4-3、戊辰戦争戦死者の慰霊に
容保は、会津、新潟、白河などで戊辰戦争での戦没者の慰霊、慰霊碑の扁額に揮毫を。高幡不動に新選組の近藤、土方を称える「殉節両雄之碑」(碑文は明治9年、建立は明治21年)をと松本良順が運動し、徳川慶喜に額を頼んだが、涙を流すのみで書くとも書かないとも言わず、結局容保が篆額を書いた話は有名。
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4-4、日光東照宮の宮司として、文化財保護に務める
明治13年(1880年)2月2日、栃木県日光市の日光東照宮宮司に就任。
その後上野東照宮祠官や二荒山神社宮司も兼任。尚、元家老の西郷頼母も禰宜となって仕えました。
戊辰戦争時に、日光が戦場になる前に日光東照宮の御神体を会津に運んで守ったということもあり、東照宮の宮司となった松平容保は、明治13年(1880年)明治後の文明開化の時代に荒れ果てた日光の景観を取り戻して、文化財保全を目的とした民間結社である保晃会(ほこうかい)の初代会長に就任。地元有志らとともに全国からの募金を基金にし、その利子で社寺の修繕をという東照宮保全事業を。その後、1887年(明治20年)に「古社寺保存法」が施行され、国から援助金を得ることができるように。
日光東照宮が荒れ果てずに済み世界遺産に指定されたのは、容保のおかげとさえ言われているほど。
4-5、皇典講究所監督に
東京と栃木の皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)監督を兼任。
皇典講究所とは、1882年に明治政府が設立した神職の中央機関のこと。神道事務局に代わって神職の教育養成機関としての役割を担っていた現在の國學院大學の前身、母体。
5-1、容保の逸話
逸話の少ない方のようですが、珠玉のような逸話があります。
5-2、招魂祭での逸話
ある年、招魂祭に容保が出席したとき、例年、参加者はお供えのお下がりをいただくが、容保のお膳だけは特別なものを用意したところ、容保候はお膳に箸を付けず、町野主水がすすめると容保候は私のお膳はみんなと同じものかと尋ねられ、違うと答えると、「みんなと同じものを持ってきてくれ、私はこの慰霊祭に参列するのは美食佳肴を食べたいからではなく、参列した人々と旧を語り、古を偲びそして亡霊を弔うため」と。その通りにするとお膳に箸を付けられたということ。
5-3、長年仕えた小姓からみた容保
数十年仕えた小姓浅羽忠之助は容保について「喜怒の感情を表に出さない人柄で、何十年御側にいても、切迫した様子を見せたことがなく、また他人が切迫しているのを見るのも嫌っていた。実に春風の中に座っているような方だったが、思い込んだらその意見は必ず通すという側面もあった」ということ。
5-4、会津磐梯山噴火の際、慰問と寄付を
明治21年(1888年)の会津磐梯山の噴火で大災害が起きた際、旧藩主として容保は現地を慰問、義捐金200円(現在の800万円ほどで破格の金額)を寄付したということ。
5-5、英照皇太后からお見舞いを
容保が亡くなる前、病気が重いと聞いた英照皇太后(孝明天皇女御)が、滋養に良いと牛乳を下されたのですが、容保牛乳の香りが苦手と聞きさらにコーヒーを入れて飲むようにと侍医橋本綱常に託され、容保感涙して飲んだという話。
5-6、首にかけた竹筒
容保は晩年、20㎝ほどの竹筒を首にかけ、沐浴以外は絶対に外さなかったということで、死後に息子たちが開けてみると孝明天皇の宸翰が。内容は、いかに孝明天皇が容保を信頼しているかと御製の和歌、長州閥の公家を罵倒された内容。明治政府から買い取りの話が来たが断り、銀行の貸金庫に眠っているという話。しかし明治22年(1889年)、容保から明治天皇に提出され、約1か月で返却されていたことが、宮内庁宮内公文書館の史料から最近になって明らかに。
晩年の容保は、祐堂と号して和歌をたくさん作りましたが、幕末のことはほぼ何も語らず、明治26年に59歳で死去。神号は忠誠霊神(まさね)。