今日は鳥羽・伏見の戦いについて勉強していきます。江戸時代の終わり、日本において鎌倉時代から続いてきた幕府の歴史に終止符を打つ戦いとなったのが戊辰戦争です。

そして戊辰戦争の中ではいくつもの戦いが起こるが、鳥羽・伏見の戦いはその初戦となる。今回は戊辰戦争の中から鳥羽・伏見の戦いについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から鳥羽・伏見の戦いをわかりやすくまとめた。

戊辰戦争が起こるいきさつ

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大政奉還による江戸幕府の終わり

1854年に開国して以降、日本では倒幕ムードが漂うようになります。不平等条約とされる日米修好通商条約を天皇に無許可で調印、安政の大獄で攘夷派を厳しく弾圧、こうした幕府の行いに対して不満が高まり、薩摩藩や長州藩は武力による倒幕の考えを持つようになりました。

1867年、公家の岩倉具視は天皇より徳川慶喜討伐の指示を意味する「討幕の密勅」を手に入れます。最も、後にこれは偽の勅書ではないかとされていますが、そんなことを知らない徳川慶喜はこの情報を手に入れて焦りました。何しろ自身の討伐を天皇が指示したとなれば、焦るのも無理はないでしょう。

この頃の幕府は既に力を失っていましたから、武力で対抗する術もなく、このままではただ討伐されるのを待つばかりの状態です。怖れた徳川慶喜は自ら幕府を終わらせようと翌日すぐさま大政奉還を行い、政権を朝廷へと返上することにしました。そして朝廷はこれを受理、こうしてあっけない形でひとまず幕府の歴史は終わります。

徳川慶喜の本心と戊辰戦争の勃発

大政奉還で政権が朝廷に返上されたことで、幕府の将軍ではなく朝廷の天皇による政治が始まります。しかし、いくら人気があるとは言え明治天皇はまだ若く、それ以前にこれまで政治らしい政治を行っていなかった朝廷が果たして満足な政治をできるのでしょうか。

そんな考えから、徳川慶喜は大政奉還しつつも自分は政治の世界に残ろうと企み、その思惑どおり事は進みつつありました。一方、薩摩藩・長州藩はこの状況が面白くありません。徳川慶喜の大政奉還によって「討幕の密勅」を実行する機会を失い、しかも依然徳川慶喜が政治を行っているわけですからね。

そこで薩摩藩の西郷隆盛は徳川慶喜に対して散々挑発行為を行います。その結果、徳川慶喜は薩摩藩……つまり新政府軍を倒す気持ちが向上、こうして新政府軍と徳川慶喜率いる旧幕府軍が争うことになり、その争いこそ戊辰戦争と呼ばれる戦争なのでした。

鳥羽・伏見の戦いの勃発

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鳥羽 新政府軍の奇襲で敗走する旧幕府軍

1868年の1月3日の鳥羽街道、ここで旧幕府軍の部隊の先頭……すなわち先鋒が薩摩軍に遭遇します。旧幕府軍はそのまま通行しようとしますが薩摩軍はこれを阻止、街道を通行するしないで揉めた末、強引に通行しようとした旧幕府軍に対して薩摩藩は一斉に発砲しました。

戦闘を予測していなかった旧幕府軍はこれに混乱、銃に弾すら詰めていない状況の中、薩摩軍は大砲まで使って攻撃してきたのです。こうして奇襲を受けた旧幕府軍は反撃を試みるも劣勢は変わらず、薩摩軍の激しい攻撃によって敗れた旧幕府軍は逃げるしかありませんでした。

同じ頃、伏見においても全く同じ状況が起こります。やはり通行を巡って新政府軍と旧幕府軍が揉めており、ここでの新政府軍は薩摩藩・長州藩の兵士達でした。そして、鳥羽方面から銃声が聞こえたことをきっかけにここでも新政府軍と旧幕府軍が戦闘を開始します。

伏見 本陣を焼かれて敗走する旧幕府軍

旧幕府軍の会津藩兵新選組は突撃を繰り返して新政府軍を攻めますが、高台に陣取っていた薩摩藩の兵士達の砲撃によって旧幕府軍の本陣である奉公所が炎上しました。さらに新政府軍は近くの民家にも放火、炎に包まれた戦場で銃撃を受け続けた旧幕府軍は退却を余儀なくされます。

