
3-6、容保、暗殺の危険も無事回避
元治元年(1864年)5月頃、池田屋事件直前の時期、長州勢が大勢京に入り込んで不穏な雰囲気のなか、病中の容保は、御所近くの浄華院(清浄華院)で御所の警護中でしたが、黒谷の宿舎で保養することに。
このときに容保襲撃の情報が入ったので、重臣は大いに心配、従者を増やそうとしたが、容保は「元より、自分の仕事は私心をもってのことではなく、天朝・幕府の命を奉じてのことなれば、道理に基づいてのことであり、何も心配する必要はない。万一暴発人が現れたとしても、それもまた天命。人数を増やしてもそれほど変わるまい。決してこれらは心配せず、人数など増やさないように」と断ったので、重臣らは、容保に気付かれないように、道筋に家来を忍ばせて守ったそう。そのとき容保は、びくびくするそぶりもなくいつも通りで家臣たちはその肝の太さに恐れ入ったという話。
この頃、容保は長州人に憎まれ暗殺の恐れがマックスでしたが、こういう逸話をみると暗殺されてしまう人も免れる人も、その人の運命かもしれないような気も。
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3-7、一会桑政権
容保は文久3年(1863年)12月30日、朝議参与になるも、最初だけで出席せず、参預会議は短期間で崩壊。文久4年(1864年)2月11日、長州征伐のために京都守護職を免じられて陸軍総裁職に、京都守護職には松平春嶽が任命、しかし上は孝明天皇から、幕府の奉行や老中から新選組に至るまで、容保を京都守護職にもどせ、春嶽の下で働きたくないという声に押され、春嶽解任。容保は4月7日(5月12日)、軍事総裁職を免職され、4月22日、京都守護職に復職、諸藩共同だった市中警護を、一橋家、京都所司代、幕府歩兵組、京都守護職、新選組で分担することに。また、元治元年(1864年)京都所司代に容保の実弟である桑名藩主松平定敬が任命され、兄弟で京の治安を守る形になり、この時期の京都政局は、一橋慶喜、会津容保、桑名定敬との一会桑政権と呼ばれています。
3-8、第一次長州征伐後、大政奉還まで
容保は将軍家茂に総大将となって出陣するよう進言したが、結局は兄の徳川慶勝が総督、西郷隆盛が参謀となった第一次長州征伐はほぼ西郷が交渉して決着。慶応元年(1866年)、第2次長州征伐では幕府軍は各地で長州軍に撃破されまくり、将軍徳川家茂が大阪城で病没、慶喜によって中止となり、事実上の敗戦。そして慶応2年12月(1867年1月)に孝明天皇が崩御、慶応3年(1868年)10月14日、15代将軍慶喜による大政奉還により江戸幕府が消滅。
慶応3年(1867年)12月9日には薩摩藩、尾張藩、越前藩、土佐藩、芸州藩による政変が起こり、王政復古の大号令が発令され新政府誕生。親幕府派公家が排除され王政復古前に復権した長州藩が新政府に加わり、会津藩が追放される形となって、京都守護職が廃止され慶喜らと共に大阪城へ。
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3-9、鳥羽伏見の戦い後、将軍慶喜に騙されて大坂城から船で江戸へ
慶応4年鳥羽伏見の戦いは、最初は薩摩、長州軍と幕府軍の戦いが3日目に明治天皇の倒幕の密勅で錦の御旗が掲げられ、薩長軍が官軍に。
それを聞いた将軍慶喜は、大坂城で風邪で寝込んでいたのに、朝敵になりたくないために、兵たちには明日出陣と激を飛ばし、夜のうちに容保、弟の定敬、老中の板倉、酒井といったお歴々と、そのときの自分の妾であった新門辰五郎の娘を連れて、コッソリと船で江戸へ逃亡。
容保らを連れて行ったのは、自分の代わりに大将として戦う可能性があったから、そして容保たちには江戸で決戦と言いつくろい有無を言わさぬ態度で同行させたよう。慶喜の一連の行動はその場を取り繕うためのアスペルガー症候群特有の大ウソ。(慶喜の色々な言動から考えるに、この人は発達障害としか思えないんですよね)
慶喜は江戸城へ着くや勝海舟に任せて自分ひとりはさっさと寛永寺で謹慎、容保、定敬兄弟は江戸城登城禁止とし、江戸にいるな会津へ帰れと通達、容保らは慶喜の考えに付いて行けず、キツネにつままれたような気持ちだったはず。そして置き去りにした家臣たちが江戸へ戻ってきた後、容保は申し訳ないと心から謝り、江戸屋敷を引き払って会津へ。
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3-10、容保、会津若松城に籠城

鳥羽伏見の戦いで朝敵とされた会津藩兵たちは最初、「生きて朝敵とされる汚名よりも死をかけて戦う」意気込みでしたが、容保は将軍慶喜が恭順している以上、官軍と一戦を交える気はなく、慶応4年(1868)2月22日容保は会津に帰るとすぐ家督を養子の喜徳(のぶのり、水戸家出身で慶喜の弟)へ譲り、慶喜を見習って謹慎し、新政府に対して降伏の書状を何十通も送ったが、まったく返事なし。そして否応なしに会津に攻めてくる官軍に対し、東北戦線で会津藩は奥羽越列藩同盟の支援を受け、庄内藩と同盟を結ぶなどして、最終的には会津若松城に籠城することに。
3-11、会津戦争へ
籠城と言うのは援軍が来ることを見越して行うもので、容保も、秋月悌二郎、手代木直右衛門(たしろぎ すぐえもん)たち家臣が援軍要請に派遣。しかし無理やり戦争状態に持っていかれた挙句、わずか数千人の会津軍に対して、西軍は3万か4万、そして1か月の間に鶴ヶ城に向かって、多いときは一昼夜に2700発もの砲弾を撃ち込み、城下でも略奪行為など目に余る醜いことを行ったという新政府軍の対応は、本来の武士の戦とは思えないひどさ。これは江戸無血開城となり、官軍の振り挙げた手のおろしどころがなく、京都で会津藩が長州の過激派テロを抑えていたこと、坂本龍馬ら暗殺の疑いなどもあり、今まで幕府側だった会津藩に反政府テロ活動を制圧されていた恨みを官軍という逆の立場になって晴らしていたとしか。
現在も、山口県から福島県に姉妹都市の要請があっても断られる話は、充分理解できます。
3-12、容保、ついに降伏
約1か月の籠城の後、藩主の容保は明治元年(1868年)9月22日降伏し、11月2日、因幡国鳥取藩に幽閉、12月7日、鳥取藩に永預り処分。明治2年(1869年)12月7日、紀伊国和歌山へ、明治4年(1871年)3月14日、陸奥国斗南藩に預替、8月東京に移住、そして明治5年(1872年)2月14日、預り処分を免じられて、明治9年(1876年)11月1日 従五位に叙位と復権。
4-1、明治後の容保
明治後、跡を継いだ長男容大(かたはる)が子爵になり華族に。しかし家の暮らし向きは苦しく、旧家臣たちがお給料から援助してくれたそう
4-2、尾張家相続の打診を断る
By 不明。 – 徳川林政史研究所所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link
容保が39歳の頃、兄慶勝から尾張徳川家継承をと要請された容保は、自分の不徳から起こった幕末の動乱で苦難を蒙った人々のことを思うと、自分だけが会津を離れて他家を継ぐわけにはいかないと断りました。
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