今回は、幕末の会津藩主松平容保を取り上げるぞ。容保は結果的に京都守護職として新選組のやったことの責任取らされたのか、恭順した徳川将軍慶喜の代わりに攻められたのか。

その辺のところを昔から容保に興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。幕末、明治維新に興味津々。子供の頃、司馬遼太郎著「王城の護衛者」を読んで以来のファンである松平容保について詳しくまとめた。

1-1、容保は、尾張徳川家の分家の高須松平家の生まれ

天保6年(1835年)12月29日、江戸の高須藩邸で藩主松平義建の6男として誕生。母は側室の古森氏で、幼名を銈之允(けいのすけ)。元服して容保(かたもり)。

高須松平家の兄弟は、男兄弟が10人(4人が夭折)、長兄が尾張慶勝、浜田藩主で早世した武成、慶勝の跡に尾張藩主、後に一橋家を継いだ茂徳(もちなが)、容保、そして11歳下の桑名藩主で京都所司代の定敬(さだあき)、末弟が同母弟で高須松平家を継いだ義勇(よしたけ)。このなかで慶勝、武成、容保、定敬を高須4兄弟。他に妹として、出羽国米沢藩13代藩主上杉 茂憲(うえすぎ もちのり)の室幸(早世)。父義建は息子たちを自分で教育して育て、全員が大名に。

1-2、会津松平家へ養子に

弘化3年(1846年)、実の叔父(父の弟)の会津藩第8代藩主容敬(かたたか)の養子に。容保は、「お子柄がいい」と会津家の男女が騒ぐほどの美貌の少年。ただ容保はすぐに発熱、疲労がたまると顔が青くなるひ弱さが。

この頃12歳で江戸城に登城、溜間で退屈して烏帽子の紐をほどいて舐っていたら、井伊直弼が結び直してくれたという逸話があり、井伊直弼が目をかけていたという話も。

容敬は、容保を会津の家風に基づいて教育。神道(敬神崇祖における皇室尊崇)、儒教の義と理、会津藩家訓の「武家の棟梁たる徳川家への絶対随順」などで、後の京都守護職としての容保の行動指針に。

嘉永4年(1851年)、容保は初めてのお国入りで会津へ、文武を修め、追鳥狩を行い、藩校の日新館で文武の演習を閲しました。

井伊直弼と養父容敬

容保の叔父でもある容敬は江戸城の溜間詰で、高松藩主松平頼胤と共に、兄の継承者となった32歳の井伊直弼を先輩として支援、色々と世話を焼いたということで、直弼は容敬を「当今英雄の大将、天下の御為無二の忠臣、実に感服いたし候」と尊敬を。容敬が容保を養子にしたとき、「急に2人の子供の(容保と敏姫)の父親になったような心境」と喜んだということ。あの井伊直弼に尊敬された養父容敬、なかなかの人物だったのですね。

1-3、容保、18歳で会津藩主に

嘉永5年(1852年)2月10日に藩主容敬が47歳で亡くなり、容保が9代目会津藩主松平肥後守を継承。嘉永6年(1853年)4月、ペリーの黒船来航に伴って、安房、上総の警備地を巡視、士卒の操練や船の運用、会津藩は品川第二砲台管守に。 安政元年(1854年)将軍家定の命により、駒場野にて老中、若年寄に会津藩士千人余りを率いた教練を披露。安政の大地震では会津上屋敷和田倉邸と下屋敷の芝邸が焼失、死者165名の大惨事となるも被災者の救済に。安政6年(1859年)品川の守備を解かれ蝦夷地の守備を。

1-4、容保、22歳で容敬娘と結婚

安政3年(1856年)14歳の従妹敏姫と結婚、しかし敏姫は病弱で文久元年(1861年)に19歳で死去。その翌年、容保は加賀藩主前田慶寧の長女禮姫(みちひめ)と婚約、12月に京都守護職として上洛し、京に長期滞在したため婚儀は延期、その後明治4年(1871年)の廃藩置県を機に縁組を正式に解消。