旧幕府軍を追い詰めた新政府軍は旧幕府軍の本陣である奉公所にまで突入、旧幕府軍の指揮官に任命されていた陸軍奉行の竹中重固は残った部隊を放置して逃亡していきました。鳥羽・伏見で起こった戦いはこうして新政府軍が有利に展開していきますが、この結果はむしろ意外だったかもしれません。

と言うのも、兵力の差では旧幕府軍が圧倒的に勝っており、新政府軍5000人の兵に対して旧幕府軍は15000人もの兵を揃えていたからです。つまり、兵士の数においては旧幕府軍が完全に有利でしたが、指揮官の逃亡などによってそれを戦略に活かしきれず敗北することになりました。

\次のページで「鳥羽・伏見の戦いの結末」を解説!/

鳥羽・伏見の戦いの結末

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錦の御旗による旧幕府軍の士気低下

鳥羽・伏見の戦いが起こって1日経過した1月4日、旧幕府軍が反撃する中で新政府軍は切り札を使います。その切り札とは「錦の御旗」で、これを掲げて新政府軍は自分達が朝廷の軍であることを旧幕府軍に示したのです。この効果は絶大で、旧幕府軍は戦意を失うほどでした。

何しろ、旧幕府軍からすれば戦う相手が錦の御旗を持っているということは、その相手を攻撃すれば自分達は天皇の敵……つまり日本の敵となってしまうわけですからね。逆賊となってしまうことを理解した旧幕府軍の士気は一気に下がってしまうのでした。

実際、朝廷は同日に仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)を征夷大将軍に任命しており、錦の御旗と節刀を与えて新政府軍は官軍となったのです。錦の御旗は京都でも西郷隆盛が掲げており、戦いに不参加だったいくつかの藩もそれを見て次々と新政府軍につきました。

徳川慶喜の逃亡と鳥羽・伏見の戦いの決着

さて、効果絶大となった錦の御旗に最も影響を受けたのは旧幕府軍のトップである徳川慶喜だったに違いありません。なぜなら徳川慶喜の母は皇族でしたし、しかも出身柄天皇を強く崇拝していたからです。この時、徳川慶喜は自ら戦うことはなく大坂城に身を潜めていました。

新政府軍との戦いに敗北した旧幕府軍は大坂城に撤退してきますが、戦意のない徳川慶喜は兵士達に言葉を残すと側近を連れて江戸に逃亡してしまいます。当然残された兵士達は戦意を失い……と言うよりも戦いの目的すら失った形になってしまい、大坂城を放棄して次々と帰っていきました。

こうして鳥羽・伏見の戦いは新政府軍が勝利、旧幕府軍は朝敵とみなされて徳川慶喜には追討令が出されます。もぬけの殻となった大阪城は新政府軍が取り上げる形となり、京坂一帯は新政府軍の支配下となったのです。ただ、鳥羽・伏見の戦いはこれで終わったものの、戊辰戦争はまだ続いていきます。

旧幕府軍の敗因とその後

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旧幕府軍の敗因

鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍が敗北しましたが、ここで旧幕府軍の敗北の原因を考えてみましょう。上記で解説したとおり、旧幕府軍の兵力は新政府軍のそれと比べて圧倒的に勝っており、新政府軍の5000人に対して旧幕府軍は15000人の兵力でした。

ただ戦場となった場所は道が狭く、例えば関ヶ原の戦いのように広い場所で一斉攻撃できたわけではないため、兵力の多さを活かせなかったのがまず敗因の一つでしょう。次に指揮官の問題で、旧幕府軍はこれだけの兵力を統率できるだけの指揮官がおらず、逃走する者もいたほどでした。

このため戦略らしい戦略が一切なく、各自が勝手に戦っていたため充分な作戦が展開されなかったことも敗北につながったのでしょう。そして三つ目に京都の情勢を把握できなかったこと、旧幕府軍は戦わずして京都に辿り着けると甘く考えており、つまり戦闘の準備をしていなかったため奇襲で大きなダメージを受けてしまったのです。

\次のページで「旧幕府軍のその後」を解説!/

旧幕府軍のその後

朝敵となって新政府軍に追われることになった徳川慶喜ですが、ここで徳川慶喜は命を落とすことはありませんでした。旧幕臣の勝海舟、そして新政府側についている薩摩藩の西郷隆盛との間で江戸無血開城の交渉が成立し、戦わずして徳川慶喜と幕府は終わりを迎えることになったのです。

