界大戦後はパリ近郊で生活
- 4-2、イギリス王室との関係
- 4-3、エドワード8世夫妻の最晩年
- 4-4、シンプソン夫人、葬儀でイギリスへ
- 5-1、エドワード8世の逸話
- 5-2、当時のファッションリーダーだった
- 5-3、大正時代に来日
- 5-4、本当は冷え切っていた?
- 5-5、パグ愛好家
- 5-6、遺産の寄付でエイズ研究が飛躍的に進歩
- 王冠を捨てた恋で大衆受けはしても国王の資質に疑問が
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。ヨーロッパの王室にも興味津々、例によって昔読んだ本を引っ張り出し、ネット情報で補足しつつエドワード8世について5分でわかるようにまとめた。
1-1、エドワード8世はジョージ5世の長男
By 不明 – Royal Forums, パブリック・ドメイン, Link
エドワード8世は、1894年6月23日に当時のヨーク公ジョージ王子(後のジョージ5世)と、メアリ・オブ・テック妃の長男として誕生。すぐに年子で弟のアルバートことジョージ6世が生まれ、妹のメアリ(後のハーウッド伯爵夫人)、後のグロスター公ヘンリー、ケント公ジョージ、夭折したジョンの6人きょうだいです。
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1-2、ヴィクトリア女王の直系の曾孫
エドワード8世は、ヴィクトリア女王の曾孫でエドワード7世の孫でジョージ5世の長男、生まれながらにして将来の国王の地位が約束されていました。
当時74歳だった曾祖母のヴィクトリア女王は、将来国王になる運命の曽孫の誕生を日記に「強いまなざしをもった玉のような子」「なんという喜び、なんというお恵みでしょう」と書いたそう。
エドワード8世の洗礼名は、エドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドルー・パトリック・デイヴィッド。アルバートはもちろんヴィクトリア女王の希望で曾祖父のアルバート公からで、祖父のエドワード7世、そして早世したジョージ5世の兄で伯父のクラレンス公アルバート・ヴィクターにもちなんでいて、クリスチャンは母方の曾祖父のデンマーク国王クリスチャン9世から、またジョージ、アンドルー、パトリック、デイヴィッドは、いずれもイングランドとスコットランドとアイルランドとウェールズの守護聖人にちなんだものだったということ。しかし家族や友人からはデイヴィッドと呼ばれることに。大変な意味のある名前なんですね。
ここでは便宜上、エドワード8世で通しますね。
1-3、エドワード8世の子供時代
エドワード8世の幼少期は、当時のイギリスの上流階級らしく両親ではなく乳母からしつけを。しかし、弟のアルバート(ジョージ6世)とともに、乳母の一人からは、両親が不在のときには食事が与えられないとか体をつねられるなどの虐待を受け、エドワードが異常なまでに泣き叫んだため、両親がその乳母を追い出したことも。
そして13歳頃まで家庭教師の厳格な教育を受け、1907年からはオズボーン海軍兵学校に入学し海軍軍人となるべく教育。しかし軍人としての過酷なトレーニングやスパルタ教育、寮生活には馴染めず、オズボーンで2年間を過ごした後、ダートマスの海軍兵学校に移ったが、やはり同級生からいじめを受けるなど経験。
エドワード8世自身も、自分には海軍士官の素質は無いことを自覚していたそう。
1-4、父の即位で王太子として叙位式
1910年、祖父エドワード7世が死去、父ジョージ5世が即位すると、16歳で王太子プリンス・オブ・ウェールズに。エドワード8世は、将来の国王への準備のため兵学校卒業を前に正式な海軍軍人コースから外され、オックスフォード大学のモードリン・カレッジに入学したが、正式な課程を経ず学位取得もなく修了。
1910年5月6日にロスシー公並びにコーンウォール公、同年6月23日にプリンス・オブ・ウェールズ並びにチェスター伯の称号を得て、翌1911年7月13日にウェールズのカーナーヴォン城で叙位式。その際、ウェールズ語で答辞を述べ、これは後のプリンス・オブ・ウェールズであるチャールズ王太子の答辞の前例に。
1-5、エドワード8世、第一次世界大戦に志願
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第一次世界大戦が勃発し、軍に志願できる最低限の年齢に達していたエドワードは軍への入隊を熱望。1914年6月に陸軍入隊後に一兵士として最前線に派遣するよう直訴したが、陸軍大臣ホレイショ・キッチナーが、王位継承権第1位にあるプリンス・オブ・ウェールズが捕虜になったら大変と、拒否。
なのでエドワードは最前線を可能な限り慰問に訪れたため1916年にミリタリー・クロスを授与されて、後に退役軍人の間で大きな人気を得たそう。1918年には空軍で初めての飛行を行い、後にパイロットのライセンスを取得。
2-1、エドワード8世、気さくな態度が大衆受け
第一次大戦後、エドワード8世は海外植民地の世論対策として自国領や植民地、世界各国を歴訪し、訪問先では絶大な歓迎を受けたので、ロイド・ジョージ首相から「私たちの最も素晴らしい大使」と評されたということ。
また、失業問題や労働者の住宅問題に関心を寄せたり、一般大衆や一兵卒たちのなかに飛び込んで気さくな態度で交流できる人で、当時開始されたばかりのラジオ放送に出演したことも。他にも、オックスフォード大学在学中、バンジョーを弾きながら「赤旗の歌」(王制を否定する共産主義の歌)を歌ってみたり、ロンドンの高級レストランでオーストラリア国防軍の兵隊達が店員から食事を拒否されている場面に出会ったとき、兵隊全員を自分のテーブルに招いたなど、メディア受けするエピソード満載で「比類なき君主制度のPRマン」などと評され、国内外を問わず大変な人気者に。
しかし、オーストラリア訪問時、先住民アボリジニについて「私がこれまでに見た生物での中でも、最も醜悪な容姿をしている。彼らは人間の中でも最も猿に近い」などという人種差別そのものの発言で物議を醸したりも。
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