1-5、容保、桜田門外の変後の水戸藩の処理で発言し、注目される

万延元年(1860年)、26歳のときに桜田門外の変が勃発。事件後、老中久世広周、安藤信正が、井伊直弼を暗殺した水戸浪士に関連して御三家の水戸藩へ出兵の是非を論じたとき、容保は徳川御三家同士の争いは絶対不可と主張、幕府と水戸藩との調停に。そして容保は問題となった水戸家への密勅の返還問題について、家臣を水戸に派遣して武田耕雲斎、原市之進らを説得させて勅書を幕府に返上、解決。

それまで容保は学者肌でおとなしいだけかと思われていたのに意外な有能さを発揮し、俄然注目されましたが、容保の父は水戸家の出身で斉昭の従兄弟に当たること、養父容敬と井伊直弼との関係などもこの問題解決に役立ったはず。

2-1、容保、新設の京都守護職に

容保28歳の文久2年(1862年)、将軍家茂より「折々登城し幕政の相談にあずかるように」と命じられて幕政参与に。京の都の治安悪化で新設の京都守護職にと打診を。この時、容保は病床にあったこともあり固辞、再三にわたり断ったのに、政治総裁職の松平春嶽や幕臣は容保を日夜説得、会津藩家訓を持ち出されて、藩祖正之公ならば受けただろうとすら言われ、拝命せざるを得ない状態に。

国元から家老の西郷頼母、田中土佐らが駆け付け、就任を断わるように主張、「このころの情勢、幕府の形勢が非であり、いまこの至難の局に当たるのは、まるで薪を背負って火を救おうとするようなもの。おそらく労多くして功少なし」と容保を説得。しかし容保は、「そもそも我家には宗家と盛衰存亡を共にすべしという藩祖公の遺訓が。余不肖といえども一日も報效を忘れたことはない。ただ不才のため宗家に累を及ぼすことを怖れただけ。他の批判で進退を決めるようなことはないが、いやしくも安きをむさぼるとあっては決心するよりほかない。しかし、重任を拝するとあれば我ら君臣の心が一致しなければその効果は見られないだろう。卿ら、よろしく審議をつくして余の進退を考えてほしい」と、悲壮な決意を表明、家臣らは容保の衷悃(ちゅうこん、まことのまごころと言う意味)に感激、「この上は義の重きにつくばかり、共に京の地を死に場所としよう」と、君臣ともに肩を抱いて涙したというのは「京都守護職始末」にある有名な話

2-2、容保、公武一和のための建白書を幕府へ提出

容保は、国家混乱を治めるためには、公武一和(公武合体)として、朝廷と幕府が協力して国内の混乱を平定したうえで対外政策を取ることが目的だという内容の建議書を幕府へ提出、この容保の建白を幕府は採用、また、孝明天皇も容保の建議書の話を聞かれて「中正の卓見」(偏らない優れた見識)とお喜びに。

2-3、容保上洛

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この頃の京都は、尊王攘夷の志士と称する浪人たちが暴徒と化し、暗殺が横行、商店に金銭をたかるなど好き放題なのに、弱体化していた京都所司代と京都奉行所は手を出せず、取り締まりを放棄したも同然で無政府状態、庶民は不安におののいたそう。

容保は、文久2年12月24日、会津藩兵千人を率いて上洛、京都守護職に着任。京都庶民は整然とした会津の兵たちと容保の姿に感銘を受け、公家たちは容保の着任の挨拶や立ち居振る舞いが折り目正しいために、好感度大だったそう。
容保は権謀術数を用いることが苦手なので、言路洞開(げんろどうかい)話し合いで解決しようとし、また策を用いずに誠実な対応をモットーに、自分を訪ねてきたら酒を酌み交わして話し合ってもいいとさえ言い、尊王攘夷の志士の暴挙を防ぎ京都の治安維持という任務遂行をするつもりでした。また、ある家臣の、今は様々な策謀が巡る混乱の時局なので我々も策を弄したほうがという進言に容保は「策は用いるな。最後には必ず一途な誠忠が勝つ」と叱ったそう。そして家臣が至らず失敗をして市民から訴えがあっても、すべてを主君である自分の不肖として、絶対に家臣を責めなかったので、家臣たちも容保にならってしっかり職務の責任を果たしたということ。

