
キリシタン大名でもあった三法師

文禄3年(1594年)正月、新公家衆の一人として、また翌年、1595年には関白となった豊臣秀次に付き添い参内(皇居に参上すること)しています。この頃には、羽柴姓も下賜されていたようで、かなりの高待遇ぶりが伺えますね。そして、文禄4年(1595年)、弟の織田秀則とともにキリスト教に入信した三法師、洗礼名はパウロ。ルイスフロイス(ポルトガルの宣教師)は、「生まれもって位が高く、大きな期待がかけられる」と三法師を賞賛しています。
しかし、当時は秀吉がバテレン追放令を発していたこともあり、公に活動することは控えていました。キリシタンであったことも隠していたと言われています。慶長3年(1598年)、秀吉が亡くなると積極的に信仰を開始。翌年には、岐阜城下に教会や司祭館・養生所などを建設し、尾張・美濃は信者が加増していきました。三法師の家臣たちも大半が信者であったと、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(イタリア人のカトリック教会の司祭)によって報告されています。一方で、寺社の建立や寺院の保護なども行い、三法師が岐阜城主となっていた時代には争いや一揆などはほとんど起こりませんでした。
関ヶ原の戦いでは、西軍に付く

慶長5年(1600年)7月1日、三法師は徳川家康の会津征伐に従軍する予定でしたが、軍装の準備が間に合わず遅れをとってしまいます。後に石田三成が蟄居していた佐和山城から挙兵。関ヶ原の戦いへと移行します。三法師は三成から戦勝した暁には「美濃・尾張の2か国を与える」と誘われ、あっさりと西軍に味方することを決めてしまいました。三法師が西軍に付いたことで、美濃の諸大名の大半が西軍に味方。筆頭家老の百々綱家や木造長政(こづくり ながまさ)・飯沼長資(いいぬまながすけ)は、徳川に付くよう三法師を説得しますが聞き入れてもらえませんでした。
8月21日、美濃に迫る東軍の池田輝政・浅野幸長・山内一豊らが率いる軍勢1万8千が木曽川を渡り岐阜城に接近。三法師はこれに応戦するため、羽栗郡米野村(現在の岐阜県羽島郡笠松町)に綱家・長資隊を置き、各務郡新加納村(現在の岐阜県各務原市/かかみがはらし)などにも軍政を配置するなどして、9千の兵を分散させる作戦を取りました。8月22日、米野村で激突した両軍でしたが、兵を分散していた西軍は僅か3千の兵で応戦。三法師も自ら出陣し、指揮を取りますが東軍1万8千の多勢には敵わず、長資は戦死。三法師・綱家は岐阜城へ撤退します。こうして関ヶ原の戦いの前哨戦・米野の戦いは東軍が勝利しました。
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岐阜城の戦いでも敗北
By 不明 – 鳥取県立美術館所蔵品。Tottori prefectural art museum,Japan, パブリック・ドメイン, Link
池田輝政と福島正則の軍は岐阜城の南、荒田川に陣を敷きます。慶長5年(1600年)8月23日、岐阜城に籠城する三法師は、大垣城と犬山城に援軍を要請。しかし犬山城に籠城していた石川 貞清(いしかわ さだきよ)は東軍の井伊直政と内通しており、援軍が送られてくることはありませんでした。大垣城からの援軍は岐阜城に向かっていましたが、途中で藤堂高虎・黒田長政隊に攻撃され敗走してしまいます。
こうして岐阜城を包囲した東軍は、本丸以外を全て堕としました。三法師も抵抗を続けていましたが、圧倒的な兵力の差に兵は数十人にまで追い込まれ、負けを覚悟した三法師は自害を決意。しかし、池田輝政や家臣の木造長政らに説得され、降伏します。こうして、岐阜城は僅か1日で落城。米野の戦いに続き、関ヶ原の前哨戦、岐阜城の戦いも東軍勝利で終結しました。池田輝政の父、恒興は信長とは乳兄弟。輝政も三法師には色々な思いがあったのかもしれませんね。
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