
2-4、容保、孝明天皇の熱烈な支持を受ける
容保は1月2日に京都御所へ参内。小御所で初めて孝明天皇に拝謁し、天杯と緋の御衣が下賜。孝明天皇も勅使の待遇を改めるための容保の建議書や、容保が4つ下の同年配で親しみを持たれたようで、その場で容保に御衣を賜るという、まったく前例のない行動に出られ、「陣羽織か直垂に作り直すがよい」と恩詔が。
容保はこのことに大感激、公卿近衛忠煕(母が高須藩8代藩主の娘なので親戚)から聞いた御所のお台所事情のひどさを心配して、豊かではないポケットマネーで孝明天皇のために新鮮な魚を配送させて献上、孝明天皇が感激された話は有名。
2-5、容保、足利三代将軍木像梟首事件で厳しい取り締まりに
容保は、会津兵に夜中巡邏させる制度を作って、暴徒を警戒。
肥後の轟武兵衛と長州の久坂玄瑞が「三願(攘夷期限の設定、言論の自由、国事掛の厳選)」を願い出たときも、一橋慶喜や松平春嶽は逮捕させようとしたが、容保だけは寛大の処置を、言路洞開こそが浪士鎮撫の良策と主張したほど。
しかし足利三代将軍の木像梟首事件が勃発。これは攘夷派浪士によって、等持院にあった足利将軍3代の木像の首が引き抜かれて三条大橋に晒された事件で、板札は公然と足利将軍の首を徳川将軍に擬していたので、倒幕の意図が明白。これにはさすがの容保も激怒し京都町奉行に追捕を厳命。尚、この事件は容保の家臣で攘夷浪人の仲間に入って動向を探らせていた大庭恭平が関わっていて自白、共犯者もすぐに判明し一斉捕縛ということに。
今まで生ぬるかった容保の態度に、尊攘派浪士たちは一斉に捕縛すれば暴動になると脅したそうですが、容保は本気、町奉行所の与力、捕方たちだけでは心もとないと会津藩士も加勢させましたが、町奉行所の捕方らは信じられないくらいへっぴり腰で役に立たないことが 明らかに。
2-6、容保、壬生浪士を会津藩預かりとして新選組に
時代劇の影響で意外に思われることですが、下手人の取り締まりや逮捕は、古来、武士の仕事としては不浄のもので、会津藩士が直接手を下す仕事ではなかったそう。また奉行所の与力や捕方たちがあの体たらくでは、幕府、将軍の権威失墜にもなりかねないので困っていたところ、3月に上洛した将軍家茂に従ったなかで京都に残っていた壬生の浪士が伝手をたどって会津藩の役に立ちたいと申し出て来たので、願ってもないこととして会津藩預かりの身分を与え、以後「新選組」として直接取り締まりを。
容保にとって、尊王攘夷を唱える浪士は強盗や殺人などで政治や治安を混乱させる存在、ほぼ今でいうテロリストだったので取り締まるのは京都の治安維持のために当然すぎることでした。
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3-1、長州藩尊攘の志士と公家が容保を排除に
この頃、長州藩士たちは三条実美らの公家を懐柔し、偽の勅許を連発して思う通りに世の中を動かし、朝廷を乗っ取り幕府を倒す陰謀を図っていました。なので孝明天皇の信頼厚い容保が邪魔になり、江戸へ帰った将軍を呼び戻すために容保に江戸へ行くようにという偽勅を。これに対し、容保は長州の策略という見方が出来ず、また謀略だと助言する家臣も皆無で、自分と会津兵が京都を去れば京都の治安が乱れる、何とか勅許の撤回をと必死であちこちの公卿に対し家臣を遣わせ説得。
しかしこのとき孝明天皇も、容保が京を離れるのが不安だったということで、前例のない行動に出られて、容保に江戸へ行くようにというのは偽勅である、自分は容保を信頼している、これが本物の勅であるという内容の手紙を容保にあてて送られたそう。容保は孝明天皇に信頼された宸翰を読み、大感激。
宸翰(しんかん)とは
古来、天皇に関しては特別な言葉が使われ、それは最高級の敬語です。顔は玉顔、または竜顔を拝する、体は玉体、声は玉音、気持ちは宸襟(しんきん)、考えは叡慮(えいりょ)、写真は御真影、衣服は御衣、言葉は勅語、命令は勅令、見学は天覧、外出は行幸(ぎょうこう)、死亡は崩御、歌は御製(ぎょせい)そして、直筆の文章、手紙はご宸筆、ご宸翰。