それに上品な美形のせいか、京の都大路では「会津中将が行かはるで」と、若い女の子たちが我先に走って見に行ったとか、御所に参内すると女官たちが騒いだという話も。

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2-4、容保、孝明天皇の熱烈な支持を受ける

容保は1月2日に京都御所へ参内。小御所で初めて孝明天皇に拝謁し、天杯と緋の御衣が下賜。孝明天皇も勅使の待遇を改めるための容保の建議書や、容保が4つ下の同年配で親しみを持たれたようで、その場で容保に御衣を賜るという、まったく前例のない行動に出られ、「陣羽織か直垂に作り直すがよい」と恩詔が。

容保はこのことに大感激、公卿近衛忠煕(母が高須藩8代藩主の娘なので親戚)から聞いた御所のお台所事情のひどさを心配して、豊かではないポケットマネーで孝明天皇のために新鮮な魚を配送させて献上、孝明天皇が感激された話は有名。

2-5、容保、足利三代将軍木像梟首事件で厳しい取り締まりに

容保は、会津兵に夜中巡邏させる制度を作って、暴徒を警戒。
肥後の轟武兵衛と長州の久坂玄瑞が「三願(攘夷期限の設定、言論の自由、国事掛の厳選)」を願い出たときも、一橋慶喜や松平春嶽は逮捕させようとしたが、容保だけは寛大の処置を、言路洞開こそが浪士鎮撫の良策と主張したほど。

しかし足利三代将軍の木像梟首事件が勃発。これは攘夷派浪士によって、等持院にあった足利将軍3代の木像の首が引き抜かれて三条大橋に晒された事件で、板札は公然と足利将軍の首を徳川将軍に擬していたので、倒幕の意図が明白。これにはさすがの容保も激怒し京都町奉行に追捕を厳命。尚、この事件は容保の家臣で攘夷浪人の仲間に入って動向を探らせていた大庭恭平が関わっていて自白、共犯者もすぐに判明し一斉捕縛ということに。

今まで生ぬるかった容保の態度に、尊攘派浪士たちは一斉に捕縛すれば暴動になると脅したそうですが、容保は本気、町奉行所の与力、捕方たちだけでは心もとないと会津藩士も加勢させましたが、町奉行所の捕方らは信じられないくらいへっぴり腰で役に立たないことが 明らかに。

2-6、容保、壬生浪士を会津藩預かりとして新選組に

時代劇の影響で意外に思われることですが、下手人の取り締まりや逮捕は、古来、武士の仕事としては不浄のもので、会津藩士が直接手を下す仕事ではなかったそう。また奉行所の与力や捕方たちがあの体たらくでは、幕府、将軍の権威失墜にもなりかねないので困っていたところ、3月に上洛した将軍家茂に従ったなかで京都に残っていた壬生の浪士が伝手をたどって会津藩の役に立ちたいと申し出て来たので、願ってもないこととして会津藩預かりの身分を与え、以後「新選組」として直接取り締まりを。

容保にとって、尊王攘夷を唱える浪士は強盗や殺人などで政治や治安を混乱させる存在、ほぼ今でいうテロリストだったので取り締まるのは京都の治安維持のために当然すぎることでした。

3-1、長州藩尊攘の志士と公家が容保を排除に

この頃、長州藩士たちは三条実美らの公家を懐柔し、偽の勅許を連発して思う通りに世の中を動かし、朝廷を乗っ取り幕府を倒す陰謀を図っていました。なので孝明天皇の信頼厚い容保が邪魔になり、江戸へ帰った将軍を呼び戻すために容保に江戸へ行くようにという偽勅を。これに対し、容保は長州の策略という見方が出来ず、また謀略だと助言する家臣も皆無で、自分と会津兵が京都を去れば京都の治安が乱れる、何とか勅許の撤回をと必死であちこちの公卿に対し家臣を遣わせ説得。

しかしこのとき孝明天皇も、容保が京を離れるのが不安だったということで、前例のない行動に出られて、容保に江戸へ行くようにというのは偽勅である、自分は容保を信頼している、これが本物の勅であるという内容の手紙を容保にあてて送られたそう。容保は孝明天皇に信頼された宸翰を読み、大感激。