この江戸無血開城は戦いではなく交渉で問題を解決しており、一切の犠牲者を出さなかったことで西郷隆盛は評価されました。しかしこれで戦いが終わったわけではなく、東北地方や北陸地方などで戦いが勃発して戊辰戦争はまだ続き、会津戦争・箱館戦争などが起こっていったのです。

鳥羽・伏見の戦いの戦いはあくまで戊辰戦争の初戦であり、1868年に勃発した戊辰戦争が終わるのは翌1869年のことでした。最後の舞台となった箱館戦争では新選組の土方歳三が戦死、五稜郭のある地での土方歳三の死はドラマのテーマになるほど有名ですね。

戊辰戦争後の日本と鳥羽・伏見の戦いのまとめ

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戊辰戦争後の日本

旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争によって、これまで日本で300年以上も続いてきた幕府の歴史は終わりました。その後は明治政府が誕生して明治天皇による新政治が始まりますが、決して平和が訪れたわけではありません。と言うのも、この後日本では戊辰戦争以来の内戦である西南戦争が起こるのです。

戊辰戦争で活躍した薩摩藩の西郷隆盛は、戊辰戦争時は明治政府側についているものの、新政治を行う過程で不満が溜まっていきます。いや、西郷隆盛だけでなく戊辰戦争で活躍した多くの士族が明治政府に不満を抱くようになり、ついには反乱を起こして明治政府と戦うのでした。

江戸時代、武士の階級についていた士族は倒幕……つまり、江戸幕府を倒して明治政府の誕生に力を貸します。ところが、その士族達はやがて明治政府のやり方に不満が溜まっていき、とうとう我慢できなくなって仕掛けた戦いこそ、日本の歴史において最後の内戦となる西南戦争です。

鳥羽・伏見の戦いのまとめ

倒幕の動きが漂う中、徳川慶喜はその情報を知ると大政奉還を行って自ら幕府を終わらせました。倒すべき幕府がなくなったことで倒幕は延期されたものの、倒幕派にとって不満だったのは徳川慶喜が依然政治の中心に立っているという状況で、これでは江戸幕府の頃と全く変わりません。

そこで倒幕派だった薩摩藩の西郷隆盛が執拗に挑発、ついに徳川慶喜……つまり、旧幕府側と戦争する形を作ることに成功します。これが1868年に起きた戊辰戦争で、鳥羽・伏見の戦いはその初戦となった戦いでした。新政府軍と旧幕府軍の戦いがこれで始まることになります。

兵力では旧幕府軍が圧倒していたものの、戦場の狭さや指揮官の逃亡などによって意外にも苦戦、この戦いに勝利したのは新政府軍でした。徳川慶喜はとうとう力を失って幕府も正真正銘終わりを迎えるものの、戦火はさらに広がっていき戊辰戦争は一年も続いていったのです。

鳥羽・伏見の戦いは戊辰戦争とセットで覚える

本文でも何度か解説したとおり、鳥羽・伏見の戦いは戊辰戦争の初戦です。このため、鳥羽・伏見の戦いを覚えてそれで終わりではなく、その後の戊辰戦争もしっかり覚えていきましょう。

ただ戊辰戦争では何度か戦いが起こるため、完全に覚えるのは大変かもしれません。そこで重要な戦いに的を絞ると、最後の舞台となった箱館戦争、そして今回解説した鳥羽・伏見の戦いをまずは覚えてください。

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幕末日本史歴史江戸時代

戊辰戦争の初戦!「鳥羽・伏見の戦い」ー元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は鳥羽・伏見の戦いについて勉強していきます。江戸時代の終わり、日本において鎌倉時代から続いてきた幕府の歴史に終止符を打つ戦いとなったのが戊辰戦争です。

そして戊辰戦争の中ではいくつもの戦いが起こるが、鳥羽・伏見の戦いはその初戦となる。今回は戊辰戦争の中から鳥羽・伏見の戦いについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から鳥羽・伏見の戦いをわかりやすくまとめた。

戊辰戦争が起こるいきさつ

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大政奉還による江戸幕府の終わり

1854年に開国して以降、日本では倒幕ムードが漂うようになります。不平等条約とされる日米修好通商条約を天皇に無許可で調印、安政の大獄で攘夷派を厳しく弾圧、こうした幕府の行いに対して不満が高まり、薩摩藩や長州藩は武力による倒幕の考えを持つようになりました。

