
その辺のところを昔から容保に興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、容保は、尾張徳川家の分家の高須松平家の生まれ
- 1-2、会津松平家へ養子に
- 1-3、容保、18歳で会津藩主に
- 1-4、容保、22歳で容敬娘と結婚
- 1-5、容保、桜田門外の変後の水戸藩の処理で発言し、注目される
- 2-1、容保、新設の京都守護職に
- 2-2、容保、公武一和のための建白書を幕府へ提出
- 2-3、容保上洛
- 2-4、容保、孝明天皇の熱烈な支持を受ける
- 2-5、容保、足利三代将軍木像梟首事件で厳しい取り締まりに
- 2-6、容保、壬生浪士を会津藩預かりとして新選組に
- 3-1、長州藩尊攘の志士と公家が容保を排除に
- 3-2、孝明天皇の胸中は
- 3-3、容保、会津藩兵による馬揃えを天覧に
- 3-4、容保、8月18日の政変で薩摩と手を組み長州を追放
- 3-5、容保、病気で寝込む
- 3-6、容保、暗殺の危険も無事回避
- 3-7、一会桑政権
- 3-8、第一次長州征伐後、大政奉還まで
- 3-9、鳥羽伏見の戦い後、将軍慶喜に騙されて大坂城から船で江戸へ
- 3-10、容保、会津若松城に籠城
- 3-11、会津戦争へ
- 3-12、容保、ついに降伏
- 4-1、明治後の容保
- 4-2、尾張家相続の打診を断る
- 4-3、戊辰戦争戦死者の慰霊に
- 4-4、日光東照宮の宮司として、文化財保護に務める
- 4-5、皇典講究所監督に
- 5-1、容保の逸話
- 5-2、招魂祭での逸話
- 5-3、長年仕えた小姓からみた容保
- 5-4、会津磐梯山噴火の際、慰問と寄付を
- 5-5、英照皇太后からお見舞いを
- 5-6、首にかけた竹筒
- 5-7、容保の子孫は皇室へ、そして徳川宗家を相続
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。幕末、明治維新に興味津々。子供の頃、司馬遼太郎著「王城の護衛者」を読んで以来のファンである松平容保について詳しくまとめた。
1-1、容保は、尾張徳川家の分家の高須松平家の生まれ
天保6年(1835年)12月29日、江戸の高須藩邸で藩主松平義建の6男として誕生。母は側室の古森氏で、幼名を銈之允(けいのすけ)。元服して容保(かたもり)。
高須松平家の兄弟は、男兄弟が10人(4人が夭折)、長兄が尾張慶勝、浜田藩主で早世した武成、慶勝の跡に尾張藩主、後に一橋家を継いだ茂徳(もちなが)、容保、そして11歳下の桑名藩主で京都所司代の定敬(さだあき)、末弟が同母弟で高須松平家を継いだ義勇(よしたけ)。このなかで慶勝、武成、容保、定敬を高須4兄弟。他に妹として、出羽国米沢藩13代藩主上杉 茂憲(うえすぎ もちのり)の室幸(早世)。父義建は息子たちを自分で教育して育て、全員が大名に。
1-2、会津松平家へ養子に
弘化3年(1846年)、実の叔父(父の弟)の会津藩第8代藩主容敬(かたたか)の養子に。容保は、「お子柄がいい」と会津家の男女が騒ぐほどの美貌の少年。ただ容保はすぐに発熱、疲労がたまると顔が青くなるひ弱さが。
この頃12歳で江戸城に登城、溜間で退屈して烏帽子の紐をほどいて舐っていたら、井伊直弼が結び直してくれたという逸話があり、井伊直弼が目をかけていたという話も。
容敬は、容保を会津の家風に基づいて教育。神道(敬神崇祖における皇室尊崇)、儒教の義と理、会津藩家訓の「武家の棟梁たる徳川家への絶対随順」などで、後の京都守護職としての容保の行動指針に。
嘉永4年(1851年)、容保は初めてのお国入りで会津へ、文武を修め、追鳥狩を行い、藩校の日新館で文武の演習を閲しました。
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井伊直弼と養父容敬
容保の叔父でもある容敬は江戸城の溜間詰で、高松藩主松平頼胤と共に、兄の継承者となった32歳の井伊直弼を先輩として支援、色々と世話を焼いたということで、直弼は容敬を「当今英雄の大将、天下の御為無二の忠臣、実に感服いたし候」と尊敬を。容敬が容保を養子にしたとき、「急に2人の子供の(容保と敏姫)の父親になったような心境」と喜んだということ。あの井伊直弼に尊敬された養父容敬、なかなかの人物だったのですね。
1-3、容保、18歳で会津藩主に
嘉永5年(1852年)2月10日に藩主容敬が47歳で亡くなり、容保が9代目会津藩主松平肥後守を継承。嘉永6年(1853年)4月、ペリーの黒船来航に伴って、安房、上総の警備地を巡視、士卒の操練や船の運用、会津藩は品川第二砲台管守に。 安政元年(1854年)将軍家定の命により、駒場野にて老中、若年寄に会津藩士千人余りを率いた教練を披露。安政の大地震では会津上屋敷和田倉邸と下屋敷の芝邸が焼失、死者165名の大惨事となるも被災者の救済に。安政6年(1859年)品川の守備を解かれ蝦夷地の守備を。