宸翰(しんかん)とは

古来、天皇に関しては特別な言葉が使われ、それは最高級の敬語です。顔は玉顔、または竜顔を拝する、体は玉体、声は玉音、気持ちは宸襟(しんきん)、考えは叡慮(えいりょ)、写真は御真影、衣服は御衣、言葉は勅語、命令は勅令、見学は天覧、外出は行幸(ぎょうこう)、死亡は崩御、歌は御製(ぎょせい)そして、直筆の文章、手紙はご宸筆、ご宸翰。

なので天皇のお言葉、気持ちを表した宸翰は、滅多なことで出されることはない貴重なもので、徳川御家門とはいえ一介の大名の容保に御衣を賜る、宸翰を送るなど、前代未聞のこととして、容保の感激、孝明天皇への敬愛の情、信頼におこたえしたいという気持ちは現代人には想像もつかないほどのものだったということ。

3-2、孝明天皇の胸中は

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孝明天皇は当時34歳、京都御所焼失で一時聖護院に仮住まいの他は、加茂神社行幸まで京都御所を一歩も出ずに生活という特殊な環境で過ごされた方。学識は深くても世間が狭く江戸幕府の弱体化も西欧諸国の軍備が上だなどとは察せられず。

そして宮中並びに公家諸法度などに縛られていて、関白らの決めたことに口出しできず朝廷の頂点にありながら、独裁者ですらなかったのです。「王城の護衛者」によると、錦絵の獣のようなデフォルメされたペリーをそのまま信じて、こんな異人がこの国へ入ってこられては困ると震え上がられたそう。なので自分の代で外国人が日本を汚すと困るが、戦争をして追い出すことは考えられず、これまで通りに江戸幕府の政治が続き、外国人が消えてほしいと思われていただけ。

従って、孝明天皇ご本人は過激な尊王攘夷の志士とは真逆の、根っからの佐幕派。
なので、過激派の公家たちをどうすることも出来ないところにあらわれた誠実な容保を頼りにするのは当然のこと。

3-3、容保、会津藩兵による馬揃えを天覧に

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By 不明。 - 会津若松市所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

容保は、孝明天皇の要請で、7月30日、建春門外で藩兵の馬揃え(軍隊操練)を天覧に。会津兵の勇ましさをパフォーマンスして見せればとの孝明天皇のお考え。

このとき3日ほど雨が続き、過激派公卿は「雨天順延」の命を出したあとに、急に叡覧の命を出し、容保に恥をかかせようと姑息ないけずをしたそうですが、容保は準備万端、大軍の操練を。天皇はこれを大変楽しまれ、8月5日に馬揃えを再度天覧。終了後、容保は御車寄に召されてお言葉を賜ったが、初参内で賜わった緋の御衣を仕立て直した陣羽織を見て孝明天皇は喜ばれたそう。

3-4、容保、8月18日の政変で薩摩と手を組み長州を追放

この頃、過激派長州に遅れを取った薩摩藩が軍事力を持つ会津と同盟を組みたいと申し出が。容保は了承、そして8月13日に大和の詔として三条実美と真木和泉が偽勅を出したとき、容保ではなく薩摩藩が中川宮、近衛前関白らに根回しを。

8月16日、中川宮はひそかに参内して奸臣を除く議を奏上。孝明天皇より「国家の害を除くべし。容保に命を伝えよ」との真勅が。 8月17日夜半、会津、薩摩、その他4藩にて御所九つの門を固め、翌朝には出動した長州藩との激論にらみ合い、宮廷内の公家たちは大騒ぎとなり「長州兵は3万」という流言も飛び交い震えあがったが、孝明天皇は「全て容保に任す」と言い、容保は落ち着いて場を鎮めたそう。

結果、三条実美らは蟄居となって長州へ七卿落ち
長州では「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」と、薩摩と会津を恨むように

3-5、容保、病気で寝込む

容保は京の政局で、話のわからない幕府と過激な攘夷派とに悩まされ続けていました。のちに家臣山川浩は「わが公の多忙なことは、一つ処理すればすでに数件の難事件が双肩にかかるありさまで、禁中・二条城・各屋敷を奔走し、その苦心は筆舌にあらわし得ないほど」と書いたくらい。