なので天皇のお言葉、気持ちを表した宸翰は、滅多なことで出されることはない貴重なもので、徳川御家門とはいえ一介の大名の容保に御衣を賜る、宸翰を送るなど、前代未聞のこととして、容保の感激、孝明天皇への敬愛の情、信頼におこたえしたいという気持ちは現代人には想像もつかないほどのものだったということ。
3-2、孝明天皇の胸中は

孝明天皇は当時34歳、京都御所焼失で一時聖護院に仮住まいの他は、加茂神社行幸まで京都御所を一歩も出ずに生活という特殊な環境で過ごされた方。学識は深くても世間が狭く江戸幕府の弱体化も西欧諸国の軍備が上だなどとは察せられず。
そして宮中並びに公家諸法度などに縛られていて、関白らの決めたことに口出しできず朝廷の頂点にありながら、独裁者ですらなかったのです。「王城の護衛者」によると、錦絵の獣のようなデフォルメされたペリーをそのまま信じて、こんな異人がこの国へ入ってこられては困ると震え上がられたそう。なので自分の代で外国人が日本を汚すと困るが、戦争をして追い出すことは考えられず、これまで通りに江戸幕府の政治が続き、外国人が消えてほしいと思われていただけ。
従って、孝明天皇ご本人は過激な尊王攘夷の志士とは真逆の、根っからの佐幕派。
なので、過激派の公家たちをどうすることも出来ないところにあらわれた誠実な容保を頼りにするのは当然のこと。
3-3、容保、会津藩兵による馬揃えを天覧に
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容保は、孝明天皇の要請で、7月30日、建春門外で藩兵の馬揃え(軍隊操練)を天覧に。会津兵の勇ましさをパフォーマンスして見せればとの孝明天皇のお考え。
このとき3日ほど雨が続き、過激派公卿は「雨天順延」の命を出したあとに、急に叡覧の命を出し、容保に恥をかかせようと姑息ないけずをしたそうですが、容保は準備万端、大軍の操練を。天皇はこれを大変楽しまれ、8月5日に馬揃えを再度天覧。終了後、容保は御車寄に召されてお言葉を賜ったが、初参内で賜わった緋の御衣を仕立て直した陣羽織を見て孝明天皇は喜ばれたそう。
3-4、容保、8月18日の政変で薩摩と手を組み長州を追放
この頃、過激派長州に遅れを取った薩摩藩が軍事力を持つ会津と同盟を組みたいと申し出が。容保は了承、そして8月13日に大和の詔として三条実美と真木和泉が偽勅を出したとき、容保ではなく薩摩藩が中川宮、近衛前関白らに根回しを。
8月16日、中川宮はひそかに参内して奸臣を除く議を奏上。孝明天皇より「国家の害を除くべし。容保に命を伝えよ」との真勅が。 8月17日夜半、会津、薩摩、その他4藩にて御所九つの門を固め、翌朝には出動した長州藩との激論にらみ合い、宮廷内の公家たちは大騒ぎとなり「長州兵は3万」という流言も飛び交い震えあがったが、孝明天皇は「全て容保に任す」と言い、容保は落ち着いて場を鎮めたそう。
結果、三条実美らは蟄居となって長州へ七卿落ち。
長州では「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」と、薩摩と会津を恨むように。
3-5、容保、病気で寝込む
容保は京の政局で、話のわからない幕府と過激な攘夷派とに悩まされ続けていました。のちに家臣山川浩は「わが公の多忙なことは、一つ処理すればすでに数件の難事件が双肩にかかるありさまで、禁中・二条城・各屋敷を奔走し、その苦心は筆舌にあらわし得ないほど」と書いたくらい。
とうとう文久3年末から慶応元年4月にかけて、容保は風邪をこじらせて起き上がれない状態に。心労か胆管の病気、または軽い結核と推察され、禁門の変でも家臣に抱えられるようにして参内、小御所で孝明天皇をお守りし、その後病状悪化。この頃は病気もあって京都守護職を退任したいと幕府に願い出ても許可されず、混とんとする京都の政局であまり動きが取れず。
孝明天皇も、容保の病状を大変心配され、毎日容保の病気平癒を願って祈祷。なかなか快方に向かわないので、「蟇目の術」を施そうと別の祈祷方法に替え、今朝は鈴の音が清らかだったので容保はきっと快方に向かうと供物の洗米を数粒ずつ飲むようにと託されるなど、容保は病床で感涙。
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