1-4、容保、22歳で容敬娘と結婚
安政3年(1856年)14歳の従妹敏姫と結婚、しかし敏姫は病弱で文久元年(1861年)に19歳で死去。その翌年、容保は加賀藩主前田慶寧の長女禮姫(みちひめ)と婚約、12月に京都守護職として上洛し、京に長期滞在したため婚儀は延期、その後明治4年(1871年)の廃藩置県を機に縁組を正式に解消。
1-5、容保、桜田門外の変後の水戸藩の処理で発言し、注目される
万延元年(1860年)、26歳のときに桜田門外の変が勃発。事件後、老中久世広周、安藤信正が、井伊直弼を暗殺した水戸浪士に関連して御三家の水戸藩へ出兵の是非を論じたとき、容保は徳川御三家同士の争いは絶対不可と主張、幕府と水戸藩との調停に。そして容保は問題となった水戸家への密勅の返還問題について、家臣を水戸に派遣して武田耕雲斎、原市之進らを説得させて勅書を幕府に返上、解決。
それまで容保は学者肌でおとなしいだけかと思われていたのに意外な有能さを発揮し、俄然注目されましたが、容保の父は水戸家の出身で斉昭の従兄弟に当たること、養父容敬と井伊直弼との関係などもこの問題解決に役立ったはず。
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2-1、容保、新設の京都守護職に
容保28歳の文久2年(1862年)、将軍家茂より「折々登城し幕政の相談にあずかるように」と命じられて幕政参与に。京の都の治安悪化で新設の京都守護職にと打診を。この時、容保は病床にあったこともあり固辞、再三にわたり断ったのに、政治総裁職の松平春嶽や幕臣は容保を日夜説得、会津藩家訓を持ち出されて、藩祖正之公ならば受けただろうとすら言われ、拝命せざるを得ない状態に。
国元から家老の西郷頼母、田中土佐らが駆け付け、就任を断わるように主張、「このころの情勢、幕府の形勢が非であり、いまこの至難の局に当たるのは、まるで薪を背負って火を救おうとするようなもの。おそらく労多くして功少なし」と容保を説得。しかし容保は、「そもそも我家には宗家と盛衰存亡を共にすべしという藩祖公の遺訓が。余不肖といえども一日も報效を忘れたことはない。ただ不才のため宗家に累を及ぼすことを怖れただけ。他の批判で進退を決めるようなことはないが、いやしくも安きをむさぼるとあっては決心するよりほかない。しかし、重任を拝するとあれば我ら君臣の心が一致しなければその効果は見られないだろう。卿ら、よろしく審議をつくして余の進退を考えてほしい」と、悲壮な決意を表明、家臣らは容保の衷悃(ちゅうこん、まことのまごころと言う意味)に感激、「この上は義の重きにつくばかり、共に京の地を死に場所としよう」と、君臣ともに肩を抱いて涙したというのは「京都守護職始末」にある有名な話。
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2-2、容保、公武一和のための建白書を幕府へ提出
容保は、国家混乱を治めるためには、公武一和(公武合体)として、朝廷と幕府が協力して国内の混乱を平定したうえで対外政策を取ることが目的だという内容の建議書を幕府へ提出、この容保の建白を幕府は採用、また、孝明天皇も容保の建議書の話を聞かれて「中正の卓見」(偏らない優れた見識)とお喜びに。
2-3、容保上洛

この頃の京都は、尊王攘夷の志士と称する浪人たちが暴徒と化し、暗殺が横行、商店に金銭をたかるなど好き放題なのに、弱体化していた京都所司代と京都奉行所は手を出せず、取り締まりを放棄したも同然で無政府状態、庶民は不安におののいたそう。
容保は、文久2年12月24日、会津藩兵千人を率いて上洛、京都守護職に着任。京都庶民は整然とした会津の兵たちと容保の姿に感銘を受け、公家たちは容保の着任の挨拶や立ち居振る舞いが折り目正しいために、好感度大だったそう。
容保は権謀術数を用いることが苦手なので、言路洞開(げんろどうかい)話し合いで解決しようとし、また策を用いずに誠実な対応をモットーに、自分を訪ねてきたら酒を酌み交わして話し合ってもいいとさえ言い、尊王攘夷の志士の暴挙を防ぎ京都の治安維持という任務遂行をするつもりでした。また、ある家臣の、今は様々な策謀が巡る混乱の時局なので我々も策を弄したほうがという進言に容保は「策は用いるな。最後には必ず一途な誠忠が勝つ」と叱ったそう。そして家臣が至らず失敗をして市民から訴えがあっても、すべてを主君である自分の不肖として、絶対に家臣を責めなかったので、家臣たちも容保にならってしっかり職務の責任を果たしたということ。
それに上品な美形のせいか、京の都大路では「会津中将が行かはるで」と、若い女の子たちが我先に走って見に行ったとか、御所に参内すると女官たちが騒いだという話も。
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