とうとう文久3年末から慶応元年4月にかけて、容保は風邪をこじらせて起き上がれない状態に。心労か胆管の病気、または軽い結核と推察され、禁門の変でも家臣に抱えられるようにして参内、小御所で孝明天皇をお守りし、その後病状悪化。この頃は病気もあって京都守護職を退任したいと幕府に願い出ても許可されず、混とんとする京都の政局であまり動きが取れず。

孝明天皇も、容保の病状を大変心配され、毎日容保の病気平癒を願って祈祷。なかなか快方に向かわないので、「蟇目の術」を施そうと別の祈祷方法に替え、今朝は鈴の音が清らかだったので容保はきっと快方に向かうと供物の洗米を数粒ずつ飲むようにと託されるなど、容保は病床で感涙。

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3-6、容保、暗殺の危険も無事回避

元治元年(1864年)5月頃、池田屋事件直前の時期、長州勢が大勢京に入り込んで不穏な雰囲気のなか、病中の容保は、御所近くの浄華院(清浄華院)で御所の警護中でしたが、黒谷の宿舎で保養することに。

このときに容保襲撃の情報が入ったので、重臣は大いに心配、従者を増やそうとしたが、容保は「元より、自分の仕事は私心をもってのことではなく、天朝・幕府の命を奉じてのことなれば、道理に基づいてのことであり、何も心配する必要はない。万一暴発人が現れたとしても、それもまた天命。人数を増やしてもそれほど変わるまい。決してこれらは心配せず、人数など増やさないように」と断ったので、重臣らは、容保に気付かれないように、道筋に家来を忍ばせて守ったそう。そのとき容保は、びくびくするそぶりもなくいつも通りで家臣たちはその肝の太さに恐れ入ったという話。

この頃、容保は長州人に憎まれ暗殺の恐れがマックスでしたが、こういう逸話をみると暗殺されてしまう人も免れる人も、その人の運命かもしれないような気も。

3-7、一会桑政権

容保は文久3年(1863年)12月30日、朝議参与になるも、最初だけで出席せず、参預会議は短期間で崩壊。文久4年(1864年)2月11日、長州征伐のために京都守護職を免じられて陸軍総裁職に、京都守護職には松平春嶽が任命、しかし上は孝明天皇から、幕府の奉行や老中から新選組に至るまで、容保を京都守護職にもどせ、春嶽の下で働きたくないという声に押され、春嶽解任。容保は4月7日(5月12日)、軍事総裁職を免職され、4月22日、京都守護職に復職、諸藩共同だった市中警護を、一橋家、京都所司代、幕府歩兵組、京都守護職、新選組で分担することに。また、元治元年(1864年)京都所司代に容保の実弟である桑名藩主松平定敬が任命され、兄弟で京の治安を守る形になり、この時期の京都政局は、一橋慶喜、会津容保、桑名定敬との一会桑政権と呼ばれています。

3-8、第一次長州征伐後、大政奉還まで

容保は将軍家茂に総大将となって出陣するよう進言したが、結局は兄の徳川慶勝が総督、西郷隆盛が参謀となった第一次長州征伐はほぼ西郷が交渉して決着。慶応元年(1866年)、第2次長州征伐では幕府軍は各地で長州軍に撃破されまくり、将軍徳川家茂が大阪城で病没、慶喜によって中止となり、事実上の敗戦。そして慶応2年12月(1867年1月)に孝明天皇が崩御、慶応3年(1868年)10月14日、15代将軍慶喜による大政奉還により江戸幕府が消滅。

慶応3年(1867年)12月9日には薩摩藩、尾張藩、越前藩、土佐藩、芸州藩による政変が起こり、王政復古の大号令が発令され新政府誕生。親幕府派公家が排除され王政復古前に復権した長州藩が新政府に加わり、会津藩が追放される形となって、京都守護職が廃止され慶喜らと共に大阪城へ。

