
錦の御旗による旧幕府軍の士気低下
鳥羽・伏見の戦いが起こって1日経過した1月4日、旧幕府軍が反撃する中で新政府軍は切り札を使います。その切り札とは「錦の御旗」で、これを掲げて新政府軍は自分達が朝廷の軍であることを旧幕府軍に示したのです。この効果は絶大で、旧幕府軍は戦意を失うほどでした。
何しろ、旧幕府軍からすれば戦う相手が錦の御旗を持っているということは、その相手を攻撃すれば自分達は天皇の敵……つまり日本の敵となってしまうわけですからね。逆賊となってしまうことを理解した旧幕府軍の士気は一気に下がってしまうのでした。
実際、朝廷は同日に仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)を征夷大将軍に任命しており、錦の御旗と節刀を与えて新政府軍は官軍となったのです。錦の御旗は京都でも西郷隆盛が掲げており、戦いに不参加だったいくつかの藩もそれを見て次々と新政府軍につきました。
徳川慶喜の逃亡と鳥羽・伏見の戦いの決着
さて、効果絶大となった錦の御旗に最も影響を受けたのは旧幕府軍のトップである徳川慶喜だったに違いありません。なぜなら徳川慶喜の母は皇族でしたし、しかも出身柄天皇を強く崇拝していたからです。この時、徳川慶喜は自ら戦うことはなく大坂城に身を潜めていました。
新政府軍との戦いに敗北した旧幕府軍は大坂城に撤退してきますが、戦意のない徳川慶喜は兵士達に言葉を残すと側近を連れて江戸に逃亡してしまいます。当然残された兵士達は戦意を失い……と言うよりも戦いの目的すら失った形になってしまい、大坂城を放棄して次々と帰っていきました。
こうして鳥羽・伏見の戦いは新政府軍が勝利、旧幕府軍は朝敵とみなされて徳川慶喜には追討令が出されます。もぬけの殻となった大阪城は新政府軍が取り上げる形となり、京坂一帯は新政府軍の支配下となったのです。ただ、鳥羽・伏見の戦いはこれで終わったものの、戊辰戦争はまだ続いていきます。
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旧幕府軍の敗因
鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍が敗北しましたが、ここで旧幕府軍の敗北の原因を考えてみましょう。上記で解説したとおり、旧幕府軍の兵力は新政府軍のそれと比べて圧倒的に勝っており、新政府軍の5000人に対して旧幕府軍は15000人の兵力でした。
ただ戦場となった場所は道が狭く、例えば関ヶ原の戦いのように広い場所で一斉攻撃できたわけではないため、兵力の多さを活かせなかったのがまず敗因の一つでしょう。次に指揮官の問題で、旧幕府軍はこれだけの兵力を統率できるだけの指揮官がおらず、逃走する者もいたほどでした。
このため戦略らしい戦略が一切なく、各自が勝手に戦っていたため充分な作戦が展開されなかったことも敗北につながったのでしょう。そして三つ目に京都の情勢を把握できなかったこと、旧幕府軍は戦わずして京都に辿り着けると甘く考えており、つまり戦闘の準備をしていなかったため奇襲で大きなダメージを受けてしまったのです。
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