1867年、公家の岩倉具視は天皇より徳川慶喜討伐の指示を意味する「討幕の密勅」を手に入れます。最も、後にこれは偽の勅書ではないかとされていますが、そんなことを知らない徳川慶喜はこの情報を手に入れて焦りました。何しろ自身の討伐を天皇が指示したとなれば、焦るのも無理はないでしょう。

この頃の幕府は既に力を失っていましたから、武力で対抗する術もなく、このままではただ討伐されるのを待つばかりの状態です。怖れた徳川慶喜は自ら幕府を終わらせようと翌日すぐさま大政奉還を行い、政権を朝廷へと返上することにしました。そして朝廷はこれを受理、こうしてあっけない形でひとまず幕府の歴史は終わります。

徳川慶喜の本心と戊辰戦争の勃発

大政奉還で政権が朝廷に返上されたことで、幕府の将軍ではなく朝廷の天皇による政治が始まります。しかし、いくら人気があるとは言え明治天皇はまだ若く、それ以前にこれまで政治らしい政治を行っていなかった朝廷が果たして満足な政治をできるのでしょうか。

そんな考えから、徳川慶喜は大政奉還しつつも自分は政治の世界に残ろうと企み、その思惑どおり事は進みつつありました。一方、薩摩藩・長州藩はこの状況が面白くありません。徳川慶喜の大政奉還によって「討幕の密勅」を実行する機会を失い、しかも依然徳川慶喜が政治を行っているわけですからね。

そこで薩摩藩の西郷隆盛は徳川慶喜に対して散々挑発行為を行います。その結果、徳川慶喜は薩摩藩……つまり新政府軍を倒す気持ちが向上、こうして新政府軍と徳川慶喜率いる旧幕府軍が争うことになり、その争いこそ戊辰戦争と呼ばれる戦争なのでした。

鳥羽・伏見の戦いの勃発

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鳥羽 新政府軍の奇襲で敗走する旧幕府軍

1868年の1月3日の鳥羽街道、ここで旧幕府軍の部隊の先頭……すなわち先鋒が薩摩軍に遭遇します。旧幕府軍はそのまま通行しようとしますが薩摩軍はこれを阻止、街道を通行するしないで揉めた末、強引に通行しようとした旧幕府軍に対して薩摩藩は一斉に発砲しました。

戦闘を予測していなかった旧幕府軍はこれに混乱、銃に弾すら詰めていない状況の中、薩摩軍は大砲まで使って攻撃してきたのです。こうして奇襲を受けた旧幕府軍は反撃を試みるも劣勢は変わらず、薩摩軍の激しい攻撃によって敗れた旧幕府軍は逃げるしかありませんでした。

同じ頃、伏見においても全く同じ状況が起こります。やはり通行を巡って新政府軍と旧幕府軍が揉めており、ここでの新政府軍は薩摩藩・長州藩の兵士達でした。そして、鳥羽方面から銃声が聞こえたことをきっかけにここでも新政府軍と旧幕府軍が戦闘を開始します。

伏見 本陣を焼かれて敗走する旧幕府軍

旧幕府軍の会津藩兵新選組は突撃を繰り返して新政府軍を攻めますが、高台に陣取っていた薩摩藩の兵士達の砲撃によって旧幕府軍の本陣である奉公所が炎上しました。さらに新政府軍は近くの民家にも放火、炎に包まれた戦場で銃撃を受け続けた旧幕府軍は退却を余儀なくされます。

旧幕府軍を追い詰めた新政府軍は旧幕府軍の本陣である奉公所にまで突入、旧幕府軍の指揮官に任命されていた陸軍奉行の竹中重固は残った部隊を放置して逃亡していきました。鳥羽・伏見で起こった戦いはこうして新政府軍が有利に展開していきますが、この結果はむしろ意外だったかもしれません。

と言うのも、兵力の差では旧幕府軍が圧倒的に勝っており、新政府軍5000人の兵に対して旧幕府軍は15000人もの兵を揃えていたからです。つまり、兵士の数においては旧幕府軍が完全に有利でしたが、指揮官の逃亡などによってそれを戦略に活かしきれず敗北することになりました。

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