3-9、鳥羽伏見の戦い後、将軍慶喜に騙されて大坂城から船で江戸へ

慶応4年鳥羽伏見の戦いは、最初は薩摩、長州軍と幕府軍の戦いが3日目に明治天皇の倒幕の密勅で錦の御旗が掲げられ、薩長軍が官軍に。

それを聞いた将軍慶喜は、大坂城で風邪で寝込んでいたのに、朝敵になりたくないために、兵たちには明日出陣と激を飛ばし、夜のうちに容保、弟の定敬、老中の板倉、酒井といったお歴々と、そのときの自分の妾であった新門辰五郎の娘を連れて、コッソリと船で江戸へ逃亡。

容保らを連れて行ったのは、自分の代わりに大将として戦う可能性があったから、そして容保たちには江戸で決戦と言いつくろい有無を言わさぬ態度で同行させたよう。慶喜の一連の行動はその場を取り繕うためのアスペルガー症候群特有の大ウソ。(慶喜の色々な言動から考えるに、この人は発達障害としか思えないんですよね)

慶喜は江戸城へ着くや勝海舟に任せて自分ひとりはさっさと寛永寺で謹慎、容保、定敬兄弟は江戸城登城禁止とし、江戸にいるな会津へ帰れと通達、容保らは慶喜の考えに付いて行けず、キツネにつままれたような気持ちだったはず。そして置き去りにした家臣たちが江戸へ戻ってきた後、容保は申し訳ないと心から謝り、江戸屋敷を引き払って会津へ。

3-10、容保、会津若松城に籠城

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鳥羽伏見の戦いで朝敵とされた会津藩兵たちは最初、「生きて朝敵とされる汚名よりも死をかけて戦う」意気込みでしたが、容保は将軍慶喜が恭順している以上、官軍と一戦を交える気はなく、慶応4年(1868)2月22日容保は会津に帰るとすぐ家督を養子の喜徳(のぶのり、水戸家出身で慶喜の弟)へ譲り、慶喜を見習って謹慎し、新政府に対して降伏の書状を何十通も送ったが、まったく返事なし。そして否応なしに会津に攻めてくる官軍に対し、東北戦線で会津藩は奥羽越列藩同盟の支援を受け、庄内藩と同盟を結ぶなどして、最終的には会津若松城に籠城することに。

3-11、会津戦争へ

籠城と言うのは援軍が来ることを見越して行うもので、容保も、秋月悌二郎、手代木直右衛門(たしろぎ すぐえもん)たち家臣が援軍要請に派遣。しかし無理やり戦争状態に持っていかれた挙句、わずか数千人の会津軍に対して、西軍は3万か4万、そして1か月の間に鶴ヶ城に向かって、多いときは一昼夜に2700発もの砲弾を撃ち込み、城下でも略奪行為など目に余る醜いことを行ったという新政府軍の対応は、本来の武士の戦とは思えないひどさ。これは江戸無血開城となり、官軍の振り挙げた手のおろしどころがなく、京都で会津藩が長州の過激派テロを抑えていたこと、坂本龍馬ら暗殺の疑いなどもあり、今まで幕府側だった会津藩に反政府テロ活動を制圧されていた恨みを官軍という逆の立場になって晴らしていたとしか。

現在も、山口県から福島県に姉妹都市の要請があっても断られる話は、充分理解できます。

3-12、容保、ついに降伏

約1か月の籠城の後、藩主の容保は明治元年(1868年)9月22日降伏し、11月2日、因幡国鳥取藩に幽閉、12月7日、鳥取藩に永預り処分。明治2年(1869年)12月7日、紀伊国和歌山へ、明治4年(1871年)3月14日、陸奥国斗南藩に預替、8月東京に移住、そして明治5年(1872年)2月14日、預り処分を免じられて、明治9年(1876年)11月1日 従五位に叙位と復権。

4-1、明治後の容保

明治後、跡を継いだ長男容大(かたはる)が子爵になり華族に。しかし家の暮らし向きは苦しく、旧家臣たちがお給料から援助してくれたそう

4-2、尾張家相続の打診を断る

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By 不明。 - 徳川林政史研究所所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

容保が39歳の頃、兄慶勝から尾張徳川家継承をと要請された容保は、自分の不徳から起こった幕末の動乱で苦難を蒙った人々のことを思うと、自分だけが会津を離れて他家を継ぐわけにはいかないと断りました。

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4-3、戊辰戦争戦死者の慰霊に

容保は、会津、新潟、白河などで戊辰戦争での戦没者の慰霊、慰霊碑の扁額に揮毫を。高幡不動に新選組の近藤、土方を称える「殉節両雄之碑」(碑文は明治9年、建立は明治21年)をと松本良順が運動し、徳川慶喜に額を頼んだが、涙を流すのみで書くとも書かないとも言わず、結局容保が篆額を書いた話は有名。

4-4、日光東照宮の宮司として、文化財保護に務める

明治13年(1880年)2月2日、栃木県日光市の日光東照宮宮司に就任。
その後上野東照宮祠官や二荒山神社宮司も兼任。尚、元家老の西郷頼母も禰宜となって仕えました。

戊辰戦争時に、日光が戦場になる前に日光東照宮の御神体を会津に運んで守ったということもあり、東照宮の宮司となった松平容保は、明治13年(1880年)明治後の文明開化の時代に荒れ果てた日光の景観を取り戻して、文化財保全を目的とした民間結社である保晃会(ほこうかい)の初代会長に就任。地元有志らとともに全国からの募金を基金にし、その利子で社寺の修繕をという東照宮保全事業を。その後、1887年(明治20年)に「古社寺保存法」が施行され、国から援助金を得ることができるように。
日光東照宮が荒れ果てずに済み世界遺産に指定されたのは、容保のおかげとさえ言われているほど

4-5、皇典講究所監督に

東京と栃木の皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)監督を兼任。

皇典講究所とは、1882年に明治政府が設立した神職の中央機関のこと。神道事務局に代わって神職の教育養成機関としての役割を担っていた現在の國學院大學の前身、母体。

5-1、容保の逸話

逸話の少ない方のようですが、珠玉のような逸話があります。

5-2、招魂祭での逸話

ある年、招魂祭に容保が出席したとき、例年、参加者はお供えのお下がりをいただくが、容保のお膳だけは特別なものを用意したところ、容保候はお膳に箸を付けず、町野主水がすすめると容保候は私のお膳はみんなと同じものかと尋ねられ、違うと答えると、「みんなと同じものを持ってきてくれ、私はこの慰霊祭に参列するのは美食佳肴を食べたいからではなく、参列した人々と旧を語り、古を偲びそして亡霊を弔うため」と。その通りにするとお膳に箸を付けられたということ。

5-3、長年仕えた小姓からみた容保

数十年仕えた小姓浅羽忠之助は容保について「喜怒の感情を表に出さない人柄で、何十年御側にいても、切迫した様子を見せたことがなく、また他人が切迫しているのを見るのも嫌っていた。実に春風の中に座っているような方だったが、思い込んだらその意見は必ず通すという側面もあった」ということ。

5-4、会津磐梯山噴火の際、慰問と寄付を

明治21年(1888年)の会津磐梯山の噴火で大災害が起きた際、旧藩主として容保は現地を慰問、義捐金200円(現在の800万円ほどで破格の金額)を寄付したということ。

5-5、英照皇太后からお見舞いを

容保が亡くなる前、病気が重いと聞いた英照皇太后(孝明天皇女御)が、滋養に良いと牛乳を下されたのですが、容保牛乳の香りが苦手と聞きさらにコーヒーを入れて飲むようにと侍医橋本綱常に託され、容保感涙して飲んだという話。

5-6、首にかけた竹筒

容保は晩年、20㎝ほどの竹筒を首にかけ、沐浴以外は絶対に外さなかったということで、死後に息子たちが開けてみると孝明天皇の宸翰が。内容は、いかに孝明天皇が容保を信頼しているかと御製の和歌、長州閥の公家を罵倒された内容。明治政府から買い取りの話が来たが断り、銀行の貸金庫に眠っているという話。しかし明治22年(1889年)、容保から明治天皇に提出され、約1か月で返却されていたことが、宮内庁宮内公文書館の史料から最近になって明らかに。

晩年の容保は、祐堂と号して和歌をたくさん作りましたが、幕末のことはほぼ何も語らず、明治26年に59歳で死去。神号は忠誠霊神(まさね)。

5-7、容保の子孫は皇室へ、そして徳川宗家を相続

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幕末日本史歴史江戸時代

幕末の会津藩主「松平容保」戊辰戦争の悲劇について歴女がとことんわかりやすく解説

4-3、戊辰戦争戦死者の慰霊に

容保は、会津、新潟、白河などで戊辰戦争での戦没者の慰霊、慰霊碑の扁額に揮毫を。高幡不動に新選組の近藤、土方を称える「殉節両雄之碑」(碑文は明治9年、建立は明治21年)をと松本良順が運動し、徳川慶喜に額を頼んだが、涙を流すのみで書くとも書かないとも言わず、結局容保が篆額を書いた話は有名。

4-4、日光東照宮の宮司として、文化財保護に務める

明治13年(1880年)2月2日、栃木県日光市の日光東照宮宮司に就任。
その後上野東照宮祠官や二荒山神社宮司も兼任。尚、元家老の西郷頼母も禰宜となって仕えました。

戊辰戦争時に、日光が戦場になる前に日光東照宮の御神体を会津に運んで守ったということもあり、東照宮の宮司となった松平容保は、明治13年(1880年)明治後の文明開化の時代に荒れ果てた日光の景観を取り戻して、文化財保全を目的とした民間結社である保晃会(ほこうかい)の初代会長に就任。地元有志らとともに全国からの募金を基金にし、その利子で社寺の修繕をという東照宮保全事業を。その後、1887年(明治20年)に「古社寺保存法」が施行され、国から援助金を得ることができるように。
日光東照宮が荒れ果てずに済み世界遺産に指定されたのは、容保のおかげとさえ言われているほど

4-5、皇典講究所監督に

東京と栃木の皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)監督を兼任。

皇典講究所とは、1882年に明治政府が設立した神職の中央機関のこと。神道事務局に代わって神職の教育養成機関としての役割を担っていた現在の國學院大學の前身、母体。

5-1、容保の逸話

逸話の少ない方のようですが、珠玉のような逸話があります。

5-2、招魂祭での逸話

ある年、招魂祭に容保が出席したとき、例年、参加者はお供えのお下がりをいただくが、容保のお膳だけは特別なものを用意したところ、容保候はお膳に箸を付けず、町野主水がすすめると容保候は私のお膳はみんなと同じものかと尋ねられ、違うと答えると、「みんなと同じものを持ってきてくれ、私はこの慰霊祭に参列するのは美食佳肴を食べたいからではなく、参列した人々と旧を語り、古を偲びそして亡霊を弔うため」と。その通りにするとお膳に箸を付けられたということ。

5-3、長年仕えた小姓からみた容保

数十年仕えた小姓浅羽忠之助は容保について「喜怒の感情を表に出さない人柄で、何十年御側にいても、切迫した様子を見せたことがなく、また他人が切迫しているのを見るのも嫌っていた。実に春風の中に座っているような方だったが、思い込んだらその意見は必ず通すという側面もあった」ということ。

5-4、会津磐梯山噴火の際、慰問と寄付を

明治21年(1888年)の会津磐梯山の噴火で大災害が起きた際、旧藩主として容保は現地を慰問、義捐金200円(現在の800万円ほどで破格の金額)を寄付したということ。

5-5、英照皇太后からお見舞いを

容保が亡くなる前、病気が重いと聞いた英照皇太后(孝明天皇女御)が、滋養に良いと牛乳を下されたのですが、容保牛乳の香りが苦手と聞きさらにコーヒーを入れて飲むようにと侍医橋本綱常に託され、容保感涙して飲んだという話。

5-6、首にかけた竹筒

容保は晩年、20㎝ほどの竹筒を首にかけ、沐浴以外は絶対に外さなかったということで、死後に息子たちが開けてみると孝明天皇の宸翰が。内容は、いかに孝明天皇が容保を信頼しているかと御製の和歌、長州閥の公家を罵倒された内容。明治政府から買い取りの話が来たが断り、銀行の貸金庫に眠っているという話。しかし明治22年(1889年)、容保から明治天皇に提出され、約1か月で返却されていたことが、宮内庁宮内公文書館の史料から最近になって明らかに。

晩年の容保は、祐堂と号して和歌をたくさん作りましたが、幕末のことはほぼ何も語らず、明治26年に59歳で死去。神号は忠誠霊神(まさね)。

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